第2部 2004/7/12

 

2004・7・12

 

イラクで殺されたフリージャーナリスト、橋田信介氏の『イラクの中心でバカと叫ぶ』を読んだ。彼はバグダッド陥落後にテロ活動が活発化し、長期の不安定状態が起こることを予期していた。また、アメリカとイラクの戦争については、国連の査察が事前に行われていて、そこには米政府の関係者も入っていたであろうこと、よって、開戦前に米軍はイラクのすべての攻撃対象見取り図を詳細に手に入れていたこと、よってこの戦争は猫と死んだねずみのそれであったことを書いている。あるいは象とありか。・・・これを読むと、ますます、やらなくてもよい戦争をし、イラク人で1万人以上、米英同盟軍で千人ぐらいの死者を出した戦争を始めたブッシュがヒトラーに思えてくる。

 

☆・・・交通ルールと警官の言動に対する意見

通勤時、車道の端を自転車で走っていたら、二車線になるところで、後ろから来た車が「邪魔だ邪魔だ、どけどけ」とクラクションを二度鳴らした。自転車が車道の端を走っていけないはずはない。腹が立ったが、危険を感じて自転車も通ることのできる歩道に入った。その後、すぐ先で止まっていたさっきの車に追いついて、ウィンドウ越しに(若い男女の二人連れが乗っていた)、身振りで「ここは自転車が走ってよいはずだ。おかしいぞ。」と抗議した。

そのあと、自分の行動の正当性について確かめようとすぐ先の平川交番でたずねた。警察官二人が対応した。彼らの説明は、「自転車は車道を走れる。」「しかし、自転車が走ってよい歩道が横にあるのだから、安全のためにそちらを走ったらどうか」と言うものだった。

法的には走ってよい、「だけど、その場に警察官がいたら、歩道に行くように指導しますよ」、の発言は納得できなかった。そこで私は二人に、この場合は、(つまり、警察官が「そこは危ないので走らないほうがよい」と判断するようなケースは)、「ここでは車道でなく歩道を自転車はとおりなさい」、という規則を作るべきだ、と要望した。具体的には、ふしの川からセルフのガススタンドまで、車道があるところは、自転車は車道を通らなければいけない、という規則である。二人は提案してみると言った。・・・さて、実現するだろうか?(2011年春の時点ではまだ実現していない。)

 

もう一つ追加。上の警官たちとの会話のとき、なぜかまず氏名住所職業を聞かれた。これは犯罪者扱いのようで今思い返しても誠に不愉快である。本当は答えなくてもよかったのだろうが、あのような場所では、「後ろめたいことがないのなら、言えるはずでしょうが」と言う暗黙の圧力をまざまざと感じる言い方をしてくる。この辺に公的に認められた武器を携帯する警官の「いやらしさ」を感じてしまう。これは直すべきだ。警察官に対する是正教育を望みたい。(その後山口警察署の相談窓口に聞いたところ、相談者への回答の必要で名前を聞くことはある、とのことだった。だがあの時は、すでに回答は得ていたので、その意図ではなかったはずだ。)

 

★(5年後に記入)時々読む椎名誠の本に『さらば国分寺書店のオババ』がある。そこに、上と少し似ている警察官のエピソードが載っていたのを思い出した。それは椎名氏が若いころ無灯火で自転車に乗っていて若い警察官に止められ、職務質問をされた。そのとき椎名氏が感じた感情が、上の私のそれと似ている。警察官とは悪人を捕まえてくれる頼りになる人と思う。しかし、人を見たら悪人と思う人たちである、怖い、と市民に思われる、そんな存在でもある。それは解決されねばならない(2009・4・23,2011・3・24

 

 

 

2004812

 

修士ゼミ卒業生と再会。博多駅パパトーマスにて。Nさん、S君、二人とも元気そう。S君はこれから就職に向けて業績を積まねばならない。しかし、彼のテーマからして、一つ一つ論文を積み上げていくよりも、まず、全体の見通しをつける必要がある、また当然そうならざるを得ないだろう。見通しがついたときは細部の諸論点もできているといったことになろう。これはたぶんに彼と似たテーマを立てている自分の研究暦から類推しているのだが。Nさんも同じ大学なので、S君の力になってもらえそうだ。

 

2004812

 

学部ゼミ卒業生と再会。M君。光に帰省中、山口にホテルを取って来てくれている。だんだん茶屋、にぎやかで活気あり。(ただ、お亀茶屋はやはり静かさでは優る。)GSのアルバイトでの仕事の経験、そしてアース製薬へ。今度、郷里へと。うまくいくように祈りたい。「小さな企業でちゃんとやれる人は、大きな企業でもやれる。」「今は企業に余裕がないので、大企業では中小企業でやれることが証明された人を採る。学生はまず中小企業に入り、それから大企業を狙ったらよい。」経験に基づく言葉は説得力がある。後輩の学生たちとも話したいとのこと。秋ごろに一度機会を作れたらよい。「経済学に決まった答はない、との私の言葉が印象に残っている」とのこと。

 

セミの声が少なくなった。海ではくらげも出始めたと聞く。暑さも峠を越しつつある。暑い2004年の夏も過ぎようとしている・・・。

 

2004116 大学祭の日

 

9時過ぎ。外では学生たちが集まり始め、マイクテストが始まっている。快晴。大学祭にはもってこいの日だ。

今年は台風が多かった。地球環境の悪化と関係があるのだろうか。新潟では地震もあり、そしてイラクでは残酷な殺し合いが続いている。

今朝のニュースで高知のある短大で先にイラクで殺されたジャーナリストの安田さんの奥さんが講演をしたとの報道があった。250人の教室で立ち見が出たほどとのこと。まず香田証生さんの事件に触れ、日本政府はなんと冷たいのか、また、目の前で起こっていることだけでなく、なぜそうなったのかを考え、物事の本質を見通すことが大事、と。また、亡くなった夫は61歳になっても現場主義を貫いたことを誇りに思うと。

「なぜそうなったのか」を考えつづけよ。そのとおりだ。昨日の別の報道では、ブッシュに投票した「サッカーママ」(ある程度裕福なアメリカの主婦たち)の一人は、中絶反対、同性婚反対だからブッシュを支持した、イラクとの関連では迷うところもあるが、と言っていた。同じ命ではあっても、他国の罪もない、現に今生きている人たちを何千人も殺すことの是非は、何よりも優先されて問われるべき争点ではないのか。彼らは大切なことは何かを間違えているのではないか。あるいは、今アメリカ国内で安穏に生きている自分にとっては、イラクのできごとは、そこで誰が死のうが、それは自分にとっては遠い遠いできごとなのだろうか。

 

日本として何をすべきか

 

一昨日のゼミナールでの議論から:

1 日本は自衛隊を撤退させるべきだ。だが小泉首相、政府は12月からさらに継続するといっている。その究極の理由は、以前小泉首相が述べた、「北朝鮮が日本を攻めてきたとき、日本を守ってくれるのは米国だけだから、米国を助ける(この場合イラクで)のは当然のことだ」、というものだ。

2 しかし、日本国民の過半数は、この戦争が正義の戦争ではないと考えている。

3 では、国民の望みをどうしたら実現できるか。それは、国民が小泉首相に対して、「ブッシュ大統領に対して、北朝鮮を攻めないと文書で約束するよう要望しなさい」と要望することだ。この文書の約束が実現すれば、もはや日本は米国に対して、米国が誤っていても追従すると言う態度はとらずに済む。フランス、ドイツ、ロシア、中国のように、自国の考えで行動できる、名実ともに主権を持った国になれる。

 

(なお、今後、戦争と言う重要問題では、国民の投票を行うべきだ。それは一握りの「指導者」たちに任せるには重過ぎる選択だ。今後、法を改正すべきだ。緊急の場合のみ、事後承認を求めるとすればよい。塚田)

 

2004・11・29

 

23−25日と韓国の仁荷大学校を訪問した。同大学の創立50周年記念を兼ねて、同大学校の教官組織(Faculty Association)が国際会議を開き、経済通商大学の経済学部の張教授から報告者として招待された。4月からは組合を一旦離れていたが、昨年度の役員だったのでその経験からの話を期待された。山口大学経済学部に留学し、昨年度の東アジアシンポでもお世話になった、今仁荷大学校4年生のYoonSook Kangさんが空港まで迎えに来てくれた。F出口で待っていてくれたが、私はEから出、しばらくして呼び出しをしてもらったら会えた。

