3 研究室の窓 ・・・折々の感想から

1999年春ー2000年冬、イギリス訪問記

2000年夏、中国訪問記 (2002年冬、追記 宋さん来日new

海外研修の思い出 〜1999−2000〜 (一部のみ。続きは執筆中。)

2000年6月始め、そろそろ梅雨
2000年11月15日、飲み会、同僚たちと 
     


1999年春−2000年冬、イギリス訪問記

  (これは「日本の科学者」の山口支部の「つうしん」に2000年の春に掲載したものを基にしています。)

 
T イギリス社会の感想

 これはイギリス社会で暮らしてみた感想である。個人の観察は限定されている。これはどちらかといえば豊かな地方、イギリス南東部のKent Countyにある University of Kent at Canterbury のSocial Policy Departmentでの限られた経験からのそれである。以下、私の一日風に記述しよう。

 1 家 日本より上

 冬でも暖かく目覚める。しっかりした煉瓦造りの家。一軒家を4人が一室づつ借りていた。私は二階の10畳ほどの部屋。バス、トイレは3人共同。みな大学関係者で大人である。町では100年などという家はざら。日本ならばこの間に2,3回建て替えるだろう。長持ちする家が欲しい。セントラルヒーティングもうれしい。同僚の先生(50歳ぐらい)の学生時代はみな灯油ストーブだったけど、今はよくなったと言った。これがあるから、寒い外も安心して歩ける。「帰ったら暖かいぞ」と思える。さて、学校へ歩く。

 2 道 日本より上

 家から500メートルほどで大学の敷地。公園のようなキャンパス・ロードを2,30分歩く。学生の半分は大学内に住む。他は市内に私のように共同で家を借りて住む。市内のあちこちにfootpathがある。ちゃんと看板が出ている。文字通り「歩く道」。楽しんで散歩ができる道。それをちゃんと大切にする。保存する。山口市内でもそういう道をたくさん整備したらよい。

 3 気候 日本のほうがよい

 秋の終わりから冬にかけては高緯度のせいではやく暮れ、遅く明ける。北欧ほどではないが、もう少し遅く暮れてもいいのに、と恨めしかった。

 4 地形 なだらかな丘陵。(スコットランドはhigh landと呼ばれ、別。)

 大学は丘の上にあり、視界のよさを痛感した。地平線が見える。ただ、さえぎるものがないせいか、風は時折強いのが吹いた。傘もオシャカになった。あまり強いのでイギリスが大陸に吹き寄せられるのではと心配した。このなだらかな地形を生かした豊かな農業国、イギリス。ちょっと都会から離れれば、至る所に羊と馬と牛を見た。大学の裏にも。

 5 教師 日本とおなじ。

 よく研究し、よく教える。悩みも似ていた。学生数だけが増え、雑務も増え、研究時間が少なくなったと。ただ、授業期間は日本より1ヶ月少ないようであった。その分研究期間が長くとれるのはうらやましい。言葉が似ており、英語がますます共通語となりつつあることから、ヨーロッパの国々との共同研究が盛んであった。

 6 学生

 知り合った日本人留学生がイギリス学生を評価していわく、彼らは日本人学生に比べ独立心旺盛であると。これまで欧米の学生を見るとそのように感じることがあったが、彼らと3年間暮らした留学生からはっきりと聞いてやはりそうかと思った。なぜそうかが大事なのだが、それはわからなかった。敷地を接して日本人学校(大学)があり、彼らがよくわが校のキャンパス・ショップに買い物にくるのだが、他の学生たちが色とりどりの肌と髪の色でさっそうと闊歩しているのに比べ、ショップのそばで固まって腰をおろして(ジベタリアン?)話している彼らの姿はあまりかっこよくなかった。あるイギリス人学生が、日本人学校の学生はイギリスまで来ながら、買い物に来ても恥ずかしがってぼそぼそ小さな声で話す。あれでは英語も上達しない。ラテン系の学生など、間違ったら直してくれる、という姿勢で積極的に話す、と評していた。

 7 食事

 基本的に自炊をした。ただ、牛肉は怖くて敬遠した。ローストビーフ、ミートローフは食べられない。fish and chipsは懐かしい味だった。米国滞在時とは違って、味がないと感じた。だが、不思議なものである。当初まずいと思った味付けがだんだんおいしく感ずるようになってしまった。あの独特のビールさえも。ただ、イギリスで一番の人気料理はカレーであると堂々といわれるところを見ると、料理にはそもそも余り力を入れない社会なのかもしれない。

 8 pastime 趣味

 庭いじり、ガーデニングが好きなイギリス人。家の修繕、部屋の模様替えも好きである。私の下宿の大家さんは大学の物理の教授だったのだが(退官後今はパートで教えている)、よく下宿の修理、塗り替えなどをしていた。そしてなんと言ってもフットボール。大学でも大きな試合のときは学生たちは食堂のテレビに鈴なりで見入っていた。

  9交通

 鉄道は大きな問題。大事故もあった。また、近くの駅に切符を買いに行ったときのこと。枚数が多かったのでもう一つの駅に行けと言われた。「そんなにたくさんの切符に対応していたらこの窓口がふさがっちまう。」行けと言われた町の反対側の駅(湯田温泉駅の2倍ぐらいの大きさ)までタクシーで行ったら「ここでは扱えない。もとの駅に行け」といわれた(20歳ぐらいの女性の駅員。ふんぞり返って言うのであった。)で、私は声を荒げた。「ここのほうが大きいからここに行けと言われたのだ!なぜ売れないのか!」日本のような親切な応対を期待していた私には信じられないことだった。中で使っている機械などは日本より数段見劣りしていた。だが、私の怒りに隣の年配の駅員(男性)が彼女に何か言い、彼女は態度を改め、作業を始めた。私も前もって調べていた時刻一覧を彼女に提供すると、彼女はにっこり笑って"Oh, lovely!"これまでちょっとでも複雑な切符販売はしたことがなかったようである。1時間後に終わったとき、彼女はうれしそうに切符を渡してくれた。「あら、私も結構できるじゃない」という感じで。最後は仲直りしたが、でも、やっぱり驚きだった。もう一つ、列車がしょっちゅう遅れたり間引きされるのも驚き。数年前の民営化の影響という人もいるが?

 10 医療

 限度にきているようであった。問題は簡単。医療費は無料。けど予算は少ない。だから医者も看護婦も不足している。だから列ができる。待ってる間に死んでしまう。政府は税金を上げると選挙に負けると心配している。世論調査では税が上がっても医療が改善されれば払うとの声のほうが多い。ブレアー政権も思い切って世論を信頼すべき時ではないか。

 11 南北

 日、英は先進国。帰路、農地改革を調べにフィリピンに寄ったときその感を強めた。イギリスにはホームレス、貧困層はいても、それを何とかしようとする姿勢はある。だが、フィリピンの都会には見捨てられているとしか思えない、敗戦後の日本のようなトタン屋根のバラックに住む人々が線路の両側にひしめいており、一方ではガードマンに守
られた特別富裕地区(金持ち地区、学校もある)があった。冨国内の貧富問題だけでなく、南北間のそれも忘れるな、と訴えられているようであった。


 
U 日本社会の問題 (上に比べると、少し固い文章です。)

 上の原稿を書きながら、「人間の生活とは単純なこと。自然に働きかけ、生産し、消費すること」とかつて考えたことを思い出した。だが今私たちには自然が見えにくくなっている。この単純な舞台設定の中で自然が果たしてきた役割を私たちは忘れかけている。気温は上がり、氷は溶ける。森林や海に限らず、人間の中の自然も破壊されている。私たちは子供たちから自然な仲間や自然な成長過程を奪っている。そして敏感な若者たちは今、自然の喪失への恐れをとりわけ強く持つと言われる。

