1999年春ー2000年冬、イギリス訪問記 |
2000年夏、中国訪問記 (2002年冬、追記 宋さん来日)new |
海外研修の思い出 〜1999−2000〜 (一部のみ。続きは執筆中。) |
2000年6月始め、そろそろ梅雨
2000年11月15日、飲み会、同僚たちと
文部省の在外研究員となって、アメリカ、イギリスなどの国を訪問した。これは帰国後半年たって、その時のメモを元に書き始めた訪問記である。
1999年4月1日。さあ、今日から10ヵ月の海外研修が始まる。家族とお別れ。福岡からポ−トランドへ飛ぶ。そのあとはアトランタ経由でクリ−ブランドへ。
福岡空港では妻と長女が見送ってくれた。(メモには、この時、「夏に彼らが来るときのために、チケットをボ−ディングパスに換えるとき、イミグレーション・カスタムズのフォーミュレーションをもらっておくこと、と連絡しよう」、と書いてある。そんなことを書いている、私がその時なにか搭乗手続きで失敗したからかな?)
デルタ航空の136便。ポ−トランドで入国審査を受ける。税関では何もチェックなし。スムーズに通過しすぎ。簡単すぎのような気がする。こちらの顔つきで不審な人はわかるのだろうか?
福岡からの機内では佐世保の米軍エアーフォースのマ−クと隣席になった。30代の前半ぐらいか。シカゴのファミリ−のところへ帰るとのこと。一月に帰って以来だという。Mind if I talk to you? と話しかけたら快く応じてくれた。パイロットと同席とわかって少し心強い。以前は飛行機操縦のインストラクタ−をしていたとのこと。今もたくさん空を飛んでいるといった。アダム・スミスの国富論を学生時代に読んだとか、統計学は嫌いだとか、修士号をもっているとか、プレゼンテ−ションは緊張するとか、レ−ザ−マ−カ−は、指が震えると光も震えるとか、笑って話してくれた。知的な印象の人だった。ポ−トランドに降りたときも手続きの場所を教えてくれた。空港の両替場の女性も親切だった。
アトランタへの隣は空席だった。何かの開け方をだれにきいたのか、そばの人にだろうか、“Could you tell me how to open it?"と私が尋ねたのに対し、“Oh, sure"と答えてくれた、近くの黒人女性が開けてくれた、とメモにはある。
ポ−トランドへの飛行機の中で、“Oh, I have to keep thinking, speaking, and hearing in English!"と思い、強く動揺したことを覚えている。・・・だが、ともかくも、高校生の時から30年余り経っての英語でのコミュニケイションの出だしはかなりスム−ズだった。
アトランタからクリ−ブランドまでは後部座席にひとりだった。なぜか乗務員の多くが若い黒人女性だった。最初の長距離は白人女性の乗務員がほとんどだったが。
「客と売手が水平の立場の欧米人、だからちゃんとplease, thank youを言おう」、との遠山氏の言葉を正しいと思う。仕事をしている人たちは堂々としている、と強く感じる。
Skymateで読んだサマンサの記事には同感した。13才だったか、「ファッションに何の意味があるの?もし宇宙から敵が攻めてきたら私は戦うんだ。宇宙飛行士になる。」と勉強もテコンド−もがんばり、友達との付き合いでも彼女等を大切にし、自分の意見をしっかりと言える、そんな姿に感銘する。皆がこの子の様に育っていったらすばらしい国になる、アメリカは、と思う。
話がとぶが、ケリ−・リンもよく似た女の子のようだ。サマンサは13才で私の長女より半年若いだけ。何にでも興味をもち、ママから料理もならい(キム母さんはあまり料理をしないようだが)、パパとゆっくり釣りもする。パソコンにも詳しい。彼女の父は義父で、一時はその離婚騒動が1、2年の傷を残したが、いまは十分に回復し、生父とも会っているとのことであった。
クリ−ブランドの空港では、荷物の受け取りのとき「誰かが自分のバッグをもっていったら」と思うと心細くなった。それが起こりうる場所である、あの荷物が出てくるグルグル回るところは。ホテルに行くため空港のカウンタ−で尋ねると電話せよといわれた。専用電話をし空港をでるとすぐそこにホテルからの送迎バスが止まっていた。定期的に回っているらしい。バスといえば運転手のセリフがなかなか聞き取れなかった。この時はホテルに行くのだからそれほど困らなかったが翌日乗り込んだときdestination?と聞かれ、2度目でやっと分かった。“To the airport."チップをあげるべきだったろうか?前日の人は荷物下ろしを手伝ってくれなかった。チップというのは難しい。