23日は張氏にKorean Gas Corporation Incheon LNG Terminalの見学に連れて行ってもらった。長い橋を渡った先にあり、爆発物ともなりるものでもあり、テロを警戒している施設だ。インドネシアなどから冷却した天然ガスを運んできて、液体化、気体化して韓国で使う。クリーンなエネルギーだ。ゴムボールと金魚を液体状のLNGに入れる実験も見せてもらった。

もう一つ、テクノパークにも連れて行ってくれた。干潟を埋め立てた広い場所に、中小の先端企業を招致するところだ。すぐそばには巨大なアパート群が完成間近だった。そこの住人は、まもなくそばに地下鉄ができれば、ソウルへの通勤も楽になるとのこと。3、40分くらいか。今は高速で通うが、かなり混むようだ。このパークも、仁荷大学の図書館内の3D施設も、Kogasの映像施設も優れたものだった。Digital技術が非常に進んでいる。アメリカの南カリフォルニア大学と協力して技術を開発中とのこと。海底ケーブルをもっと太くするとさらに進歩できるという。

韓国料理と韓国風日本料理を食べる機会があった。前者は非常に健康的な料理だった。野菜が多い。後者は味付けも盛り付けも、使う材料も少しは、すでに半分は韓国料理といってよいものだった。張氏も「韓国風」とはっきり言った。

24日、シンポ当日。山口大学の教職員組合の話を中心に、あとは国立大学の独立行政法人化についてもやや詳しく話した。(今振り返ると、結局これも経済のグローバル化を第一の背景として、そして現在の日本の長期不況を第二の背景としてはなさないと、十分分からないテーマであったろう。しかしこれを入れるには、私自身がまずそれをもっとよく把握しないといけない。)他に、インドのネルー大学のLama教授と、韓国の他の2、3の大学からの報告もあった。仁荷大学の教官組織はまだ組合にはなっておらず、それは他の諸大学も同様らしい。また、教官と事務職員とは別の組織となっているとのこと。(事務職員は組合を作っているとの話を聞いたような気もする。「だから、教官は組合をしなくていいです。私達事務職員が運動して、自分達の給与を上げれば、教官の給与も上がりますから。」と、ある教員が事務職員に言われたといっていた。だがこれは自分達の主体性を認められないという点で、好ましくない状況だとも言っていた。韓国の教員の組合作りはこれからということだろう。

報告途中から眼が以上に痛くなり、両目ともぽろぽろ涙が出、おまけに鼻水まで出た。ハンカチで涙をぬぐいながらの報告となった。前日、3時半起きが堪えたのだろうか。前夜は8時間ほど眠ったのだが。

Lama教授は40代前半、すぐ思い浮かぶインド人のようではなく、肌の色はあまり濃くない。日本人といっても通る。彼によれば、同じような肌の色の女性が今の外務大臣だが、彼女がテレビに出ると、「なぜ外国人を外務大臣にしているのか」との意見が視聴者から出るという。彼はダージリン出身だ。ブータンやネパールに近い。東南アジア、または中国あたりの人種の系統に近いのかもしれない。今はデリー(ニューデリー?)に居るが、将来は故郷に帰って、毎朝ヒマラヤ山脈から昇る朝日を見てすごしたいといっていた。すでに家も見つけて改築中とのこと。張教授、カン教授、もう一人、Lamaさんの友人の研究者の女性は、昨年インドを訪問したとのこと。Lama氏によればデリーはroughな町だ。ラマ氏はその言葉遣いでつい故郷で話してしまい、町の人から驚かれ、注意されると笑っていた。

もう一つ、インドの大学で驚いたのは、授業料がひと月1ドル、生活費は20ドル、あと何かで1ドル、合計22ドルで勉学生活を送れるという。韓国の学費は、仁荷大学の場合、日本とあまり変わらないようだ。ネルー大学の入試倍率は134倍といっていた。仁荷大学の歴史も詳しく知った。100年程前インチョンからハワイに移住した人たちが、半世紀後、お金を韓国に送った。時の大統領がそれにお金を加えて国立大学を作った。1960年ごろ、運営がうまくいかず、私立大学に変わったという。「米百俵」に優るとも劣らない話だ。

経済のグローバル化、この言葉が今、私の思考の焦点になっている。報告後の討論のとき、コメントを求められた。私は「教員組織、教員組合と形も違い、課題も違うところもあるが、経済のグローバル化が生み出す共通の問題に直面しているという共通性もある」と述べた。Lama氏のコメントをされた韓国の女性の討論者も、討論の中で、またその後のコメントの中で、「人々がばらばらな状況」について心配していた。食後のお別れのとき、「私も同じ心配をしている」と伝えた。考えは伝わったと思う。

 

2004・12・27 We are killing Iraqi people.

 

相変わらずイラクでは戦争が続いている。その背景の一つとしてのパレスチナは言うまでもない。2年になろうとするイラクの占領政策。フセイン大統領は独裁政治をし、国民を苦しめたといわれるが、それに対して他国が攻め入り、その国の政権をつぶすということが許されるのか?国連の決まりでは自衛のためにのみ他国との戦争が許されている。今回はそれについて大量破壊兵器MDWがテロリストの手に渡りアメリカが攻撃されるから、だからアメリカが先制攻撃をするのだという理由で侵略が行われた。しかしアメリカ自身今ではMDWは存在していなかったと認めた。この時点でアメリカはイラクに謝罪し、兵を引き上げ、イラク国民に賠償をすべきだったのではないか。フセインに対しては一旦イラク国民の低に返し、自身の手でどう対応するか決めさせるべきだったのではないか。ピンポイント攻撃といい、誤差の範囲は非常に少ないといって行った攻撃、しかしイラクの民間人の死傷者はやむをえない誤差などの範囲などではなく、数千人、いやもっと多くの数に上りそうだ。これをどのようなことが正当化できるのか?これまでのフセイン政権の下であったかもしれない犠牲者の命はもう戻ってこない。だが、経済制裁を続けていたときのイラク国民の犠牲者の数と、これによってフセイン政権を倒したあとの犠牲者の数を比べると、一体どちらの数が多いのだろうか?アメリカ兵ももう千人ほど死んでいる。両者を比較することがこの正当性の判断基準であろう。だが、仮にこの数字が侵略を正当化する数字であったとしても他国の主権に対する不干渉という考え方は守らなくてよいのか?これについては国境があるから、苦しんでいる人を助けない、いじめている人を止めないということはおかしい。内政不干渉の考えは誤っている。同じ人間を国境の内外で区別することはおかしい。私たちの感情はそう判断するだろう。

 

私たち日本人がイラク戦争の問題を考えねばならない理由は、まさに私たちがこの戦争の当事者だということである。私たちの国はこのアメリカの戦争を支持している。つまり私たち自身がイラク人を米軍と一緒に殺しているのだ。だからイラク人で誰か自分の家族を殺された人が日本に来て自衛隊員を殺し、首相を殺し、「誤差の範囲で」周りの日本人を殺したとしても私たちはそれに対してどれほどの説得力をもって抗議ができるだろうか。

すでにイラクでは日本人が5人殺されている。私たちは日本の国土がイラクから遠く離れているから安心している。遠い土地のことだと。だが、それでいいのか?政治は政治家に任せている、防衛は自衛隊に任せている、だからそれは私の考えることではない、これでよいのか?