 私が昨日見た夢もその一種だった。高校以来の友人の家を訪ねる途中雨が降ってきた。ところがその雨は温かだった。そして次第に熱くなった。私は怖くなり友人の家に駆け込んだ。外では近所の人たちが怖そうに雨の中に立っていた。このような夢を見たのはたぶん地球温暖化と先日のプルサーマル燃料棒事件の影響だろう。後者はイギリスの会社の製品だった。新聞解説によれば異物混入自体は使用前の検査でわかるので問題は少ないらしいのだが、この発電計画自体がそもそも予定していなかった軽水炉でのプルトニウム使用ということで、非常に危険性の高いものらしい。日本政府は相変わらず「これまで事故がなかったから安全」と言っているとのことだが、近年、特に昨年の深刻な被爆事故を見ると、日本にもスリーマイル、チェルノブイリ級の事故が起こるかもしれないとの不安が高まってくる。

 母なる自然は無際限に人間を慈しんでくれ、その失敗を埋め合わせてくれるのではないことがわかった今日、私たちは意識してこの自然、生産、消費の循環を確保せねばならない。だが、このような「人間は自分自身をも滅ぼすことができる」という時代に入ったことを多くの先進国の指導者たちは十分認識できていないのではないか。1999年の経済白書の第1章第10節に、今の日本の生活水準を維持するためには日本はこれまでどおり貿易競争に勝ちつづけていかねばならないとのくだりがある。私はここに今の日本と多くの先進国とがともに真剣に考えねばならない重要な問題があると思う。

 「今の生活は豊かである。」「それは貿易に支えられている。」「貿易競争に負ければ自給自足に戻る、つまり貧しくなる。」「だから競争に勝ち続けるよりほかに道はない。」こうした政府の考え方はそのまま現代経済社会の基礎である市場経済の核心をなすものである。販売競争に勝ち続ける者が生産の成果の最良、最大の部分を手に入れることができる。より安く、より大量に作るものが勝者となる。彼らは自然資源を最も効率的に有用物に変換できるのだから、自然資源も資本も彼らの手に集中して当然である。

 だが、この考え方の弱点はその中心が競争という相対的な概念であることである。市場経済という仕組みは人間の幸せという絶対的目標に従属させてはじめて有用となる。だが前者は絶えず後者を無視しようとする。それがこの相対性、競争主義の怖さである。それは外的な、つまり社会的な統御なしには暴走しがちなことは19世紀の数度の恐慌と不況、20世紀初めの大恐慌、また最近では日本の1990年のバブル崩壊にも顕著に示されている。ミクロで見ても産業革命以後のイギリスの労働者の労働と生活現場の惨状、日本では足尾銅山からミドリ十字に至る企業の利潤第一、そのほか第二の転倒した思想と行動にそれは示されて来た。

 だが19世紀末以来の、そして特に1930年代と40年代にその基礎が作られた市場経済に対する統御装置の登場によって、この弱点はかなり抑えられてきた。それはあるいは完全雇用政策であり、社会保障政策、労働政策であった。これらをここでは福祉国家への歩みと呼ぼう。だがその半世紀の歩みは1980年代と90年代にブレーキをかけられた。貿易で遅れをとったイギリスとアメリカからこの逆流は始まった。企業の競争力を上げ、投資を増やすために、企業減税、富裕層減税が行われた。賃金を抑えるために、また労働力を企業間で動かしやすくするために、失業容認政策と労働力流動化政策が行われた。減税は支出削減を必要とし、アメリカでは軍事、他国では福祉が削られ、あるいは抑えられた。貿易の競争力では優位にあった日本も1970年代の財政赤字増大のあと福祉抑制の道を歩み始め、90年代の不況期にもそれは続いた。

 企業活動のグローバル化はこのような競争条件の均質化を各国に強制する大きな要因となっている。アジア、東欧、中南米と急拡大している生産・販売市場と情報革命は企業活動のグローバル化を推し進めている。この拡大するフロンティアで勝者となること、つまり企業として勝ち抜いていくことが市場経済社会でトップに位置しつづける条件である。強い競争力、より高い生産性がこれを可能とし、それはより大きな所得、豊かな生活を勝者にもたらす。「さあ、これが今の状況です、国民の皆さん。これまでと同じ豊かな生活をしたいでしょう?だったら競争に励みましょう。」これが今の多くの先進国政府の考えである。

 だが、ここで私たちはよく考えねばならない。この「まだまだ競争」、「今こそ競争」の道は市場経済社会にある相対性・競争の要素を重視するものであり、人間生活の全体性、自然、生産、消費の安定的循環を保証するものではない。この保証のためには限りある自然、あるいは人間にふさわしい労働と分配の方法といった絶対的要素の考察が必要であることを絶えず思い起こさねばならない。今、大きくなりつつある右車輪に押されて崖下に落ちないように左車輪を強めることが求められている。それには市場のもとで発展した効率性を、生産力の現段階に立ってそれを自然と消費との好循環の中にうまく位置付ける仕組み作りが必要である。

 私たちが今なすべきは政府の言う「競争に勝って豊かでい続ける」ことの意味、それがもたらす社会の意味を明らかにして、必要ならば代わりの案を示すことである。今日本政府は他国の発明の改良から独創的製品を開発する道へ日本社会を導くことに必死である。だが、それ自体が実は他国に流される貧しい発想であるかもしれない。相対主義に立つ市場経済の新たな大波に対して人間の全体性の見地からそれを統御できる新しい社会の仕組みを作り出すことこそ、実は世界に輸出すべき最良の独創的商品となるのではないだろうか。

2000年夏、中国訪問記
 (8月末から9月始め) 

 本学部と中国の遼寧省にある遼寧大学経済管理学院との交流協定によって、一週間ほど同学院を訪問し、教官と学生それぞれに報告と講義をすることになった。

 以前少しばかり指導をしたことのある宋教授が同学院に帰られてから、時折講義に来ませんかとのお便りをもらっていた。そろそろ話すこともたまったかもしれないと思うようになり、この春に「行ってもいいですか?」と手紙を書いたところ、歓迎します!とのお返事をもらった。渡航費も学部の基金から出してもらえることとなり、本決まりとなった。今年の1月にイギリス留学から帰り、また家を留守にするので、妻には申し訳ない。

 8月25日の金曜日、昼頃から大阪に移動する。宿は国鉄の新大阪駅近くのメルパルク大阪。近くの店でビールなどを飲み、日本食に名残を惜しんだ。 翌日の土曜日。空港では時間があったので、少しぶらぶらした。いよいよ手続きに入ろうとすると出国手続きのゲートは人の山。列はなかなか進まず、内心あせるが、前に回って割り込ませてくださいとも言い出しにくい。そばでは絶対乗らなーいと泣き叫ぶ子供がいた。手続きを終え、走って飛行機に乗った。だが、結局、飛行機はそれからもまだ遅れてくる人たちを待って、2,30分遅れて離陸した。

 遅い昼食を既に空港で取っていたが、機内でもまたすぐ軽食が出た。大連で乗り降りする人のために一回降りた。だが、実はなかなか「降りられなかった」のだ。大連市の上空に到着し、さてこれから着陸だ、と思ったら、下がっていった機体がなぜか上昇を始め、旋回している。これを二回繰り返した。何が起こったのだろうとひやりとしたときアナウンスがあり空港の事情で旋回しています。しばらくお待ちくださいという。事情がつかめず、心配が続く。しばらくして機長が「今日は中国軍の軍事演習があり、軍の戦闘機が故障して滑走路をふさいでいます。今しばらくお待ちくださいとのこと。やっと事情が分かった。それならば、と少し安心した。