ホテルでは黒人の男女がフロントで応対してくれた。“On business?"(分かる。)“Your company or your home address?"が2、3回目でやっと分かった。ベルボ−イはいない。1人で部屋まで行く。広いきれいな部屋。170ドルの部屋が120ドルで使えた。疲れは大きかった。翌朝起きたときにも疲労感は大きかった。
4月2日。朝、空港でホテルからもってきたUSA Todayを読む。だんだん英語の勘を戻さねば。このときのメモには「前の晩も空港で英語を意識して読んだ」とある。
ニュ−ア−クまでの相席となったジョンは高校の先生。30歳代の後半か、なんと驚いたことにAFS生の世話をしているとのこと。今年は彼の学校は3人も受け入れる。年によっては4人のときもある。こちらからはロシアに女の子がひとり行くそうだ、他の国に行く子もいるとのこと。きれいな、少しゆっくりめの英語で話してくれた。祖父がフランスに住んでいるという。修士号ももっており、〇〇Green
Collegeでフランス語も教えているAssistant Professorでもあるそうだ。
空港に到着。「アメリカのママとパパ」に会う。相変わらず暖かな二人でうれしい。これまで日本で4回、アメリカで1回会っている。私が17才のときからだからすでに29年の歴史が積み重ねられた。歴史といえば、妻に出会ったのが19才のときだからこちらは27年の歴史だ。こういう数字を見ると、かつて長い時間と思っていた10年、20年という時間の単位がすでに自分にかかわって過ぎているということで、なにか不思議な気がする。高校生のときの留学時にも、院生のとき妻と訪問したときも、アメリカでは車の運転はしなかったが、今回ふと、空港から家まで運転しているパパをみて「ぼくも運転できそうだな」などと思ったのを覚えている。
1時間程でポイント・プレザントの町に着く。いまはちょうどイ−スタ−・バケ−ション。昔の同級生のラリ−も南へ行っているとメ−ルで書いてきた。昔どおりの静かな通り、カラマス・プレイス。途中でハイスク−ルにも寄ってきた。むかしなつかしい校庭の緑。たぶん以前と変わらない芝生だろう。二、三本ちぎってポケットに入れた。草の匂いもなつかしい。ちょうど休み中なので校内には入れない。家に着いたとき、家の前の芝生が、その上でサッカーの練習もしたその芝生がなぜか小さく見えた。そして、・・家の中はものが増えた。あの裏庭に突き出した小さな食堂、私たちが食事をしたあの食堂などは半分物置と化していた。
少し遅い昼食、または少し早い夕食をWarfsideだったか、でとった。入り江の小島を見ながら、彼らの一人息子、私の「弟」にもなるのだが、リーの近況も聞いた。ママとパパ、スキッドモア夫妻は何人も何人も私のような留学生を受け入れてくれた。私の前に短期の日本からの女の子、後ではドイツのクリスチーナ、ペルーのセシ、ベネズエラのジルマ、ほかにも確か男の子がいたはずだ。リーは世界中の子たちと1年づつ生活したわけだ。すごい経験だ。そのリーは大学は中退だったがコンピューター操作の能力を生かして、プルーデンシャル保険会社で働いていた。いまはAT&Tの子会社のCredentialで働いている。2、3年前からサウジアラビアにいる。年収は20万ドルとか。向こうの国の財政にかかわる仕事をしているらしい。経理のソフトウェアのプログラムづくりだったか、「王様たち」とかかわる仕事らしい。休暇のときにはアメリカまでコンコルドで帰してくれたり、家族のキムやケリーをサウジによぶ費用を出してくれたり、たいそうリーが大事にされているのが分かる。
4月3日。通りの向こうにすむキャロルが会いにきてくれた。留学していたときもとてもよいおばさんだった。昨年ガンの手術をしたそうだ。少し痩せて見えた。が、相変わらずの笑顔。しばらく楽しく話をした。もっていった家族の写真を見せる。皆、長女のバレーの姿をビューティフルとほめてくれる。この日は、ディナーの後でいらっしゃいと誘ってくれたが、家で、いま問題となっているコソボ紛争の話をしているうちに11時近くなってしまった。私のむかし使っていたベッドルームがそのままにあった。ただ、ここもものが増え、ものの置場になっていた。パパのファックスの機械もおかれていた。ベッドカバーはパッチワークのデザインだったような気がする。