主権者は国民一人一人だ。私たちはいつでも国政の最終責任者だ。政治家は私たちの代理人だ。代理人が間違ったことをしたときは、本人が責任を取らねばならない。この場合、その責任は私たちの命が脅かされることも含むところまで拡大しているのだ。イラクの人はかわいそう、ではない。イラクの人を殺している自分達をどう考えるかが問題となっているのだ。(同趣旨の内容:朝日新聞200518日、西部版「声」欄にも掲載)

 

2004・12・28

 

いつになったらイラク戦争は終わるのか。いつになったら。

 

ベトナム戦争のとき私は10代だった。戦争が終わった1973年、私は20歳になった。だが2003年3月20日にイラク戦争が始まったその翌日私は50歳になった。30年経って、また同じことが繰り返されている。ベトナム戦争でベトナム人の首を、髪の毛をつかんで両手にぶら下げて歩いている米兵の姿をニュースで見たことをまだ覚えている。日本の米軍基地で、肉のこびりついた戦車のキャタピラを日本人の軍属が洗ってまたベトナムに戻している話も当時聞いた。30年経って、イラク戦争が始まり、女性、子供達をはじめとする残酷な殺戮の繰り返し。何も変わっていない。確かにフセイン政権はクウェートも侵略した。だが、今バグダッドやイラク中の町を攻撃して数え切れないイラクの国民を殺す理由がどこにあるのか?「忍耐強い封じ込めで十分だ」、開戦前に三菱総合研究所の寺島実郎氏は述べていた。イラクの進路を決めるのはイラク国民であるべきだ。どれだけ圧制をしかれていても、外国が「解放してあげる」とその国に攻め込むのは、よほどの正当性が必要だ。そして今回はその正当性はなかった。

 

2005・1・22

 

昨日はアメリカではブッシュ大統領の二期目の就任演説、そして日本では小泉首相の施政方針演説があった。

ブッシュ大統領の演説は一言で言えば、自由のために、自由を脅かす敵は排除する、その一つとして、世界中の独裁者を排除する、というものだ。ではその独裁者は誰が決めるのか。それを彼は明言しない。だが、彼はおそらくこう考えているだろう。それはアメリカだ。その大統領である自分だ、と。彼はアメリカ合衆国と、自分の政権以外を信じない。他の国の人々が正しい場合もあるかもしれないことを信じない。これが危険なところだ。どのような主張を持つのも良い。だが、他人を殺そうとするときは、それが本当に正しいことなのか、他の人間達の意見を聞いてから行うべきだ。緊急で明白な危険があるときは別だが。

もう一つ、彼はどんな世界を作ろうとしているのか?それがわからない。一言、自由な世界を作るのだという。だが、自由にもいろいろあり、そのいろいろな異なった解釈をめぐって世界の人々は争ってきた。自分の言う自由が唯一の正しい自由だとは誰も言えない。そこで自分の考えを押し通そうとすると戦いになる。これは進歩した人間の、今、求めることではない。その点で、彼は人間の歴史から見て後退した人間だということになる。

私たちがすべきことの一つは、目指すべき世界、社会を、より明確に描き出すことだろう。そしてそれから照らして、現行の諸案を吟味することだ。吟味できるようになることだ。

 

2005・3・1

 

22327日インドネシア出張 帰国後休養

JICEからの依頼でインドネシアに出張。学生の面接。ずっと風邪、咳で苦しむ。帰ってからも、日本の寒い冬に攻撃され、風邪が悪化。追試の成績を出さねばならないので31日、今日は、出勤。(そういえば今日31日は韓国では独立記念日ではなかったか?以前、学生たちと卒業旅行に行ったときそのことも知らなかった。)

 

もう熱はないが手のひらからは汗。おとといは375分だった。舌は味覚が分からず。もう治ったと思ったがまだ完治していないようだ。23日に博多駅前のホテルで宿泊。すでに風邪気味だった。前日春めいた陽気に薄着で犬を長時間散歩させたのがいけなかったようだ。23日夜はずっと鼻が詰まってよく眠られず。24日は飛行機の中が少し寒い。2526日とジャカルタのホテルでもずっと咳が止まらず。表敬訪問時も抑えようとするが咳がコンコンと出てしまう。面接時は小さな部屋にクーラーが強力に効いていて困った。出張中、食欲はあったこともあり、何とか持った。だが福岡空港で朝8時着後、出迎えロビーで同行者を待っている間、30分ほど、入り口から時折冷たい風が入ってきてぞくぞくした。11時ごろ家に着くと、風邪は悪化していた。午後と翌日はダウン。前日の深夜出発の便で寝不足だったせいもあろう。ジャカルタの同僚の一人はインフルエンザB型にかかっていた。20分ほど話したが、私も感染したか?潜伏期間は1から3日という。28日の夜までに症状が出ていないのだから、多分大丈夫だろう。デング熱も心配でずっと虫除けスプレーを数時間おきにつけた。ウナコーワ。だがにおいがきつい。

以前面接に行ったバングラディッシュと比べ、受験者の英語力が低い。提出書類と会話の両方から感ずる。イギリス領だったところとオランダ領だったところの違いか。インドネシア大学で会った教授たちは流暢な英語を話す。英語圏の大学、イギリスやオーストラリア、米国に留学して帰った人が多いようだ。しかし普通の人たちは違うようだ。

 シンガポール空港とスカルのーハッタ空港の新しさ、にぎやかさの違いも歴然だ。こちらはマニラ空港とむしろ似ている。これは経済発展の違いから来ているのか。インドネシアは石油産出国ではあっても、シンガポールとは違っている。

 

 2005・3・5

 

 昨日は『失業と雇用をめぐる法と経済』の出版記念祝賀会を、湯田の山形屋で開催。有田、横田氏は残念ながら欠席。柳澤、石田、浜島、塚田で3時間あまり話を楽しんだ。20代、30代の若い人たちがたくさん来る店。ほかの皆さんは初めてだったが気に入ってくれた。

 私も、法科大学院のこれからの見通し、卒業旅行のことなどいろいろな話題を楽しんだ。ただ、この日のために頑張って風邪を治そうとしたのだが、少し無理をしたようだ。翌朝の今日、まだ鼻水や咳が完治していない。2月23日から数えて11日目。風邪が長引いてしまった。平田医師からもらった薬が切れたら今度は町の医者にかからねば。

 なんと静かな土曜日か。昨夜から1センチほど雪が積もっていた。今日も予報では終日雪模様らしい。北西の山、ほうべん山などはすでに灰白色に覆われて見えない。

静かな土曜日に周りに耳を澄ます。地球環境の変化、悪化も相変わらず進んでいるようだ。社会の内情もあまり安心できるものではない。小さなニュースだが、今朝は、せっかくイラクで開放されたイタリア人ジャーナリストが、多国籍軍に撃たれて怪我を負った、同乗の、解放の仲介役となったイタリア人は死亡したとのニュース。イラクの惨劇はまだまだ続いている。これを起こした一方の当事者、ブッシュ大統領、小泉首相に対して、私たちはどうしたらよいのだろう。私たちは主権者としての責任をどう果たすべきなのだろう。関係ない遠い国のできごととして物事が進んでゆくこの状態、日本の、アメリカの状態は異常ではないか?

 昨日の祝賀会でも、小さい頃、畑で取ったトマトなどを食べたときのおいしさは心に深く残っていると話した。が、苦しんでいる仲間たちを忘れてはいけない。昨夜の金八先生では、覚せい剤中毒になった「しゅう」を中心にドラマが進行した。覚せい剤の恐ろしさは見ていたティーンの人たちにも強く印象に残るものとなったろう。

イラク、しゅう・・・。人間は誰も他の人々と切り離された存在ではない、「誰がために鐘はなる、それは無関係の遠い人への弔鐘ではない、それはあなたのために鳴っているのだ」、の状態にある私たち。関係ない、と無視して生きつづけるとき、私たちは私たち自身の何かを削り取っていっているのだ。きっと。

 

 2005・3・17

 

 講義について・・・10日頃、生協で新入生用の下宿展示を見た。そのとき応対をしていた学生が経済政策総論を受講していたとのこと。講義を楽しんでくれたとのことでうれしい。ほかに講義はないのかと訊かれたが、現状では新しい開講は無理である。このような希望には応えたいが、今は雑用の過多のせいで無理。これも文科省・政府の過大な、不要な要求(評価活動など)のしわ寄せである。

 

 医療について・・・日下部羊著『破裂』を読む。現代版『白い巨塔』。感想:医者の仕事は重要だが、現状では医者、看護士が少なすぎる。だから、疲労からの医療ミスが起こる。日本社会として、資源をもっとここに振り向けることに、合意はできるのではないか。医者も人間であり、いくら扱う対象が人の命という重要なものだからといって、完璧を要求することはできない。彼らは人間である。患者も、医者にかかるのか、かからないのか、自分で決断する必要がある。かかったらあとは託すしかない。だが、疲労ゆえの医療ミスは資源配分によってかなり避けられる。

 

 共生の崩壊への恐れ・・・今の日本社会を覆うものの一つ(仮説)。世界社会にも同じ恐れがあるかもしれない。社会を成り立たせている重要な枠組みが崩壊しつつあるような恐怖。社会の個々の部分には「努力」が見られるといえるかもしれない。いわく、「プライマリーバランスを回復させるための政策はこれです」。だが、全体では社会が崩壊しつつあるような不安。これは、社会の基本である、「何のための社会か、社会で私たちは何を目指すのか」が、不明瞭になりつつあるということではないか。「うそをついてはいけない、人の命は大切にしなくてはいけない」、または「隣人を愛しなさい、そうすれば隣人もあなたを愛してくれる」など、これまで大切とされてきた人間関係のバックボーンが社会の中から消え去りつつある、そんなことを私たちは今感じているのではないか。(としたら、それはなぜか?)