 大連空港でパスポートだけチェックされる。しばらく待つ間に、これから1,2年アンザンの大学に語学留学するという日本人学生と知り合う。乗り継ぎの手続きなど自信がないので、二人でアナウンスを注意して聞く。中国語も一つ二つ彼に教えてもらった。山口県出身だといった。「沈陽の空港に留学先から迎えに来てくれているはずなんですが・・と少し心細そうに言った。

 沈陽の空港に着き、荷物を受け取り、矢印に沿って歩いていると、税関の審査は何も受けないまま、なんと、いつのまにか外に出てしまった。もうそこには宋さんや他の迎えの人々の笑顔でにぎわっている。なんと鷹揚な国だろうと思うまもなく、迎えの車に案内され、市内に向かった。暑い日差しだった。 大学の宿舎に入り、4時ごろから食事。宋さんと私、それと迎えに来てくれた事務の方の三人。ビールを飲み、牛、鳥、豚、魚の各料理を一品ずつ食べた。北京ダックはさすがにおいしい。夜、蚊の攻勢には参った。5,6箇所刺された。

 次の日は日曜日。訪問者用の食堂で朝食を食べる。お粥に様々な付け合せの料理を混ぜて食べるもの、らしい。なかなかおいしかった。水分は熱いジャスミンティー。朝7時、大学内はもう動き出している学生で活気がある。8時には二つのコートでサッカーをしていた。

   今日はこれから宋さんが市内を案内してくれる。日曜日ですごい人出だ。中国は人が多いとは宋さん。沈陽故宮を見る。清朝時代の遺跡。沖縄の首里城になんとなく似ている。1630年代にできた、清朝初代の城という。後に北京に移る。西宮だったか、その皇后は最初に結婚した王の死後、その弟と結婚し、そして次は息子とともに彼を殺した、その有名な后の居所もあった。若い男女の集団がこのころのの踊りの稽古をしていた。9月1日は沈陽市の建市2300年記念祭で、そのときに踊るのだろうとのこと。

 この大学では、また中国では一般に、大学生は全員が寮生活らしい。学内には寮が10以上ある。学生がいつも学内にいるので、土曜でも日曜でも活気がある。 夕食後、テレビで女子特警隊を見る。言葉は分からないが、子供を人質にした犯人に単身対峙する女性の話。故宮でも公安の人たちがたくさんいた。ただそちらはどうやら見学にきていたらしいのだが。

 満人は中国の人口の2,3%を占めていて、ほとんどが遼寧省に住んでいるとのこと。漢人は94%。モンゴル人と満人だけが少数民族として中国を一時は支配したことがある民族である、と宋さん。 28日月曜日。明け方また腹がおかしくなる。たぶん昨日宋さんと食べた昼食だろう。案内されて食事をご馳走になるとき、パンとコーラにしてくださいとも言いにくい。夕食は抜いたのだが・・。

 宋さんが、以前ロシア語を長く勉強した、いつか半年ほどロシアを訪問してみたい、と言った。中国人は留学先としてアメリカを選ぶ人も多いとのこと。だが、日本で学ぶ人は、アジアの国という点で、またアメリカとは違った意味で役立ちうることを学ぶことができるのではないか。そう考えると、中国にとって日本との交流は大切な事だ。講義のときの学生からの質問どうしたら日本のように豊かになれるかは、まだまだ中国にとって意味のある問題のようだ。良い点も悪い点も含めての日本の経験から学ぶことが。 李学院長に会い、次に図書館を訪問する。李さんは写真で見て想像したよりもがっちりして大柄な人だった。学院長は中国の慣習か、一度なったら長く続けるのだそうだ。李さんも宋さんも張先生の弟子。学院長室は大きく広い。特に天井が高い。図書館は本学(山口大学)のそれと変わらない。見劣りしない。学生がたくさん、熱心に勉強していた。

 学生たちは4年間、朝8時から夜4,5時まで講義を受ける。バイトはほとんどしない。クラブもあまりない。出席はきちんととり、聞いていない人には注意する。厳しく教えている。スポーツは気晴らしにやる程度。(宋さん)  2時から4時と、対教官の報告会。福祉国家について話す。紹介では北欧の福祉について詳しいとされたが、市場経済と福祉国家の基本的関係と、福祉国家の1980年代以降の後退について話す。その後質疑応答を行った。先生たちが10数人、学生(日本語学科生も含む)が20人ぐらい。



遼寧大・講義風景


 日本で10年ほど勉強し、つい最近帰られた日本研究センターの劉さんが翻訳をしてくれた。非常に流暢な翻訳。私も気が付いたら2時間近く話していた。でも熱心に聞いてくれた。質問の半分は身近な日本の経済のことだった。ただ、学生の講義は45分授業ということなので、次に行う学生向けのときはもっと短いほうがいいかもしれない。話の焦点の一つである社会病理現象については、まだ中国では実感が湧かない問題であるかもしれない。中国の最大の関心事は成長ですと宋さん。

 夕食は先生方による歓迎会。張先生、李さん、宋さん、劉さん、林さん(関西大学に留学したことあり)、他副学院長が二人。李さんは、山口は小さな町だけど静かで好きです、と。滞在中、宋さんからも何度も同じ感想を聞いた。劉さんからも、日本の山水は大好きです、とやはり何度も聞いた。私も遼寧省のひろーい平原で山がない様子を見ると、この感想に素直に同感する。

 38度のお酒で中国式乾杯をする。両校の交流の活発化を祈って何度も乾杯!ただし、私は日本人ということで相手の量の半分でよしとしてもらった(「Japanese mode, Japanese style!」)。林さんが宋さんは学院の代表です。塚田先生に何か失礼なことがあれば、それは宋さんの責任ですと冗談を言う。宋さんは苦笑い。 話題の中で、学生の全寮制が減るだろうと聞いた。財政負担の増加の故らしい。残念なことだ。できればこれは維持したほうがいい。だが、既に遼寧大学の門前に新しい寮が建設されていた。これはかなり寮費が高いものとなるとのこと。宿舎への帰路、たくさんの教室に明かりが点いていた。学生たちが勉強しているのだ。 29日火曜日。テレビで沈陽市人材市場、国企経済管理及人材招聘・・、人材資源是第一資源人材興国企旺・・などの文字があった。博士学位あり、の卒業生は年2万元の給料(日本円で30万円くらい)、との文字も。平均的労働者は7,8千元くらい。

 日本の番組の吹き替えでは、スラムダンクと犬笛(あおい輝彦主演)がたまたま放映されていた。天気予報に出てくる雲マークは、雲が両端を上下させて雨を知らせる。かわいかった。 2時から3時、学生向け講義。短く話すことに気をつけた。1時間で終えられた。だが、宋さんから後で、普通、こういう講演は1.5から2時間です、学生はそれに慣れています、と聞かされた。事前の少々意思の疎通が不足していたようだ。次はその長さでやろう。質疑は5人ぐらい、30分ほど続いた。やはり戦後日本の成長の理由といった点が興味の中心らしい。

 30日、水曜日。北陵公園を案内してもらう。清朝初代の王の墓がある。1650年ごろの建立。入り口に、ライオン、ヒョウ、キリン、ウマ、ラクダ、ゾウの石像がある。ゆっくり歩いて見て歩くと二時間ぐらいかかる。 ダンスをする中高年の人たちがいる。歌う人たちも。退職者と「停職」者であるとのこと。後者は仕事があればまた仕事につきたい人たち。普通60で退職、女性は45か50で退職するとのこと。後がつかえているから、であるらしい。本当はもっと働きたいのだが。退職後は80%の給料が保証されるという。停職者は月300元ほどが支給される。食事は安いものなら一食一元(13から15円)で食べられる。アパートは月十元で住める、と。でもこれはぎりぎりの生活。