翌日はフリーホールドの町のモールに買物にいった。途中で、かつて斜向かいに住んでいたジャネットの家のそばを通ったように覚えている。モールではしばし「ママとパパの子ども」に戻り、青い素敵なTシャツを買ってもらう。これはこの後滞在したイギリスでよく着たものだ。このモールは大きい。そして人も多い。たぶんこの日は休日だったのだろう、すごい人出だった。こどもも大人も、そして家族連れも多い。お昼はたくさん出ているテイクアウト用のテラス食堂で、あのむかしの高校留学時に大好きになったサブマリンを食べた。しかし、今回食べたそれはまったくおいしくなかった。「ポイントプレザントのマイクの店の方がうまい」と、お母さんだったか、が言った。そういえばやはりむかし食べたピザもトマトがたっっぷり乗っていておいしかった。
昨晩ケリーと話した。ケリーのKはお母さんのキムの頭文字と、 Lはお父さんのリーのそれと同じだ。なにか、可愛い一人娘への両親からの愛情を感じさせる名前だ。電話口で少し話したケリーは相当利発そうな印象だった。「はい」の意味の「イヤップ!」の言い方も元気だった。セブンイレブンでニューヨーク・タイムズを買ったが税がつかなった。内税だろうか?
夕食はママのスパゲッティ・ウィズ・ミートボールズ。あのなつかしい味は昔のまだ。私は食べることを楽しんで、昔もそれを喜んでもらった。記念写真を取りたくなったが、3人どうやって一緒に入れるだろうか。三脚はない。私はいいことを思いついた。パパに鏡をもってもらってそこに私の顔を映すのだ。よい思いつきだ、と皆思った、・・・はずだった。だが、後で分かった。フラッシュを焚くと、鏡が光って私の顔は映っていないのだった。
食事をしながら、これまで受け入れた留学生たちの話をたくさん聞いた。ベネズエラのアーマンドの両親は、最初彼についてアメリカまで来たこと。セシの従兄たちの話。そのひとりの結婚式にママとパパはペルーへ行ったが、ちょうどその時アーマンドはハーバードの卒業式だった。アーマンドはぜひ自分の卒業式にきてくれ、といったのだが、いけなかった、それ以来アーマンドからは連絡がない、とのこと。ドイツから来ていたクリスチーナはスタンフォード(だったか)で、確かジャーナリズムを勉強したのだが、いまは母国のどこかで教職についているらしい。その彼女が教え子たち7、8人と来て、裏庭でテントを張ってはってそこに収容したこと、彼らが英語をしっかりと話し、ヒトラーについてそれぞれの意見を闘わせていたことなど。
意見といえば、コソボ紛争について、朝会ったジャネット、あの、29年前はまだ小さな小学生だったジャネットが、久しぶりにあった後、すぐにコソボ紛争について私の意見を求めてきた。彼女は空爆に批判的だった。私はまだアメリカにきたばかりで、日本であまり接しなかったこの話題について、中立的な考えを、つまりはあまりそのことをよく考えたことがないということを述べるしかなかった。「それはとっても如才のない意見ね、広人さん」と、ジャネットに皮肉っぽく言われてしまった。夕食のときのパパの意見は、これは陸上部隊も介入せざるをえなくなる、もしかしたらベトナム戦争や第二次大戦のようになる、ということだった。
3つのPOWsがニュースに出ている。トライアル(査問?)、コートマーシャル(軍法会議)・・などの言葉が聞こえる。ちょうどこのころ、セルビア軍に捕まった3人の米軍兵士の写真が米国にショックを与えていたときだった。非人動的な行為をある国の政府がとっている時、外国はどうすべきか、この問題が問われていた。これは今も変らず大きな問題としてある。
どうしたらよいのだろう。「ヒトラーの再現」は許してはならない。これを基準にすることができる。しかし、それと内政干渉をできるだけ避けることと、しかし他国で非人道的行為を確認すること、それが確認されたらそれに反対することをどう両立させるか。テレビではベルグレイドで開かれているNATOの介入反対のロックコンサートの様子も映している。ともあれ、このコソボの話題はそれからも私がイギリスにわたった後も欧米を巻き込んで夏までつづく大問題となっていく。
ところで、アメリカ人もやはりよい意味での独立志向がある。「自分で頑張る」姿勢からでてくる自信。たしかに、人には頼れない、という姿勢をもてば、自分の力が湧いてくるということは分かる。だが、メディケアを受けている老人がお金が続かず「different wing」に移らざるをえなくなったということも聞いた。しかし、いまは失業率が低くなったことがアメリカ社会に全体として何かしらプラスの雰囲気を漂わせているようだ。29年来最低の失業率。どういう脈絡だったか、ママは「不況が起こって生じた損失は、その後に埋めることができない」と言った。