 

 Kさん来訪・・・講義で貴重な体験談を話してくれたKさんが来室。歓談。フィリピン訪問の報告パンフを持参してくれた。ここでも、「今の日本社会で崩壊しつつあるもの」といったことについて意見を交わす。社会科学の重要性についても。社会科学は難しい、の話しあり。黒いベールに包まれているように見えた「社会」が、少しづつ透けて見える気になる。それがうれしい、と話す。『社会科学入門』を推薦する。よく考え、行動し、成長する人である。Dialogueを感じさせてくれる。重要なことをしっかりと身につけながら成長している。熊本が職場になりそうとのこと(アルプス技研)。学生時代の貴重なもの=自由時間。ここで学生らしく、考える、話す、研究する、に打ち込む。これができるのが学生時代。すべての学生にこれを保証することを目指すべし。学費が上がるたびに、学生のアルバイト時間は増える。現状は、学生から学生らしさ、学生の本文を奪い取っている。

 

2005・3・26

 

 四国、神戸を回った。高瀬町の「うどんの渡辺」。やはりあのうどんのこしはすばらしい。讃岐ならば他にも同水準の店が多くあるのかもしれないが。他県で食べるうどんとはやはり違う。高速で淡路から神戸へ抜ける途中、高松あたりからかなり長い距離の対面通行があった。特にトンネルは恐怖感を覚える。そもそも高速道路でこのような作り方は利用者の安全を考えていない。道路の作成者、国、件、道路公団といったところの責任だ。早急に改善すべきだ。

 

 こどもが大学生となって全員が家を出ると、親には一つの人生の区切りが訪れる。Empty nest syndromeも出るかもしれない。私の場合には、「人が争わずに、人が人に危害を加えずに、せめて戦争といった大量殺人を起こさずに、生きていける状態」が欲しい。そのような状態が実現したら、私はできれば転職をし、農業をしたい。または、いろいろな職業を少しずつ変わる状態もよいかもしれない。結局のところ、それが人間を最大限に発達させる道であるのならば。「会社にとらわれて」過労死する人がいる。私の場合は、そこまでいかずとも、仕事の喜びを感ずる程度が減ったこの数年、いや、十年である。なぜか。これはほぼ不況の長期化に一致している。また「大学の説明責任」の声が強くなった期間と一致している。不況の時代には、大学を見る国民の目が厳しくなるということか。食っていくことができて、その上での学問だ、食えないときは食える方法をまず教えよ、ということか?

だが、今、多くの大学教員は、給料が減っても、研究と教育に使うための時間が増えるのなら、そちらを選ぶ、という状況にあるのではないか。給与半減では無理だろうが、2割、いや、3割減ならば、生活を切り詰めても、本当はそちらを選びたい人が多いのではないか。生きがいはそちらの方が間違いなく大きくなるだろう。今、日本の大学制度は揺れている。そのようなもとで研究・教育をうけもつ教員は、その仕事に打ち込むことができない。これは社会にとって損失である。揺れを早く抑え、安定した大学制度を作ることが急がれる。

 

2005・4・16 「政治家の壁」を崩すときか?

 

新学期が始まった。今年は好天が続く。桜も長く楽しめた。

しかし、内閣府の世論調査では、日本で悪い方向に向かっているのは「治安」である、が増えて48%、「景気」である、が減って39(朝日、05410)。日本の社会は景気も人心も横ばい状態だ。

私の研究生活と結びつけて社会を考えてみる。希望に満ちていた期間が19歳から40歳ほどの10年間。社会をよくしようと研究者への道を歩み始め、研究する時間がうれしかった。社会と、そして自分の生活がこれでよいのかと自問することが増えたのがここ10年程だ。そしてそれは強まるばかりだ。まず社会については、1997年に景気悪化が顕著に表れた。山一證券の倒産の映像は私たちの記憶に強く焼きついた。この年は神戸の少年の事件もあった。それにきちんと対処できなかったせいなのか、2004年末には奈良で同種の事件が起きた、ただし少年ではないが。少年の凶悪事件、病理的ともいえそうな事件がここ10年ほど続いている。池田小の事件など、大人の凶悪事件も目立つようになった。景気も心も止んでいる、そう日本人は感じるようになった。

この10年。政治家も、国民もこの社会を何とかしたいと思いつつ、不況の中でその余裕がない、という悪循環が続いた。希望を託した小泉さんも、いまは郵政民営化を唱えるだけに見える。竹中さんについて小泉氏は不良債権処理を加速させたが、景気はいつまでたっても「踊り場」(竹中氏)。早く次の階段を上りたいが、竹中路線で本当に上れるのかの疑問が強まってきた。これをしっかりと日本の政治家、経済学者は考えて答えを出さねばいけない。それが今、彼らの(私も含めた経済学者たちよ!)最大の任務だ。

ところが私たち大学の(とくに国立大学の)研究者は、この間、景気をよくするために、競争力を強くするために、大学を改革せよ、との政治家の言葉を受けて、現場とは離れた不要の改革をすすめねばならなかった。いわゆるアリバイ作りだ。国公の大学人はこれが本当に大学の現場に役立つとは思っていない。しかし、彼らが満足する書類を作らねば予算が下りない。これは大変なことだ。私学はそれがない(補助は少しだけだ)ので、まだ教育研究の本分に打ち込める。大学の本分を実行する力という点で、国立が弱まり、私学が強まる。これからしばらくはその状態が生まれそうだ。

だがこれはばかげたことだ。日本社会から見たらバカなことだ。大学人は政治家達の「バカの壁」を崩さねばならない。現場を知らない、「思いつきでものを言う上司の壁」を崩さねばならない。(いま、小泉氏と自民党が郵政をめぐって対立を始めたが、これも何かの壁が崩れる予兆かもしれない。壁を崩そうといって登場した小泉氏が、どこかで今度は自分が壁になっていたのかもしれないのだ。)

 

2005・5・16 恩師傘寿の祝い

 

1415日と佐藤先生の傘寿の祝いが松田屋であった。今回は河野さんと私が世話係。東京から、京都、大坂、奈良から12人が集まった。以前の60の還暦は如水会館で、77の喜寿は京都だった。今回は藤原先生、曳野さん、星野さんもご参加。曳野さんは20年ぶりぐらい。表情がとてもお若い。おいしい懐石料理と地酒を楽しみ次に近況報告。私「佐藤先生が以前ワインで真っ赤になられたのを覚えている。曳野さんには図書館の開架室を案内してもらったのを覚えている。他の方たちも、それぞれ思い出がたくさん浮かんでくる。皆さんを見ていると、ああ、私の歩みは確かにあったのだなあと感じる。」という趣旨のことを述べた。皆さんの体験、思い出話を聞くと、まるでそれらを自分が体験してきたことのように、自分の感情の経験を増やしてくれるような気がする。なお、松田屋の懐石料理の途中、日本酒と料理の味が反発するものがあった。刺身類との相性か?鮮魚、貝などを食べた後、酒を飲むと、何か生臭さが強調されてしまうようだ。山形屋の二次会も楽しいものだった。平井夫人も加わって9名。夏みかん酒、カボス酒、ビールなど。カボスはすぐ品切れになり、曳野さんは残念ながら飲めず。