 食堂の給仕の若い女性は英語ができた。"Can you speak English?"と話し掛けられた。私は三日ほど身振り手振りのブロークンチャイニーズで伝えようとしていた。おもしろかった。だが、まだ英語のほうが通ずる。ほっとした。

 今日午後に予定されていた教師向け報告会第二回は、彼らが急遽汚職追放の映画を見ることになったので取りやめ。宋さん、李さんと私は工場、農場の見学をすることとなった。車が二台来ますよという宋さんの言葉になぜ二台なのかよく分からなかったのだが、二台どころか、結局4台で訪問して回ることとなった。始め大学から1台で出発すると、郊外でしばらく止まってしまった。どうしたのかと思いながら、宋さんたちが中国語で語気鋭く話しているので口をはさむのを控えた。後で分かったのだが、「役人たち」を待っていたようだ。語気鋭かったのは、出発が少し遅れて行き違いになったのかもしれないと心配していたようだ。今日の訪問の許可を得るに当り、それを市か省のかなり上のほうの知り合いの人に頼んだらしい。すると、許可はもちろん下りたが、訪問するに当り、その上のほうの人の部下が大勢私たちに同行することになったらしい。今日訪問する先はかなり先進的な企業なので、その役人たちも一緒に見学する、ということなのだ。 市郊外の農民と大連の企業とドイツ企業の三者が合弁で作った木造パネルと特殊プラスチックパイプの工場を見る。今年操業を始めたばかり。大 学の運動場3、4個分くらいの広いところに倉庫型の工場が十くらいあり、その中の2,3が操業を始めていた。ドイツ製の機械が目を引いた。ただ写真は取れなかった。

 「町という行政単位の中の一集団単位」が1992年から始めた花卉栽培企業を見る。らん、菊などをクローン技術も取り入れて栽培している。らんは30元ででき、それを80元で売る。日本にも出荷し、7ー800円で売っているとのこと。 建設中のオランダ村をも見学した。2002年に開園の予定。人手をたくさん使っている。暑い。

 コンピューター組立工場を見る。これも合弁だったように思う。私が昨年の英国留学時に滞在先の大学が提供してくれて使っていたパソコンが丁度そのメーカーのものだった。ボードに様々の部品を打ち込んでいく作業を初めて見た。作業といっても皆機械が行うのだ。

 最後は食品工場。穀物類を原料に、カップ物(おかゆなど)を作る、非常にきれいな工場だった。VIPルームもあり、そこでしばし休憩し、これまでの数箇所の訪問の感想などを述べ合った。市から派遣された一番えらそうな方(女性、50歳ぐらい)がご訪問の感想はいかがですかと問う。市の中ではかなり貧しそうな人たちもたくさん見たことにふれ、所得格差の状況を尋ねた。それに対しては、そうした所得格差の拡大の状況は、世界のどこでもあることです。沈陽市では、無職者には月190元の援助金がありますとの答えが返って来た。

 このとき、私が市中で見た貧しそうな人たちとは、道路の両端の貧しそうな屋台の果物売りなどを念頭に置いていた。だが、後で宋さんに訊くと、彼らは通常の労働者よりは収入が多いとのことだった(月1000元くらい)。

 宿舎に帰り、夕食後、6階建ての古い寮の前のベンチで休む。誰かが声を張り上げて歌を歌っている。こちらの学生のスタイルとして、背中にリュックサックを、そして魔法瓶を一つ、あるいは二つ両手に下げて歩いている人をよく見る。水に気をつけているのだろう。

 31日木曜日。初めて雨。ひどくはない。実は水が合わず、ずっとパンとコーラの日々で暮らしている。部屋で何気なく中国語会話の本をめくっていると、帰りの切符のreconfirmの会話が目にとまり、慌てて航空会社に電話で確認する。大丈夫だった。

 国際電話をかけるために、大学の外をしばしば探し回った。だが、実は宿舎の中に国際電話の電話機があることが分かった。200元のカードでかけられる。ただ、目に付かないところにひっそりとあった。看板さえ出ていない。受付で何の気なしに話していたら、あ、あそこにありますよと教えてくれた。

 今日は第二回目の講義。あしたから三連休ということで、学生が帰り始め、前回より出席が少ない。ただ、今回は時間は2時間と長くしたのだけれど、内容が具体的だったので退屈はしなかったようだ。質問は30分ほど。楽しくできた。これで報告、講義、すべて終了。ほっとした。

 通訳の劉さんは自愛心の論点のところにかなり興味を持ったとのこと。彼は日本文学専攻で、有島武郎の愛は惜しみなく奪うの解釈に引き寄せて、この部分の考えを聞かせてくれた。(有島の愛とは「愛することによって自分の中に満足感が生まれる」もの。しかしこれはけして利己的なものではなく、人間にとって自然なことである、という解釈。)  学生の質問の中に今日の講義は経済学か社会学かというものがあり、両方であると回答した。劉さんも、結局人間の問題とはすべてつながっているものですねとの感想を述べていた。

 9月1日、金曜日。今日は建市2300年のお祭り。宋さんと午前中、街中に出かける。ガード下でござを敷き、その上に小さなほおずきのようなものを山と積んで量り売りをしている。宋さんはそれをごそっと買い込み、私にいくつか薦める。袋を破くと小さなりんごのようなものが出てくる。なんと良い香り。りんごとなしの中間に良い香りを付け足したような味。ただ、売っているところがほこりと排気ガスにまみれたところ。しかし、今日は歩行者天国なので車は通っていない。 ある交差点から先は公安が通さない。しかし、そのまた先のほうから音楽が聞こえてくる。何か催し物をやっている気配。人々はたくさん膨れ上がっているのに先にいけない。彼らは右の細い通りのほうへ迂回を始めた。私たちもそのほうへ。何とか音のほうへと近づこうと路地を入っていったが、結局また公安車両が通せんぼをしている。日本ではないことだ。

 あきらめて、町を散歩して帰ることにする。自由市場を通り抜ける。狭い路地においしそうなものをたくさんつんだ屋台がずらっと並んでいる。だが、通り自体の衛生状態は悪く、食べ物の匂いと下水の匂いとが入り混じって、息苦しい。残念ながら、こで買い物をしようという気にはなれなかった。

 スーパーマーケットに入る。リポビタンDを4,5元で売っていた(60から70円ぐらい)。結構高い。ソーセージが何種類もあるのに驚いた。

 夕方からお別れの夕食会。張先生、李さん、宋さん、林さんが来てくれる。「口福址」という店。やはり普通の食べ物はおいしい。食後、張さん、李さんは仕事があり、また林さんもこれから明日の社会人学級の準備があると、仕事場に戻って行った。

 9月2日、土曜日。朝のニュースで、北京、物価高、・・不公平、大学問題生活費の字が浮かぶ報道特集があった。画面では親が泣いている。貧しそうな労働者家族。 昨夜の建市2300年記念花火打ち上げはすごかった。8時30分から9時まで30分間、毎秒一つは上がっていた。2000発は打ったろう。近かった。大学の広場では人がたくさん群がって上を見上げていた。パン、ドン、と空気を揺るがす花火。中国の人は毎年大晦日にこれを見ることができるのだ。