隣の家のジニー・ヴァン・クリーフさんの家にあいさつに行った。お会いしたのは若いほうの方だった。昔お会いしたお年寄りの方はもちろんもう亡くなっていた、それは知っていた。熱心なカトリックで、その夜のサービスでも聖書を読む役をするといっていた。もう60才ぐらいの弟さんが外で庭の手入れをしていた。帰りぎわに握手したとき、彼の大きな手が印象に残った。イースターがレザレクション(キリストの復活)であること、キリスト教徒の一年はここから始まること、ジューイッシュではパス・オーバー(過ぎ超しの祝い、罰を逃れること)を祝うこと、を教えてくれた。私は日本のお盆の話をした。先祖を精神的に背中に背負い、三日間家に帰り、一緒に過ごすと話すとこれに感銘していた。
クリントンの不倫疑惑の事件についてはパパは彼の嘘はよくないと厳しく語っていた。
Sunday,
4th. Mom and pop had a phone call from Lee. Pop took the phone and I talked to him later. Pop said
he often called them. His voice was the same, young one. Mom had expected and
waited for Kellie and Kim, but Kellie was sick and they would not be able to
come, it seemed. Their Chinese friend, Sochina could
not come because her baby was sick. We decided to visit Kellie to Summit, their
town. A lot of forsythia were blooming on the roadside on our way. Beautiful
yellow and tiny flowers. This is pop's third drive on the Garden State Park Way
since I came here. Passed a block with medium size houses, then to a large size
house block, or district. They live on the first and second floor of a house
they rent, mom said. Met Kellie, a little shy or may be tired because of her
cold, but smiled when I said good by. Showed them Yuki's ballet pictures, too.
Everybody admires them. Before we left, had a nice spaghetti with meat-ball
dinner. We drove back home that night. I remember a little clumsy scene when I
tried to shake hands with Kellie to say farewell when at the same time she
expected a hug. They were warm. Kim was warm, too.
Monday, 5th. Day to leave. Joyce and
Bill came. Still the same. Margi, not married, they say, but
works as a sculptor(?). Drove up to Newark airport. Thanked mom and pop. I do
want to send them a poem to thank their hospitality to us all, their AFS
children. Flew to Cleveland.
From the airport rode the RTA to
University Heights. Waited for the Circle Line Bus there. It is free.