翌日は山口コース(河野さん、平井夫人、ご親戚二人)、萩コース(佐藤先生ご夫妻、菅井、桜井、星野、塚田)で観光。曳野、中本両氏は先に帰る。萩への旭村を通っていく道も緑がきれいだった。皆さんも感嘆。松陰神社、東光寺、古い町並みの一角、そして昼食予定のあじろへ。すぐそばとの情報だけを頼りに探したが、30分経ってもまだ見つからず。25度以上の昼日中、先生たちを引っ張りまわしてしまった。最後は車で探し、見つけたが満員。第二候補のがんがんへ。少し待ったが、外のテラスで食事。非常に気持ちのよい、海の見える席。皆さんもとてもよい気分。ただ、てんぷらは、すでに揚げたものをレンジで暖めたのか、あまりよくなかった。これは直すべし。帰りは途中から秋芳町を通って帰るルート。ここでも緑を楽しんだ。小倉さん、桜井さん、星野さんと、道中いろいろ話を聞けた。サビエルでは掃除をしていたご夫人からサビエルに似た方が平和の鐘をついた話を聞いた。私と小倉さんもつかせてもらった。とても大きな音。世界に五つしかない鐘とのこと。

先生ご夫妻のお子様家族で金婚式をしてくれたとのこと。「皆がこんなにやってくれるので、『僕たちも何かしなくちゃ』」ということになったらしい。先生はいろいろな知識をしっかりとお話される。親戚は長生きだが85ぐらいでボケるんだよ、とおっしゃるが、先生はきっとそんなことはないのではないか。皆さん、とても楽しそうだった。そして口々に、「次は東京・千葉で」。

 

2005・5・31 東京出張

 

から帰る。ここしばらく、国内外を問わず出張すると時折体調が崩れる。そうならないよう自分で今できることは・・・体重を減らすこと?

経済政策学会、会員1300名弱。今回は構造改革が共通論題。民、官、学から一人づつ報告。だが、日本社会全体という視点がもっと欲しい。経済と社会の総体、複眼的理解が。今、社会の一部が壊れつつある。29日の大阪府豊中市の通り魔事件もその一つだろう。尼崎鉄道事故も、また民営構えの郵政公社、過労死30数名(週刊文春、20054281489ページ)の事態も、ここ10年、いやもっと続いている崩壊現象の一部だろう。人間が作ったこの社会が逆に人間の主人となっている。人間を従えている。

豊中の犯人は中年男性らしい。その動機を創造してみる。社会が彼を受け入れない。すると彼は社会を受け入れない。精神を病む。人を憎む、人一般を憎む。このようなメカニズムが日本の社会にある。だからこそ私たちは、今犯罪の増加に怯えている。そして貧富の差の拡大はそれを生む、少なくともその一因となる。しかし、どのような経済現象も人間が幸せになるためのものだ。そしてどの一人の人間も誰も孤立した存在ではないので、他の人の苦しみが自分をも苦しめる。For whom the bell tolls? 人は大きな大陸の小さな島嶼部分だ。一人一人は人類の一部だ。このことをわかりながら、日本の、他国の指導者は行動しているのか?小泉氏は、竹中氏は?ブッシュ氏は?水戸黄門が、ごくせんがヒットする時代は、冷たい時代である。今ここにない幸せを人はテレビに求める。本当に失望すると、自暴自棄になる、人を傷つけ、殺す、自分も殺す。人が一番悲しいのは人から冷たくされたときだ。経済学の祖、アダム・スミスはこの理解に立っていた。経済学徒はそれをよく胸に刻むべきだ。

 

2005・6・11 ある事件について

 

私の友人の妹さんのご主人Aさんが殺されるという事件があった。2004年の11月に失踪し、1224日に死体で発見された。犯人は会社の元上司で、彼が会社を辞める際,会社の特許を不正に取得し、会社に損害を与えたので、その賠償の裁判を会社が起こした、その会社側の担当者が殺されたこのAさんだった。個人的に恨まれる筋合いは何もない。しかしこの元上司は自分の親戚に頼み、その親戚は友人数名に頼み、彼らは少ない人では一人10万円ほどの謝礼で、Aさんを拉致し、暴行を加えて殺し、山中に埋めた。

テレビの報道で、鳥越氏が「命の軽いイラクから日本に帰ってきて、このような人命軽視の殺人事件がたくさん起こっている日本の社会を見て、日本もイラクと同じと感じた」とコメントした。共感した。主犯の元上司も、その親戚も、その友人達も、人の命をなんと思っているのだろう。思う力がないのだろうか。私たちの社会の中に人間の心を欠いた、またはたやすく人間の心を失ってしまうモンスター、エイリャンが育っているのだろうか?2年前だったか、あの池田小事件を起こした犯人の宅間守。彼はしばらく前、23ヶ月前だったか、死刑になった。1年前は長崎の小学生の殺人事件。今回のAさんの事件では親達が謝りに来たのだが、来たのは裁判が始まる直前だったという。もっと早く来なかったことを考えると、刑を軽減してもらうよう、少しでも心証をよくするために来たと疑われてもおかしくないかもしれない。

やむをえない事故ならまだ諦めがつくが、何でこんな軽い理由で人を殺すのか、傷つけるのか。そういうできごとがここ20年程か、増えすぎている。怒りとともに、この社会の中で人間がモンスターに変わっていっているような恐怖を感ずる。今、日本人は、命の大切さを感じなくなっていっているのだろうか?60年以上前の太平洋戦争で日本人が300万人死んだことと比べると、数では比較にはならないかもしれないが、このような事件の、その起こり方が恐い。

昨日、山口県の光市の高校で3年の生徒が爆発物で58人を傷つけるという事件があった。いじめがあったらしいとも言われている。今の私たちの社会は、隣で泳いでいた人が急に人食いざめに変身し、襲い掛かってくるかもしれないという社会、そのような人間を生み出しやすい社会なのだろうか。

高級車など要らない。別荘など要らない。豪華な食事などいらない。でも、私たちは、何よりもまず、人間を恐がらなくてすむ社会が欲しい。

 

2005・6・17 「老化」を感じさせるできごと。

 

外・・・1)研究室の窓のブラインドがうまく閉まらなくなった。これを直すのは業者に頼めば簡単だろう。ただ、そのためには窓のそばにいろいろ置いたものを片付けねばならない。それがめんどう。この気持ちも老化の一つか。2)自家用車のワゴン。17年目。窓枠のゴムが硬くなり、窓がうまく開け閉めできない。車体の下部がさびてきた。だが駆動関係は部品交換をしており、元気。3)家。築20年余り。屋根は一度塗り替えたが、今ひどい状況。外壁はチョーキングという状態、指でこすると白い粉がかなりつく。すべて、私がここで働き始めてから20年前後経った耐久財の状態である。そして内・・・それは自分自身の心身。若い頃に比べると、筋肉は減り、脂肪が増え、皮膚には若干のしわが生まれ、人の名前が出てこなかったり。ただ、記憶は、他にもいろいろな知識、情報に触れつづけて何十年なので、少々の記憶が不足しても驚くことではないだろう。いつも触れている研究テーマなどについてはほとんど忘れることはないのだから。

老化について恐い話があった。吉田秋生という人の漫画で『YASHA』というのだが、日本政府が高齢化社会に対する対策として、ひそかに老人にダメージを与える(致死率の高い)ビールスをふりまくというものだ。ただ、指導者である高齢者達は、自分達へのワクチンを用意して生き延びるというもの。ブッシュ大統領のイラク攻撃などを見ているとこうした発想にあまり驚かなくなってしまう、そのような現実が恐い。

 

2005・6・18 二人の山口県民

 

今日は経済学部創立100周年記念の日である。同窓会の鳳陽会の総会が昼にあり、その後記念式典、夕方から祝賀会と続く。ところで、学び舎とは何であろうか?小学校、中学、高校と、これまで同窓会は2回だけ出席した。信州で開かれるのだが山口からはなかなか遠い。とはいえ、大学の同窓会の集まりは山口県で山口支部の主催であるのだが、これも一度だけでその後ご無沙汰している。近いのに出ないのだから、そもそも出席したい気持ちが弱いのだろうか。自分では、時間がないからと思っている。忙中閑あり、の言葉がある。忙しいなかにも閑があるはずだ、または、作るべきだ、作らねばいけない、作れるぞ、という意味か。だが、その前に自分の仕事ができていない、する時間があまりない、よって欲求不満となり、時間があれば少しでも仕事をしたい、同窓会で時間を使うのはちょっと困る、という状態にある。同窓生と親交を深める、話し、ゴルフをする。それもよいが、優先順位は仕事にある、という状況である。それで言うと、今日の祝賀会などもあまり気が進まない。70名余の教員のほとんどはそうだろう。だが私は職責上やむをえないようだ。個人としてはつらいが、所属集団のためには必要なので出席する。