 空港まで送ってもらう。過ぎてしまうと早い8日間だった。機内の軽食、新大阪駅でのカレーライスがおいしかった。 
 2002年冬、宋さん来日
 昨年末に宋さんが来日、山大経済に半年ほど滞在することになった。今度は吉村先生が引き受け役。宋さんがご挨拶に見え、日本の税制を勉強するとのこと。これで三度目の滞在か?先日やっと少しゆっくりお話する機会ができた。日本と中国の分業について、日本は先端技術では競争力があるが、その他は人件費の安い中国製品が強いし、強くなる。これはほぼ間違いない。成長率も日本は1、2%、中国は10%前後。日本でこれから人が余るようなら、中国で指導的技術者として働く道がある。そんな見通しを語った。以前、藤井先生が、これと似て、中国企業に日本に進出してもらうこともよいのではとおっしゃったことがある.この可能性はどうか?中国側に資本さえあれば可能なことであるが。投資する資本がまず第一に重要.これは宋さんの話から強く感じた.たとえば遼寧大学の経済管理学院。張先生(もうすぐ70歳で定年。旧制度による方なので定年が遅い。今は60歳、博士指導教授のみ65才)が院長となって、大学内のビルを借りて私立大学を開く予定だそうである。資本は確か上海の誰かからの投資だったと思う。学生、資金が増えたら大学外にビルを建てる、借りるする予定だそうだ。大学進学率は急増しているとのこと。大学教員は不足し、給与も急上昇中らしい。宋さんは昇進したこともあって、この数年でかなりサラリーも上がったとのこと。住居は80uから130uに広がった(引越し)。教授の待遇は140uとの国基準があり、差額は大学で出してくれた。宋さんの年収は平均的労働者の6倍程度。日本の国立大教員は同年齢でほぼ1.5倍程度。中国の差は大きい。お土産に頂いた漢方薬の飲み方もお聞きした。お酒に入れて、待つこと1年。飲めるのは来年になる。


 海外研修の思い出 〜1999・2000年

 

 文部省の在外研究員となって、アメリカ、イギリスなどの国を訪問した。これは帰国後半年たって、その時のメモを元に書き始めた訪問記である。

 

 1999年4月1日。さあ、今日から10ヵ月の海外研修が始まる。家族とお別れ。福岡からポ−トランドへ飛ぶ。そのあとはアトランタ経由でクリ−ブランドへ。

 

 福岡空港では妻と長女が見送ってくれた。(メモには、この時、「夏に彼らが来るときのために、チケットをボ−ディングパスに換えるとき、イミグレーション・カスタムズのフォーミュレーションをもらっておくこと、と連絡しよう」、と書いてある。そんなことを書いている、私がその時なにか搭乗手続きで失敗したからかな?)

 デルタ航空の136便。ポ−トランドで入国審査を受ける。税関では何もチェックなし。スムーズに通過しすぎ。簡単すぎのような気がする。こちらの顔つきで不審な人はわかるのだろうか?

 福岡からの機内では佐世保の米軍エアーフォースのマ−クと隣席になった。30代の前半ぐらいか。シカゴのファミリ−のところへ帰るとのこと。一月に帰って以来だという。Mind if I talk to you? と話しかけたら快く応じてくれた。パイロットと同席とわかって少し心強い。以前は飛行機操縦のインストラクタ−をしていたとのこと。今もたくさん空を飛んでいるといった。アダム・スミスの国富論を学生時代に読んだとか、統計学は嫌いだとか、修士号をもっているとか、プレゼンテ−ションは緊張するとか、レ−ザ−マ−カ−は、指が震えると光も震えるとか、笑って話してくれた。知的な印象の人だった。ポ−トランドに降りたときも手続きの場所を教えてくれた。空港の両替場の女性も親切だった。

 アトランタへの隣は空席だった。何かの開け方をだれにきいたのか、そばの人にだろうか、“Could you tell me how to open it?"と私が尋ねたのに対し、“Oh, sure"と答えてくれた、近くの黒人女性が開けてくれた、とメモにはある。

 ポ−トランドへの飛行機の中で、“Oh, I have to keep thinking, speaking, and hearing in English!"と思い、強く動揺したことを覚えている。・・・だが、ともかくも、高校生の時から30年余り経っての英語でのコミュニケイションの出だしはかなりスム−ズだった。

 アトランタからクリ−ブランドまでは後部座席にひとりだった。なぜか乗務員の多くが若い黒人女性だった。最初の長距離は白人女性の乗務員がほとんどだったが。

 「客と売手が水平の立場の欧米人、だからちゃんとplease, thank youを言おう」、との遠山氏の言葉を正しいと思う。仕事をしている人たちは堂々としている、と強く感じる。

 Skymateで読んだサマンサの記事には同感した。13才だったか、「ファッションに何の意味があるの?もし宇宙から敵が攻めてきたら私は戦うんだ。宇宙飛行士になる。」と勉強もテコンド−もがんばり、友達との付き合いでも彼女等を大切にし、自分の意見をしっかりと言える、そんな姿に感銘する。皆がこの子の様に育っていったらすばらしい国になる、アメリカは、と思う。

 話がとぶが、ケリ−・リンもよく似た女の子のようだ。サマンサは13才で私の長女より半年若いだけ。何にでも興味をもち、ママから料理もならい(キム母さんはあまり料理をしないようだが)、パパとゆっくり釣りもする。パソコンにも詳しい。彼女の父は義父で、一時はその離婚騒動が1、2年の傷を残したが、いまは十分に回復し、生父とも会っているとのことであった。

 クリ−ブランドの空港では、荷物の受け取りのとき「誰かが自分のバッグをもっていったら」と思うと心細くなった。それが起こりうる場所である、あの荷物が出てくるグルグル回るところは。ホテルに行くため空港のカウンタ−で尋ねると電話せよといわれた。専用電話をし空港をでるとすぐそこにホテルからの送迎バスが止まっていた。定期的に回っているらしい。バスといえば運転手のセリフがなかなか聞き取れなかった。この時はホテルに行くのだからそれほど困らなかったが翌日乗り込んだときdestination?と聞かれ、2度目でやっと分かった。“To the airport."チップをあげるべきだったろうか?前日の人は荷物下ろしを手伝ってくれなかった。チップというのは難しい。

 ホテルでは黒人の男女がフロントで応対してくれた。“On business?"(分かる。)“Your company or your home address?"が2、3回目でやっと分かった。ベルボ−イはいない。1人で部屋まで行く。広いきれいな部屋。170ドルの部屋が120ドルで使えた。疲れは大きかった。翌朝起きたときにも疲労感は大きかった。             

 4月2日。朝、空港でホテルからもってきたUSA Todayを読む。だんだん英語の勘を戻さねば。このときのメモには「前の晩も空港で英語を意識して読んだ」とある。       

 ニュ−ア−クまでの相席となったジョンは高校の先生。30歳代の後半か、なんと驚いたことにAFS生の世話をしているとのこと。今年は彼の学校は3人も受け入れる。年によっては4人のときもある。こちらからはロシアに女の子がひとり行くそうだ、他の国に行く子もいるとのこと。きれいな、少しゆっくりめの英語で話してくれた。祖父がフランスに住んでいるという。修士号ももっており、〇〇Green Collegeでフランス語も教えているAssistant Professorでもあるそうだ。 

 空港に到着。「アメリカのママとパパ」に会う。相変わらず暖かな二人でうれしい。これまで日本で4回、アメリカで1回会っている。私が17才のときからだからすでに29年の歴史が積み重ねられた。歴史といえば、妻に出会ったのが19才のときだからこちらは27年の歴史だ。こういう数字を見ると、かつて長い時間と思っていた10年、20年という時間の単位がすでに自分にかかわって過ぎているということで、なにか不思議な気がする。高校生のときの留学時にも、院生のとき妻と訪問したときも、アメリカでは車の運転はしなかったが、今回ふと、空港から家まで運転しているパパをみて「ぼくも運転できそうだな」などと思ったのを覚えている。