Waited but did not notice that it stops working at 5:30 pm. Talked with a
black, middle-aged woman for a while, mostly over American society and
education and children. “The teachers are not good. Good teachers go out for
better paid jobs.” After a while she talked to a university police on an
emergency phone. They sent a bus for us.
Tuesday, 6th. Visited Case Western
University. (Wrote this note in the morning of 8th in a park near the Glidden House,
my hotel. Near the botanical Garden. Dr. Long took me there yesterday. Chilly
but fine. Perfect blue sky, three days in a row. Can hear little children
crying. They are playing in the park with three adult ladies. It'll soon be
warm.)
On the 5th, I called Dr. Long and Dr. Pranab
Cahtterjee. When we first met at the front hall of the Glidden House, Dr. Long
talked in Japanese which was releaving to me. Pranab (I call him so since that
reception party at his home
yesterday) said we didn't promise to meet this evening and would see me
next morning, and so we did. ( A student with a bag in his back just passed by
in the park.) When we saw at the front hall, he was just like the man I
imagined. A nice fellow. His office was right next to my hotel. A newly built
one, but the office
was not large.
In his office, talked over some points
about his class. Professor Hokenstad walked in. A tall, nice person. Talks in a
good voice a little slowly. Good for me. Pranab is a humorous person. Was
presented his two books.
Into
his class. Ph. D class. 7 to 8 students. Had a good time. Gave a lecture about
an hour. Then a short break. Dan bought me a coke. Saw lockers for the students. Then in the
class again exchanged opinions and answered questions. I drew three or four
pictures on the white board. Seemed they enjoyed them. Pranab later told me the
students liked the lecture and wanted me to come back again. A great honor for
me.
Lunch with Terry (Hokenstad) and Pranab at a yacht
restaurant. Saw pranab's
yacht. Lake Erie, right next door. Ate a Mexican dish. Talked for a
while. Walked and could see a part of the lake on the way back.
April 7th. Met Dr. Long. A little
shorter than I. Glasses. A nice, intelligent and friendly smile. Showed me
Shaker (?) Heights, one of the oldest“new”towns. Two brothers planned and made
it in the 1920s. RTA, too (?). Beatiful, old decorated houses. (Now getting
warmer. The sun on my back.) Parked and walked to her office. A neat one. Case
Western has more graduate students, 60% of all or more. John Carrol, mostly
under graduate. First attended her class, Social Change. Saw an impressive
video, “Hamburger, Jangleburger” with several students. Small sized class! The
atmosphere was a little similar to that of high school. After the class, talked
with her a while and she went off to a tenure meeting. Dr. Seward showed me
around in the campus. John Carrol's statue, big. Dormitory, four roommates, one
nice living room (only for seniors). 80% are living in the dormitory, she said.
Beiji (?) drink, a serious problem. (In Case Western, too,
Terry said. “They take it for granted.”)
Met Dr. Harris, had lunch with them.
Had a good time, talking. Cafeteria for teachers. Met Dr. Chirayath and talked
in a room nearby, alone with him. Talked over students, alchohol and exchange
students' depression. Agreed to the need of more careful treatment of them like
arranging good students as their roommates. Sophia (Jochi) and Nanzan, Jesuit,
Francisco Xavier! (Yamaguchi!)
A lot of the students, catholic. But not strongly determined to study. Mostly
from well-off families.
Dr. Dezolt's class. Social Stratification. He spoke
clearly. He tried to let
them think enthusiastically. Two students called themselves as
“non-traditional”.
Met Dr. Eslinger. He pronounced
"Reich" in a german accent. He taught one class, “Social Problems”.
The same textbook I had. He knew it, which made him feel familiar to me. We
talked over American society. Corporates, the ultimate ruler. Middle income
people, living in the suburbs. Now no more unity between them and the lowest.
(Next is inserted a paragraph by my
daughter. She wrote it while I was first writing this essay.
Now my father is watching TV, and I'm
very free. But I'm not really free. I have to study Japanese and Social study.