出席者に二井知事がいる。以前一度お会いしたので、復習のため、田村幸四郎氏の本をもう一度読んだ。田村氏が二井氏の後援会長となって10年程前に初めて二井氏が当選したときの話がある。当時、6選もありうるかもしれない現職知事に対して、出納長の二井氏が立った。職を辞任したときは、通常と違い、見送りもない寂しい退職だったそうだ。当時の知事の気持ちが表れたものだったのか。県政自体は、基本路線は引き継ぐが、県民の声をよく聞くこと、「しっかり聞いて、しっかり実行」を新しい県政の方針としたそうだ。そこで今日の見出しは「二人の山口県民」となった。  

ところで県政は6000人の県職員と8000億円の予算がかかわる。対象県民は150万余である。その最終責任者、知事となるのは大変な仕事だろう。ちなみに、山口大学は1500人ぐらいの職員と350億円ほどの予算である。対象学生は1万人弱である。いずれにしても人間というものは大きな組織社会を作っているものだ。大学行政は少しは実感ができるが、県政については、よくこれだけのものが毎年動いていけると感嘆する。それを言えば、では国はどうか、80兆円の予算であり、比べ物にならないほど大きい。いやこれもたしかに想像できないほどの大組織社会である。そして、私たちはこうした組織社会をよく理解し、使いこなさねばならない。それは私たちの生活を便利にするためのものであるが、使い方を間違えばそれは瞬時に何万、何百万の命も奪う凶器となる。太平洋戦争、イラク戦争、アフガン戦争、ベトナム戦争。武器でなくとも、社会保障制度も静かな殺人兵器となりうる。患者負担率が上がって病院に行くのをためらえば、病気は悪化する。金融政策も殺人兵器となりうる。不良債権処理政策が企業への貸付を減らし、倒産した社長が自殺することもある。組織社会が大きくなっても、人間のどんな行動も、結局は、人間のためのものであり「組織」のためのものではない事を忘れてはならない。いつも相手となる人間の顔を見ながら私たちは行動せねばならない。

日本社会の政治面での最終責任者は小泉総理である。だが、このごろ小泉氏自身が国民に対して武器を向けている人であるかのような錯覚を覚えるときがある。信頼できる人かどうか。あの人は、当選時、現状に不満を持った当時の日本国民に対し、前任者の森総理は恐ろしいほど低い支持率になっていたとき、その派閥にいながら、それまでの失政の過ちをすべて「自民党」にかぶせ、それををぶっつぶす、と言ったので、国民がこぞって彼を支持した、というのが当時の状況ではないか。そして、彼はこうした不満を体現したひとであり、実はただそれだけの人だったのだろうか。彼についてはしばしば丸投げと言う言葉が聞こえるが、彼自身に、日本社会全体について、国民の気持ちに依拠した大きな認識が、総体的な日本社会像があったのだろうか?彼は私たちの生産物の一部を使って、私たちが一国として平和に、豊かに生きていくための土台の条件、環境を作る仕事を請け負っているはずだ。だが、どうもこの請負人はちゃんと仕事をしていないのではないか。総理大臣という仕事をうまくやっていないのではないか。そんな疑念が生まれてしまう。

誰のために、そして、誰のどのような状態を目指して、そして、そのためにどう行動するのか、しているのか。これをはっきりとさせて生きねばならない。私たちはそれを理解せねばならない。総理大臣も、私たち一人一人も。

 

2005・6・20 

 

一昨日の18日は学部創立百周年記念式典と祝賀会があった。県知事、市長ともに観光政策学科を初め、地域に貢献すること、また貢献する卒業生を送り出すことへの期待を述べた。そのとおりだ。大学の社会への貢献とは教育である。研究し、その成果を教えること。

教育と言えば、祝賀会で51期卒の岩田君と47期卒の小林さんと話した。私の行くべきテーブルはすでに満席だったのでその後ろのゼミ連の学生たちなどと一緒の席で歓談した。小林さん、「ロールズ、正義論、無知のヴェールが印象に残ってます、すっきりわかっているわけではないのだけれど」。これらが卒業後5年経っても言葉に出てきたことがうれしかった。あとで、祝賀会に集まった人たちを社会形成のために集まったとなぞらえて無知のヴェールを簡単に説明した。修士で教えた村田さんとも会えた。やはりロールズ、正義論のことを口にしてくれた。教えたことが教え子の頭に残っていることはうれしい。40期卒の熊川君とも再会。市政について話した。下から積み上げる市職員、市民の意見を重視する市長、そこで衝突したときは市議会が決める。そういうバランスだったのだ。45期の伊藤君も出席していた。わざわざ名古屋からきてくれたのだ。自治労のことが話題になった。松井先生と一緒に、下関市大の堀内隆治先生とお会いできた。これまではメールと手紙を通じての交流だったが、とうとう本人と会えた。お会いして、これまでのやり取りを通じた感じがそのまま出ている方、これまでの印象と違和感のない方だった。人が大勢いるところは結構疲れるのだが、このような出会いがあるとうれしい。

 

2005・6・24 松元ヒロ

 

彼の舞台を見た。もう何回目か。かつて「ザ・ニュースペーパー」で見てから、10年も続いているか?社会の理解、風刺、すばらしい。イギリスのミスター・ビーンにも匹敵するか?彼は中心は庶民の生活の模写だろう。松元ヒロは社会風刺が主眼だ。内閣、皇室、その他の世相を風刺する。冬のソナタのリメイク版、コ・イズミとコ・クミンのすれ違いの物語。お堀に住んでいる人々。右翼の人々。合併で強くなることを目指す社会、小泉首相の下なら日本は当然アメリカと合併、吸収合併。暮らしの変化。鹿児島の子供時代。学校と協会とお寺の門は閉じてはいけない。宿直の先生が子どもを世話する話。聞いて思う。今の社会は、人間が人間に合わせられず、外に作った機械的な枠組みに合わせて生きている社会。いやだと思いつつ、それしかないのかと半分あきらめている社会。マルクスが、ヴェーバーが懸念した社会。チャップリンが風刺した社会。簡単には帰られない。だが、変えたい社会。

 

 2005・8・19 自動車販売について  −身近な自動車購入の経験から−                                     

 

 小嶋 「いまの消費動向は極端に二極化している。車の場合、トヨタ自動車の「ヴィッツ」が5月は1万1500台でトップ。姉妹車の「bB」も9000台売れている。一方で1台300万円以上の「オデッセイ」も1万台以上売れていて、その間のクラスのカローラ、サニーといった、かつては月間四万台も売れた車はなかなか伸びない。

 軽自動車は感覚的には草履やサンダルのようなもので、走ればいい。これはネットに乗るのではないか。ただし、300万円以上もする車になると、自分のフィーリング、感性に合ったものが欲しいということで、アナログの売り方が残るのではないか。こうした二極化が日本では進むように思う。」

日経産業新聞 http://ss.nikkei.co.jp/ss/sangyo/seminar2.html (200?年 622)

(小嶋健史:日本経済新聞社編集局産業部長)

 

 彼の話を、最近の私の経験と照らし合わせて考えてみる。

 

 私は、たとえ軽でも、ネットから直接自動車を買おうとは思わない種類の人間である。たぶん、その種類の人間の方が多いだろう。それは、自動車は乗ってみなければわからないことが多すぎる商品だからである。外観の色、運転席のシートの乗り心地、運転席からの視界、助手席、後部座席の乗り心地、視界。荷物の出し入れの難易度。駐車のしやすさ。そして、エンジンの具合、運転時の音、ハンドルの切れなど。こうしたことは実際に試乗してみないとわからない。

 私の場合、運転席に乗ってみたのは、軽のタント、エヴリ、ヴィッツ。運転してみたのは、軽ではジーノ、A-Zワゴン、コンパクトカーでは、フィット、デミオ。私の選択上の優先度は、内部の広さ、運転席の視界、燃費、その次が外装、内装の色だった。もちろん価格はある範囲と決めていた。運転してわかるのは運転のしやすさと視界ぐらいだが、それでも車との総合的な相性がわかってくる。