 1時間程でポイント・プレザントの町に着く。いまはちょうどイ−スタ−・バケ−ション。昔の同級生のラリ−も南へ行っているとメ−ルで書いてきた。昔どおりの静かな通り、カラマス・プレイス。途中でハイスク−ルにも寄ってきた。むかしなつかしい校庭の緑。たぶん以前と変わらない芝生だろう。二、三本ちぎってポケットに入れた。草の匂いもなつかしい。ちょうど休み中なので校内には入れない。家に着いたとき、家の前の芝生が、その上でサッカーの練習もしたその芝生がなぜか小さく見えた。そして、・・家の中はものが増えた。あの裏庭に突き出した小さな食堂、私たちが食事をしたあの食堂などは半分物置と化していた。

 少し遅い昼食、または少し早い夕食をWarfsideだったか、でとった。入り江の小島を見ながら、彼らの一人息子、私の「弟」にもなるのだが、リーの近況も聞いた。ママとパパ、スキッドモア夫妻は何人も何人も私のような留学生を受け入れてくれた。私の前に短期の日本からの女の子、後ではドイツのクリスチーナ、ペルーのセシ、ベネズエラのジルマ、ほかにも確か男の子がいたはずだ。リーは世界中の子たちと1年づつ生活したわけだ。すごい経験だ。そのリーは大学は中退だったがコンピューター操作の能力を生かして、プルーデンシャル保険会社で働いていた。いまはAT&Tの子会社のCredentialで働いている。2、3年前からサウジアラビアにいる。年収は20万ドルとか。向こうの国の財政にかかわる仕事をしているらしい。経理のソフトウェアのプログラムづくりだったか、「王様たち」とかかわる仕事らしい。休暇のときにはアメリカまでコンコルドで帰してくれたり、家族のキムやケリーをサウジによぶ費用を出してくれたり、たいそうリーが大事にされているのが分かる。

 4月3日。通りの向こうにすむキャロルが会いにきてくれた。留学していたときもとてもよいおばさんだった。昨年ガンの手術をしたそうだ。少し痩せて見えた。が、相変わらずの笑顔。しばらく楽しく話をした。もっていった家族の写真を見せる。皆、長女のバレーの姿をビューティフルとほめてくれる。この日は、ディナーの後でいらっしゃいと誘ってくれたが、家で、いま問題となっているコソボ紛争の話をしているうちに11時近くなってしまった。私のむかし使っていたベッドルームがそのままにあった。ただ、ここもものが増え、ものの置場になっていた。パパのファックスの機械もおかれていた。ベッドカバーはパッチワークのデザインだったような気がする。

 翌日はフリーホールドの町のモールに買物にいった。途中で、かつて斜向かいに住んでいたジャネットの家のそばを通ったように覚えている。モールではしばし「ママとパパの子ども」に戻り、青い素敵なTシャツを買ってもらう。これはこの後滞在したイギリスでよく着たものだ。このモールは大きい。そして人も多い。たぶんこの日は休日だったのだろう、すごい人出だった。こどもも大人も、そして家族連れも多い。お昼はたくさん出ているテイクアウト用のテラス食堂で、あのむかしの高校留学時に大好きになったサブマリンを食べた。しかし、今回食べたそれはまったくおいしくなかった。「ポイントプレザントのマイクの店の方がうまい」と、お母さんだったか、が言った。そういえばやはりむかし食べたピザもトマトがたっっぷり乗っていておいしかった。

 昨晩ケリーと話した。ケリーのKはお母さんのキムの頭文字と、 Lはお父さんのリーのそれと同じだ。なにか、可愛い一人娘への両親からの愛情を感じさせる名前だ。電話口で少し話したケリーは相当利発そうな印象だった。「はい」の意味の「イヤップ!」の言い方も元気だった。セブンイレブンでニューヨーク・タイムズを買ったが税がつかなった。内税だろうか?

 

 夕食はママのスパゲッティ・ウィズ・ミートボールズ。あのなつかしい味は昔のまだ。私は食べることを楽しんで、昔もそれを喜んでもらった。記念写真を取りたくなったが、3人どうやって一緒に入れるだろうか。三脚はない。私はいいことを思いついた。パパに鏡をもってもらってそこに私の顔を映すのだ。よい思いつきだ、と皆思った、・・・はずだった。だが、後で分かった。フラッシュを焚くと、鏡が光って私の顔は映っていないのだった。

 食事をしながら、これまで受け入れた留学生たちの話をたくさん聞いた。ベネズエラのアーマンドの両親は、最初彼についてアメリカまで来たこと。セシの従兄たちの話。そのひとりの結婚式にママとパパはペルーへ行ったが、ちょうどその時アーマンドはハーバードの卒業式だった。アーマンドはぜひ自分の卒業式にきてくれ、といったのだが、いけなかった、それ以来アーマンドからは連絡がない、とのこと。ドイツから来ていたクリスチーナはスタンフォード(だったか)で、確かジャーナリズムを勉強したのだが、いまは母国のどこかで教職についているらしい。その彼女が教え子たち7、8人と来て、裏庭でテントを張ってはってそこに収容したこと、彼らが英語をしっかりと話し、ヒトラーについてそれぞれの意見を闘わせていたことなど。

 意見といえば、コソボ紛争について、朝会ったジャネット、あの、29年前はまだ小さな小学生だったジャネットが、久しぶりにあった後、すぐにコソボ紛争について私の意見を求めてきた。彼女は空爆に批判的だった。私はまだアメリカにきたばかりで、日本であまり接しなかったこの話題について、中立的な考えを、つまりはあまりそのことをよく考えたことがないということを述べるしかなかった。「それはとっても如才のない意見ね、広人さん」と、ジャネットに皮肉っぽく言われてしまった。夕食のときのパパの意見は、これは陸上部隊も介入せざるをえなくなる、もしかしたらベトナム戦争や第二次大戦のようになる、ということだった。

 3つのPOWsがニュースに出ている。トライアル(査問?)、コートマーシャル(軍法会議)・・などの言葉が聞こえる。ちょうどこのころ、セルビア軍に捕まった3人の米軍兵士の写真が米国にショックを与えていたときだった。非人動的な行為をある国の政府がとっている時、外国はどうすべきか、この問題が問われていた。これは今も変らず大きな問題としてある。

 どうしたらよいのだろう。「ヒトラーの再現」は許してはならない。これを基準にすることができる。しかし、それと内政干渉をできるだけ避けることと、しかし他国で非人道的行為を確認すること、それが確認されたらそれに反対することをどう両立させるか。テレビではベルグレイドで開かれているNATOの介入反対のロックコンサートの様子も映している。ともあれ、このコソボの話題はそれからも私がイギリスにわたった後も欧米を巻き込んで夏までつづく大問題となっていく。

 ところで、アメリカ人もやはりよい意味での独立志向がある。「自分で頑張る」姿勢からでてくる自信。たしかに、人には頼れない、という姿勢をもてば、自分の力が湧いてくるということは分かる。だが、メディケアを受けている老人がお金が続かず「different wing」に移らざるをえなくなったということも聞いた。しかし、いまは失業率が低くなったことがアメリカ社会に全体として何かしらプラスの雰囲気を漂わせているようだ。29年来最低の失業率。どういう脈絡だったか、ママは「不況が起こって生じた損失は、その後に埋めることができない」と言った。

 隣の家のジニー・ヴァン・クリーフさんの家にあいさつに行った。お会いしたのは若いほうの方だった。昔お会いしたお年寄りの方はもちろんもう亡くなっていた、それは知っていた。熱心なカトリックで、その夜のサービスでも聖書を読む役をするといっていた。もう60才ぐらいの弟さんが外で庭の手入れをしていた。帰りぎわに握手したとき、彼の大きな手が印象に残った。イースターがレザレクション(キリストの復活)であること、キリスト教徒の一年はここから始まること、ジューイッシュではパス・オーバー(過ぎ超しの祝い、罰を逃れること)を祝うこと、を教えてくれた。私は日本のお盆の話をした。先祖を精神的に背中に背負い、三日間家に帰り、一緒に過ごすと話すとこれに感銘していた。