I have a test next Thursday. I hope Friday come soon. Next Friday, my school
will finish at twelve. I don't want that Saturday come, because I'll receive a
paper of next test that day.I DON'T LIKE TEST!!!!!!!!!!!☆★☆★☆★@刀茶ユЮ )
Dr.Long, Dr.Eslinger, and Professor
Hokenstadt, were all concerned about the present conditions of US society,
minority people, being left behind.
Had a good time in Dr.Eslinger's
office. His desk was full of papers. He expected a conference next week. Being
vice president, he was busy. Many phone calls came in the meanwhile, but he
gave up to answer some of them.
In the lobby of the hotel, I got a
paper from Dr. Hokenstadt on Sweden. Pranab's house was nice. I met his wife
and daughter, Slavaya (born in the Monsoon season, he said.) His wife is a
psychiatrist, and attend court to make testimonies. I met Paul Adams and his
wife, Bill(?) and his wife, and a Japanese couple, Masahiro and Midori, and
their daughter, Emi, Slavaya's best friend. I talked about "peanuts".
Pranab talked about the welfare state
problems over the table, some of which could not be heard. The two little girls
showed us ballet. Nice. We, adults, each became their audience. We had desert
brandy, "Grand Miner".
Masahiro works at Cleveland Clinic. Ten
thousand people are working there. Midori works at some experimental room.
Pranab's wife told me that she is a little homesick. She was born in Aomori and
brought up in Niigata. Pranab told me that his family all liked me. I haven’t
kept in touch with them after I went to the UK.
On the way back home, Terry classified the people
as Pranab as middle, Terry, as social democrat, and Adams as left. Here no more
powerful proponents from the left wing exist. Dr. Long told me that they are
somewhat careful while they haven't got tenure. On TV at night, “The Century”
was on about FDR. I told Terry
that I would write him when I have finished my paper on the welfare state. I
told him “I will expect your return” and he smiled. Kosovo has been a big topic
at the party, too.
Pranab: "Give them 2000 dollars
each, but it won't solve the problems if you don't teach them how to
work."
Dr. Dezolt: "Give them training.
And then what? Could they live with 5 dollars per hour? Mulptiple with 2020
(hours), it will make 11,000 dollars. Welfare benefit is 14,000 dollars a year.
“When was the last time we saw an article
on welfare?”
In this country work place welfare is
prevalent. Most people must take care of themselves in the market through
workplace benefits or buying health and old-age insurance. Medicare gives
stigma. Nursing home gives guilt-feeling. Medicaid, too. When I mentioned
guilt-feeling, Dr. Long said “glad you know that.”
April
8th, Friday, noon, in the park. I happened to talk with a librarian at law
school, who had just started working last August. “We have the areas around
here, too. Poor people. She majored in political economics and information
science in the graduate
school. She still likes to learn, goes to classes, just attends them, hopes to
continue to study, and be a teacher someday. She said “high school teachers
become teachers because it is easier. Some students can't even read, appalling!
Start of the vicious circle. There is aid for the children, the elderly, but
not for the lower income workers in between. When they get sick, they are
really in trouble. They ask you 'what insurance do you have?'”