 店は5店訪れた。どこも応対がしっかりしていた。やはり売るものに対する愛着があり、商品のことを詳しく知っていること、そして消費者の要望にできるだけ応えようとすること、この姿勢があることがまず重要だ。どの店もこの点は十分だった。対象車が絞り込まれると、後は値段の勝負となる。これは数字ではっきり出るので判断はしやすい。ここで気がついたのは、お客は、やはり、長い間の付き合いがある店をどこか大事にしたいと思うものだと言うことである。仮に同じ値段がついたら付き合いの長いところから買うだろう。120万円の車で、1万円しか違っていなかったら、やはりそうする可能性が大きいのではないか。付き合いの長さはなぜか大きな要素となる。

 一つ、車の特殊性かもしれないが、新車の場合、ほぼ十数万から20万円といった幅の値引きがある。これに注意することを実感した。また、新古車という種類の販売車があることにも注意すべきである。販売店が直接メーカーから購入し、登録するが、そのまま誰も買っていない車である。たとえば120万円の新車が、新古車だと103万円、といった値段になる。ただし、色は限られ、メーカーオプションもすでにその車についているものに限られる。これを気にしなければ、スタートラインでかなりの節約ができる。車購入の場合は、本体以外の自動車取得税などの諸費用もかなりになる。仮に新車で30万円かかるとすると、新古車では20万円ほどである。こうして、結果として大きな値段の違いとなる。新車が、車体が120万円で、諸費用が30万円、値引きが20万円とすると、130万円の支払いとなる。新古車が、車体103万円、諸費用が20万円、値引きは、上の場合すでに新車価格から17万円引いてある分を値引き分と考えると、123万円の支払いとなる。さらにこれが中間決算などのセールス期だと、103万円が97万円などとなるので、値引き幅は実質23万円、支払額は117万円となる。新車と比べたとき、130−117で13万円の違いとなる。好みの外装、内装の車ならば、車検期間も2ヶ月ほど違うだけである。13万円はほぼ全額、実質の節約分となる。つまり、この場合、同じ新車を20万円の値引きでなく、33万円の値引きで買ったことになる。だが、これをするには、消費者側も、いろいろ情報を集めねばならない。また、ちょうどセールス期に購入希望期が重ならない場合は、その分の値引きは期待できない。実際に店を回ることなど、労力もかかる。私の場合、一日に2、3時間づつ、三日間これに使った。ちょうどお盆休みを宛てることができたが、この程度ならば通常の消費者も問題なく使える時間であろう。

 ところで、自動車メーカー、ディーラーの利益はこれでどれだけ出るのだろうか。インターネットで値引き幅の情報を調べると、上のように十数万から20万が通常らしい。そうだとすると、そもそも自動車とは値引きを1割ほど想定して値をつけているものということになる。

 

 2005・9・5 (1) 衆議院総選挙について:選挙の争点について

 

 小泉首相は、郵政民営化が選挙の争点だという。首相の考えは次のようにまとめられよう。構造改革が、景気回復と日本経済の安定のために必要である。構造改革の中心は小さな政府である。小さな政府とは、民間でもできる政府の仕事を減らし、民間企業に移すことと、政府の規制を減らし、民間企業の活動分野を広げることである。郵便も、簡易保険も、郵便貯金も、民間企業ができることなので、郵政は民営化すべきである。よって、郵政民営化を実行したい。だが、参議院はこれを否決した。だから、民意を問いたい。もし今回の民営化法案賛成議員が過半数を占めれば、民意は賛成ということになり、参議院議員もこれを無視できず、考えを変えるだろう。

 〈郵政問題は理解されているか〉

しかし、この間の国会の議論を聞いていても、基本的なところで腑におちないことがある。そもそも、郵便、簡保、郵貯は、すべての人が利用できることが必要な通信、保険、貯金に対するいわば国民の最低限の権利保障を実体化したものであるがゆえにこそ、政府の仕事となってきたはずである。ならば、この部分は時代がどう変わろうが保障されねばならないものであり、もしも、民間企業が行うにしても、かりに民間企業が採算が採れなくなったときも、政府が赤字分を補填するなどして、この最低保障は守られねばならないものであろう。問題はこのように、国民の権利対運営の効率性という異なった次元の問題の対立にあり、それゆえの複雑性をもっている。そもそもこれらの権利の保障は時代とともにどう変わってゆくべきものなのか。また、今回の法案でこうした権利はどのように保障できているのか。この基本的論点がまだ国民に十分説明できていないように思う。

〈民意を何で測るか〉

とはいえ、首相は、同法案の必要性を信じ、その是非を問うために選挙をするという。衆議院では法案は通った。参議院では否決された。規則上はもう一度衆議院で3分の2で可決すれば通るがそれは不可能だ。だが、ここから後が理解できない。そこで首相は、目標は自公で過半数だという。過半数の賛成派衆議院議員が当選すれば、参議院議員も考えを変えるだろうというが、彼らが考えを変えるとは限らないし、そのような強制力もない。そもそも、国会議員は、自分の公約を守ることは求められるが、他人のそれを守ることまで求められはしない。

すると、この法案を通すために必要な議席は、衆議院の3分の2の議席ということになる。しかし、これにも疑問がある。首相の論法では、民意の過半数が郵政法案を支持しないといけない。この場合、民意を測るのは当然、議席数であると首相は考えているようだが、過半数の賛成票の方がより正確に民意を表していよう。国民の意見を聞きたいという首相の意図からすれば、そのほうがむしろふさわしい指標となろう。ならば、首相は3分の2の賛成派議員の当選と、彼らが得た得票数が投票総数の過半数であることを目指すべきであろう。

 〈他の問題はどうなるのか〉

 今回は、与党は他の政策についてはほとんど言わないが、これこそが最大の問題であろう。国会は国の最高意思決定機関であり、衆議院は参議院より強力な機関だ。それなのに、一つの政策をめぐって投票してくれという首相の主張は、これから4年間、他の政策については白紙委任のめくら判を捺せと言っていることになる。これは責任ある政治運営とはとても言えないのではないか。なかでも、一つ挙げれば、イラクと自衛隊について、首相は選挙の後考えると言っている。自衛隊は12月中旬に派遣の期限が来る。しかし、イラクの問題は、日本がかかわりながら現に今、多くのイラク人の血が、そしてすでに何人かの日本人の血が流されている問題である。このような重大問題について選挙で民意を問わない首相は自国民の命も他国民の命も軽視していると見られても仕方がない。

 本来、重要政策のそれぞれに関して争点がはっきりしてこそ選挙民は責任を持った投票行動、厳正な信託をすることができる。しかし、序盤だけを見ても首相の選挙戦術と発言にはあいまいな点が多い。選挙民は首相初め候補者の発言を冷静に吟味し、言葉の勢いに流されることなく4年間を託す議員を慎重に選ぶべき時と思う。

 

 2005・9・5 政治家の軽さの問題 

 

 昨日の日曜日は衆院総選挙関連の番組を見た。

 

 小泉氏の発言は軽い。一つはイラク。フセインは査察拒否をしたのだから、攻撃されて当然だとの趣旨の発言。(NHK9時の政党討論会。)しかし当時、査察は受け入れられ、査察団は現に査察の途中だった。それを無視して攻撃を開始したのがブッシュらの侵略連合だった。この因果関係、歴史事実、「開戦の理由」を小泉氏は忘れていたようだ。これを忘れて、あるいは思い違えて指導者の務めを果たせるのか?!