 クリントンの不倫疑惑の事件についてはパパは彼の嘘はよくないと厳しく語っていた。

 Sunday, 4th. Mom and pop had a phone call from Lee. Pop took the phone and I    talked to him later. Pop said he often called them. His voice was the same, young one. Mom had expected and waited for Kellie and Kim, but Kellie was sick and they would not be able to come, it seemed. Their Chinese friend, Sochina      could not come because her baby was sick. We decided to visit Kellie to Summit, their town. A lot of forsythia were blooming on the roadside on our way. Beautiful yellow and tiny flowers. This is pop's third drive on the Garden State Park Way since I came here. Passed a block with medium size houses, then to a large size house block, or district. They live on the first and second floor of a house they rent, mom said. Met Kellie, a little shy or may be tired because of her cold, but smiled when I said good by. Showed them Yuki's ballet pictures, too. Everybody admires them. Before we left, had a nice spaghetti with meat-ball dinner. We drove back home that night. I remember a little clumsy scene when I tried to shake hands with Kellie to say farewell when at the same time she expected a hug. They were warm. Kim was warm, too.

 

  Monday, 5th. Day to leave. Joyce and Bill came. Still the same. Margi, not                 married, they say, but works as a sculptor(?). Drove up to Newark airport. Thanked mom and pop. I do want to send them a poem to thank their hospitality to us all, their AFS children. Flew to Cleveland.

  From the airport rode the RTA to University Heights. Waited for the Circle                  Line Bus there. It is free. Waited but did not notice that it stops working at 5:30 pm. Talked with a black, middle-aged woman for a while, mostly over American society and education and children. “The teachers are not good. Good teachers go out for better paid jobs.” After a while she talked to a university police on an emergency phone. They sent a bus for us.

  Tuesday, 6th. Visited Case Western University. (Wrote this note in the    morning of 8th in a park near the Glidden House, my hotel. Near the botanical Garden. Dr. Long took me there yesterday. Chilly but fine. Perfect blue sky, three days in a row. Can hear little children crying. They are playing in the park with three adult ladies. It'll soon be warm.)

On the 5th, I called Dr. Long and Dr. Pranab Cahtterjee. When we first met at    the front hall of the Glidden House, Dr. Long talked in Japanese which was releaving to me. Pranab (I call him so since that reception party at his home    yesterday) said we didn't promise to meet this evening and would see me next morning, and so we did. ( A student with a bag in his back just passed by in the park.) When we saw at the front hall, he was just like the man I imagined. A nice fellow. His office was right next to my hotel. A newly built one, but the office

was not large.

  In his office, talked over some points about his class. Professor Hokenstad walked in. A tall, nice person. Talks in a good voice a little slowly. Good for me. Pranab is a humorous person. Was presented his two books.

 Into his class. Ph. D class. 7 to 8 students. Had a good time. Gave a lecture about an hour. Then a short break. Dan bought me a coke. Saw lockers    for the students. Then in the class again exchanged opinions and answered questions. I drew three or four pictures on the white board. Seemed they enjoyed them. Pranab later told me the students liked the lecture and wanted me to come back again. A great honor for me.

Lunch with Terry (Hokenstad) and Pranab at a yacht restaurant. Saw pranab's   yacht. Lake Erie, right next door. Ate a Mexican dish. Talked for a while. Walked and could see a part of the lake on the way back.

  April 7th. Met Dr. Long. A little shorter than I. Glasses. A nice, intelligent and friendly smile. Showed me Shaker (?) Heights, one of the oldest“new”towns. Two brothers planned and made it in the 1920s. RTA, too (?). Beatiful, old decorated houses. (Now getting warmer. The sun on my back.) Parked and walked to her office. A neat one. Case Western has more graduate students, 60% of all or more. John Carrol, mostly under graduate. First attended her class, Social Change. Saw an impressive video, “Hamburger, Jangleburger” with several students. Small sized class! The atmosphere was a little similar to that of high school. After the class, talked with her a while and she went off to a tenure meeting. Dr. Seward showed me around in the campus. John Carrol's statue, big. Dormitory, four roommates, one nice living room (only for seniors). 80% are living in the dormitory, she               said. Beiji (?) drink, a serious problem. (In Case Western, too, Terry said. “They take it for granted.”)

 

 

  Met Dr. Harris, had lunch with them. Had a good time, talking. Cafeteria for teachers. Met Dr. Chirayath and talked in a room nearby, alone with him. Talked over students, alchohol and exchange students' depression. Agreed to the need of more careful treatment of them like arranging good students as their roommates. Sophia (Jochi) and Nanzan, Jesuit, Francisco Xavier!                   (Yamaguchi!) A lot of the students, catholic. But not strongly determined to study. Mostly from well-off families.

Dr. Dezolt's class. Social Stratification. He spoke clearly. He tried to let    them think enthusiastically. Two students called themselves as “non-traditional”.

  Met Dr. Eslinger. He pronounced "Reich" in a german accent. He taught one class, “Social Problems”. The same textbook I had. He knew it, which made him feel familiar to me. We talked over American society. Corporates, the ultimate ruler. Middle income people, living in the suburbs. Now no more unity between them and the lowest.                

  (Next is inserted a paragraph by my daughter. She wrote it while I was first writing this essay.

  Now my father is watching TV, and I'm very free. But I'm not really free. I have to study Japanese and Social study. I have a test next Thursday. I hope Friday come soon. Next Friday, my school will finish at twelve. I don't want that Saturday come, because I'll receive a paper of next test that day.I DON'T LIKE TEST!!!!!!!!!!!☆★☆★☆★@刀茶ユЮ )

  Dr.Long, Dr.Eslinger, and Professor Hokenstadt, were all concerned about the present        conditions of US society, minority people, being left behind.

  Had a good time in Dr.Eslinger's office. His desk was full of papers. He expected a conference next week. Being vice president, he was busy. Many phone calls came in the meanwhile, but he gave up to answer some of them.

  In the lobby of the hotel, I got a paper from Dr. Hokenstadt on Sweden. Pranab's house was nice. I met his wife and daughter, Slavaya (born in the Monsoon season, he said.) His wife is a psychiatrist, and attend court to make testimonies. I met Paul Adams and his wife, Bill(?) and his wife, and a Japanese couple, Masahiro and Midori, and their daughter, Emi, Slavaya's best friend. I talked about "peanuts".

  Pranab talked about the welfare state problems over the table, some of which could not be heard. The two little girls showed us ballet. Nice. We, adults, each became their audience. We had desert brandy, "Grand Miner".

  Masahiro works at Cleveland Clinic. Ten thousand people are working there. Midori works at some experimental room. Pranab's wife told me that she is a little homesick. She was born in Aomori and brought up in Niigata. Pranab told me that his family all liked me. I haven’t kept in touch with them after I went to the UK.

On the way back home, Terry classified the people as Pranab as middle, Terry, as social democrat, and Adams as left. Here no more powerful proponents from the left wing exist. Dr. Long told me that they are somewhat careful while they haven't got tenure. On TV at night, “The Century” was on about FDR.  I told Terry that I would write him when I have finished my paper on the welfare state. I told him “I will expect your return” and he smiled. Kosovo has been a big topic at the party, too.

 

  Pranab: "Give them 2000 dollars each, but it won't solve the problems if you don't teach them how to work."