Afternoon. Into "the area", I walked in. Walked a block,
turned right, and the second block, I found them. I talked with five colored
(African American) boys there. (To
be continued. 2002/01/25)
2004年3月29日 デンマーク訪問
3月22日から27日の旅だった。23日の昼から午後にかけて、Denmark, Institute
of Sociology, University of CopenhagenのPeter Abrahamson, Peter Gundelach, UK,
Department of Sociology, Sheffield Universityの Alan Walker, Sweden, Institute
of Sociology, Sordertorn University Collegeの Sven E. Olsson Hort の各氏とデンマーク名物のスモーク何とかというサンドイッチで昼食、そしてpublic
defense、その後の懇談と続いて、終わったのが4時ごろ。Defenseでは私がまず20分ほど報告し、後各氏と25分づつ応答。100人ほどは入るきれいな教室だがギャラリーがいないのがちょっと寂しい。ちょうどマックス・ヴェーバーに関する大会を開催していたので、そちらにかなりの人が取られていたようだ。しかし、この場は私にとってよい研究会になった。経済学と社会学の重複領域を研究しているつもりの私にとって、ヨーロッパの社会学を主とする彼らの視点はやや新鮮である。ただ、かの地の社会学は経済学的視点もかなり入りうるものである。福祉国家論はその代表的な例だろう。交わした論点については別に書こう。懇談会ではシャンペンまでいただいた。また、学生の交換留学についても話した。その可能性について、帰国後少し整理してみる必要がある。
3月のコペンハーゲンはやはりまだ寒い。しかしそこに住む人々はこの地と気候にしっかり適応している。まず大きな体。これは寒さから体内の冷え込みを防ぐ。次に白い肌。これも適応の結果だろうが、なぜか。赤道近くでは皮膚の色は黒く、中間では黄色、高緯度では白くなる。陽のあたり具
合に比例しているようだが、どう説明できるのだろう?大きな体で寒い中(日中でも4、5度ではないか?)大きな自転車をぐんぐんこぐ彼ら。前回はそうでもなかったが、今回は彼らの「肉体的な大きさ、たくましさ」を実感した。ところで消費税の高さも実感した。25%。5000円のものなら6250円。1万円なら12500円。やはり高い。だがそれだけ彼らはよいものをじっくり選んで使うだろうから、差し引きの損失はこの金額ほどではないかもしれない。
シンガポール航空の乗り継ぎは、行きが7、8時間、帰りが16、7時間。これだけを空港で過ごすのは、いくら店やらテレビやらが揃ってはいてもかなり疲れる。旅が終わり、日本に着いたときは水に浸した真綿のように疲れていた。この疲れを取り戻すのにはまる2、3日はかかる。運賃は若干安いのだが、これを入れると直行便もあまり高くはなくなるかもしれない。
2005年12月26日 健康について
久しぶりに日赤に行った。病気を治しにたくさんの人が来ている。そこで健康について考えた。もしあと3ヶ月とか1年とかの命だったら人はどう考えるものだろう?私はこれまでここ30年ほどはあまりそれを考えずに来たようだ。仕事と子育てが大きかったのか。振り返ると、高校生の頃、自分が生きることについて考えたことがある。自分はたぶん人類の一員として生きているのだと思った。その一人として、私たちは、自分の生まれた場所で、周りの人たちとの幸せの総量を増やしながら生きることがきっと一番幸せに感じるのだろうと思った。これはベンサムの最大多数の最大幸福の考えと似ているかもしれない。それから何十年もたって、今、もし明日死ぬとしたら、と改めて考えたとき、やはりこの思いに帰るような気がする。マザーテレサも、「どう生きたらよいか」と問われて、自分の近くにいる人々に親切にすることです、と答えた。きっと、幸せというものはそこにあるのだろう。スミスが言った「共感」(sympathy)もきっとこれなのだろう。人間同士で気持ちがつながりあうこと。つながりあっていると感じること。不思議だが、私たちは自分が一人だけ幸せになったのでは本当には幸せにはなれないものらしい。たしかに、一人で美しい自然を見ると幸せな気持ちになる。だが、そこに、隣にもう一人誰かがいるときは、その人とともにその自然を美しいと思える状態が幸せな状態なのだろう。そこに二人いたら、二人が幸せでないと、私たちは幸せではないのだろう。100人いたら、100人が幸せでないと。
ある老人が重い病にかかったときは、どうすべきか。彼が治療を拒み、早く死ぬこと、すべての資源を若い世代にあげることが、彼も周りの人々も一番幸せになる道なのか?ずっと昔のあるときのように、生産力が低く、その老人に向ける薬で飢えた幼子を養わねば幼子が死んでしまうようなときと、生産力が高くなり、全体が豊かな資源に囲まれているときとでは、人の行動は違ったものになるだろう。前者では、その病人にはあまり薬を与えられないだろうが、その病人もそれを納得するだろう。後者の時は、周りの人は病む人にありったけの薬をあげることを選ぶだろう。そしてそれが全員の最大の幸せとなるだろう。