  Dr. Dezolt: "Give them training. And then what? Could they live with 5 dollars per hour? Mulptiple with 2020 (hours), it will make 11,000 dollars. Welfare benefit is 14,000 dollars a year. “When was the last time we saw an                  article on welfare?”

  In this country work place welfare is prevalent. Most people must take care of themselves in the market through workplace benefits or buying health and old-age insurance. Medicare gives stigma. Nursing home gives guilt-feeling. Medicaid, too. When I mentioned guilt-feeling, Dr. Long said “glad you know that.”

  April 8th, Friday, noon, in the park. I happened to talk with a librarian at law school, who had just started working last August. “We have the areas around here, too. Poor people. She majored in political economics and information science in the          graduate school. She still likes to learn, goes to classes, just attends them, hopes to continue to study, and be a teacher someday. She said “high school teachers become teachers because it is easier. Some students can't even read, appalling! Start of the vicious circle. There is aid for the children, the elderly, but not for the lower income workers in between. When they get sick, they are really in trouble. They ask you 'what insurance do you have?'”

  Afternoon. Into "the area", I walked in. Walked a block, turned right, and the second block, I found them. I talked with five colored (African American) boys there. (To be continued. 2002/01/25)

                              

 
 


2000年6月初め、そろそろ梅雨
 沖縄へ行った。ホテルの新聞に沖縄の離婚率の高さの記事。生活苦からの離婚と説明。つまり働かないで遊んでいる男への愛想尽かしというケースが多いらしい。他県だったらすぐに隣県に働きに行けるが、沖縄は海に囲まれている分、他の県と比べて仕事がないということか。・・全国平均1.8組、沖縄2.7組。沖縄サミットまであと56日。  村松増美氏がPHP文庫『だから英語は面白い』の中でサミットのことをたくさん書いている。面白い。英語も好きになる。
 ちょっと宣伝。那覇のエッカアネックスホテル一階食堂は静かでよい。お冷はレモンの香りがした。

 
少年事件:新潟と埼玉で事件が続いた。愛知でも。これらの県では高校までの教育に競争性が強かったのだろうか。今、武力による戦争はない。だが、「万人の万人に対する戦争」がそれに代わって生れているのでなければよいが。激しい競争を感ずる少年たちが、「コースから外れてしまった」と感じたとき、「自分を無視されたくない」と思い、極端な行動に出るのだろうか。

 
サービス産業:この産業に従事する人は増えていく。人間はそれが好きだから?それしかないから?アダム・スミスは農業が人間に最も適した仕事といったのだけれど。
2000年11月15日、飲み会、同僚たちと
久しぶりの飲み会でした。二次会まで過ごし、ゆっくりと歓談できました。年末が近づき、酒を飲みながらの歓談の機会が増えるときです。飲まれないように、でも楽しみながら、意見交換をしたいものです。 ただ、考えをまとめる時間がないのです。こういうのを時間に追われ、流されていくというのでしょう。本来、大学とは、教師も学生も、じっくりと考える時間が保障されるべき所のはずなのですが・・。

2004年3月29日 デンマーク訪問

 

 3月22日から27日の旅だった。23日の昼から午後にかけて、Denmark, Institute of Sociology, University of CopenhagenのPeter Abrahamson, Peter Gundelach, UK, Department of Sociology, Sheffield Universityの Alan Walker, Sweden, Institute of Sociology, Sordertorn University Collegeの Sven E. Olsson Hort の各氏とデンマーク名物のスモーク何とかというサンドイッチで昼食、そしてpublic defense、その後の懇談と続いて、終わったのが4時ごろ。Defenseでは私がまず20分ほど報告し、後各氏と25分づつ応答。100人ほどは入るきれいな教室だがギャラリーがいないのがちょっと寂しい。ちょうどマックス・ヴェーバーに関する大会を開催していたので、そちらにかなりの人が取られていたようだ。しかし、この場は私にとってよい研究会になった。経済学と社会学の重複領域を研究しているつもりの私にとって、ヨーロッパの社会学を主とする彼らの視点はやや新鮮である。ただ、かの地の社会学は経済学的視点もかなり入りうるものである。福祉国家論はその代表的な例だろう。交わした論点については別に書こう。懇談会ではシャンペンまでいただいた。また、学生の交換留学についても話した。その可能性について、帰国後少し整理してみる必要がある。

 3月のコペンハーゲンはやはりまだ寒い。しかしそこに住む人々はこの地と気候にしっかり適応している。まず大きな体。これは寒さから体内の冷え込みを防ぐ。次に白い肌。これも適応の結果だろうが、なぜか。赤道近くでは皮膚の色は黒く、中間では黄色、高緯度では白くなる。陽のあたり具

合に比例しているようだが、どう説明できるのだろう?大きな体で寒い中(日中でも4、5度ではないか?)大きな自転車をぐんぐんこぐ彼ら。前回はそうでもなかったが、今回は彼らの「肉体的な大きさ、たくましさ」を実感した。ところで消費税の高さも実感した。25%。5000円のものなら6250円。1万円なら12500円。やはり高い。だがそれだけ彼らはよいものをじっくり選んで使うだろうから、差し引きの損失はこの金額ほどではないかもしれない。

 シンガポール航空の乗り継ぎは、行きが7、8時間、帰りが16、7時間。これだけを空港で過ごすのは、いくら店やらテレビやらが揃ってはいてもかなり疲れる。旅が終わり、日本に着いたときは水に浸した真綿のように疲れていた。この疲れを取り戻すのにはまる2、3日はかかる。運賃は若干安いのだが、これを入れると直行便もあまり高くはなくなるかもしれない。

 

2005年12月26日 健康について

 

 久しぶりに日赤に行った。病気を治しにたくさんの人が来ている。そこで健康について考えた。もしあと3ヶ月とか1年とかの命だったら人はどう考えるものだろう?私はこれまでここ30年ほどはあまりそれを考えずに来たようだ。仕事と子育てが大きかったのか。振り返ると、高校生の頃、自分が生きることについて考えたことがある。自分はたぶん人類の一員として生きているのだと思った。その一人として、私たちは、自分の生まれた場所で、周りの人たちとの幸せの総量を増やしながら生きることがきっと一番幸せに感じるのだろうと思った。これはベンサムの最大多数の最大幸福の考えと似ているかもしれない。それから何十年もたって、今、もし明日死ぬとしたら、と改めて考えたとき、やはりこの思いに帰るような気がする。マザーテレサも、「どう生きたらよいか」と問われて、自分の近くにいる人々に親切にすることです、と答えた。きっと、幸せというものはそこにあるのだろう。スミスが言った「共感」(sympathy)もきっとこれなのだろう。人間同士で気持ちがつながりあうこと。つながりあっていると感じること。不思議だが、私たちは自分が一人だけ幸せになったのでは本当には幸せにはなれないものらしい。たしかに、一人で美しい自然を見ると幸せな気持ちになる。だが、そこに、隣にもう一人誰かがいるときは、その人とともにその自然を美しいと思える状態が幸せな状態なのだろう。そこに二人いたら、二人が幸せでないと、私たちは幸せではないのだろう。100人いたら、100人が幸せでないと。

 ある老人が重い病にかかったときは、どうすべきか。彼が治療を拒み、早く死ぬこと、すべての資源を若い世代にあげることが、彼も周りの人々も一番幸せになる道なのか?ずっと昔のあるときのように、生産力が低く、その老人に向ける薬で飢えた幼子を養わねば幼子が死んでしまうようなときと、生産力が高くなり、全体が豊かな資源に囲まれているときとでは、人の行動は違ったものになるだろう。前者では、その病人にはあまり薬を与えられないだろうが、その病人もそれを納得するだろう。後者の時は、周りの人は病む人にありったけの薬をあげることを選ぶだろう。そしてそれが全員の最大の幸せとなるだろう。