 他党の代表の発言によれば、郵政について、小泉氏は、民営化されれば税収が増えると述べたという。あるいは同党の宣伝にそう書いてあるという。番組中の議論によれば国会での議論では、必ず増えるとの答弁はなかったという。(竹中大臣答弁。)いろいろな事業拡大によってそれが可能かもしれないとの期待は持てても、それは保障されていない。このような不明な点を確言することはうそをつくことと同じだ。これもおそるべきことだ。

 

 だが小泉氏は人気がある。わかりやすさだろう。難しいことを無理にわかりやすくしているのが小泉氏だ。それは国民の人気を高めるだろう。だが、無理をしている。本当は込み入ったことを一面化することで、聞く方はわかった気になる。これは政治家の背信行為だ。国民への不誠実だ。他の政治家がそれを正さねばならない。今、不況を逆手にとって、小泉氏は公務員の安定性への妬みをあおっている。討論会での他党代表の発言だったかもしれないが、官と民は、何が官で何が民でなすべきなのか、その説明がない。それはつまり政治の大局的理解がないということだ。「民間にできることは民間に」は、この点のつめがない発送だ。民間にできても官が責任を持たねばならないこともありうる。自衛隊はどうか?小泉氏流の基準ならば、これも民間にできるといってもおかしくない。

氏は、郵政を使ってスケープゴートを作っている。まるで子供たちのいじめと同じだ。夜9時の討論会の冬柴氏も同様の言動だった。本人達もその「考え」の正しさを信じているのかもしれない。人間には自分を正当化しようとする無意識の防衛行動があるのだろう。こういう選挙のときにはそれこそ自分の将来も含めた大きな分かれ目のときは、この行動は出てしまいやすい。しかし、公の仕事という、まさに利害の調節をすべき大事な仕事につく人たちは、このような利己的行動を避けるべく、nobilityを持たねばならない。

だが、そもそもそのnobilityを導く理念は「最大多数の最大幸福」であるのか?民主主義ではそうならざるを得ない。だが、それと反対のエリート主義の考えも現実にはある(例:ナチスのユダヤ人種抹殺政策、自民族内の障害者抹殺政策、1970年代のアメリカの精子バンク)。ダーウィニズム、弱肉強食の考えだ。だが他の動物達との間ではそれをすべての人間が認めている。人間は他の動物を食べることを正しいと思う。だがそれを人間間にも認めるべきなのか?強い人間が弱い人間を「食う」ことを認めるべきなのか?

 同日の敗戦直前を扱った番組と、アメリカの今を扱った番組でも同じ問題があった。敗戦直前、陸軍はあくまで徹底抗戦を主張したという。鈴木首相はすでに4月時点で幕引きのタイミングを狙っていたという。広島、そして長崎。それでもまだ決定されず、五日間でさらに何千人の人が米軍の爆撃でなくなったようだ。天皇は天皇家の存続を条件とすることにこだわったという。指導者達と前線、市井で殺されていく人たちとの間に命の軽重がある。明らかに、女王蜂と働き蜂、兵隊蟻の違いだ。これが当時、人間世界にもあった。今もあるのか?上が利己的に行動することは分かる。だが、下はそれを受け入れる心を持っているようにも見える。もし人が自分の生きる意味を、人類の生存とするならば、より劣った個体はより優れた個体たちの生存のために犠牲になることを喜んで受け入れるはずだ。このような気持ちはあるのか?あったのか?だが、あったとしても、さらに問題は、実際は死ななくてもよかった、戦争はしなくてよかった、他の方法があった、という場合だ。もしそうなら、その場合は、いくら犠牲になる個体が喜んでそうなったとしてもその犠牲は無駄であったことになる。また、そもそも優秀な個体とはどのように判断できるのか?(私見では、その判断はできないと考える。拙著『社会システムとしての市場経済』成文堂1998年、219ページ。)

 

 ところで、敗戦後、インドネシア、ベトナムで、スカルノ、ホー・チ・ミンらが独立を宣言した。その後、インドネシアでは4年間の、ベトナムでは30年余りの独立戦争のあと、独立、統一が達成された。中国では共産党と国民党の戦いの末、共産党が勝利した。蒋介石は台湾に移った。朝鮮では分断が生じ、今も続いている。

 大きく見れば、この過程で、他者=他国=他民族の支配でなく、自民族の自治によって生きる、もう植民地として支配される民族でありたくない、この動きが進んだ。こうした国々の中の変化がもっと進めば、さらに一人一人の、「個人としての存在」、性別、年齢にかかわらない一人一人の生存、発達を第一とする方向に変わっていくのか?

 

 今も続く戦争・軍事行動…

 アメリカでは今、イラクで死んだ兵士の母(シーハンさん)の抗議行動が続いている。大統領は生き残り、兵隊は死ぬ。すでに2千人近くの米兵がなくなったという。それだけの、こうした人たちの命を消して余りあるほどの価値のあることを、今アメリカはイラクで本当にしているのか?他には方法がなかったのか?

 

 今回の衆院選挙といった選挙の時期は、まとめていろいろな理解が進む。各党代表は国民の理解を得ようとして力を一番発揮しようとするからだ。アフガンと自衛隊の問題も改めて思い出した。ようやく選挙が(923日ごろか?)行われたが、アフガンではまだ戦闘が続いている。日本の自衛隊はまだ米艦船に給油を続けているようだ。もうその量も減っているのだが、それを続けるのは「アメリカに軍事協力をしている日本」という姿勢を見せつづけねばならないせいなのか?

 

 社民党応援の佐高信氏が言った。小泉氏は一次方程式しか解けない。たとえばアメリカしか見えない。わかりやすい表現だ。

 前の国防省顧問のパール氏。彼らも視野が狭いのではないか?つまり、自分の生き残りだけしか見えなくなる人たち。自分達、アメリカという国の、また、イスラエルという国の。これは宗教的信念がある場合特に強くなるだろう。選民思想のせいで。彼らのイラク攻撃を見ていても、本当に正確に戦争の結果を予測して動いたとは思えない。とにかくやってしまえ、とにかく力はこっちが強いのだから、勝ってしまえば国民の支持はついてくる、といった感覚だ。つまり、相手側の命、そこにかかわる相手側の人たちの命、また自分たちの側でも自分達から遠いところにいる人たちの命、兵隊達の命は無意識に軽く見ているのではないか。ブッシュ大統領がベトナム行きを免れて州兵にとどまったとか、それもさぼったとかの報道が以前あったが、自分の命だけは大切にするという行動があったとしたらこれも、恐ろしいことだ。

アイゼンハワー元大統領の離任演説の軍産複合体への警告は、もはや現実の恐怖となっているようだ。「少しでも性能が優れた兵器が出れば魅力的だ」と国防省の調達係のような人は述べていた。車と同じだ。そして8月末の南部諸州を襲ったハリケーン・カトリーヌ。多くの犠牲者となったのは黒人達がほとんどらしい。堤防を直す予算さえなかったのか、イラク戦争のせいで?一機、一台が天文学的数字の兵器購入の裏側で。援助に行くべき州兵もかなりがイラクに回されていたらしい。世界に警察は必要だ。世界に軍隊は必要だ。狂気の経験が、紛争が、戦争が人間の歴史にはあったのだから。これからも、危険性はいつもある。だがそれを抑えるのは正義の力でないといけない。それは特定の人が自分達だけが認める正義であってはいけない。とはいえ、まだWWIIが終わってから60年しか経っていない。人間がもう戦争の時代は終わったと自信を持って言えるのはいつだろう?あと100年後?1000年後?

 

2005・9・24 ドラマの力

 

1、2ヶ月前にとっておいたドラマを見た。広島・原爆のドラマだ。見終えて、これまで見たことがない種類のドラマと思った。2時間あまりのうち、ほとんどは広島のある家族の2ヶ月ほどの生活を描いている。(矢島旅館を経営する長女、中学校教師の次女、国民学校生徒の三女、そして長男。)淡々と、三人姉妹と弟一人の家族の日常生活を描く。そして最後に少しだけ原爆が投下されるシーン。

原爆投下とその悲惨な被害状況を2時間描いたドラマと同じぐらい、原爆の、戦争の恐ろしさを訴える力があった。つまり、死んでいった10万人ほどの人たちが、それぞれ私たちと同じ生活をしていた人間だったのだ、そのことをしっかりとていねいに感じさせてくれるのだ。彼らの生活を見ているうちに、私たちは彼らに感情移入する。彼らとともに喜び、悲しみ、怒り、日々を送る。その彼ら=私たちが、赤ん坊を身ごもった日(次女)、戦地から休暇で帰ってくる恋人にやっと会える日(長女)、姉からもらったバレーシューズを履いて、朝鮮人の友達とジャンプした日、頭上で原爆が炸裂する。恋人が黒い雨の振る中、やっとたどり着いた広島に残っていたのは、恋人に渡した懐中時計と、そばの岩に焼き付けられた彼女の影だけだった。「絶対戦争をしてはいけない。」生き残った弟は平和公園で現代の子供たちに話す。

家族一人が死んでも私たちは悲しい。イラクでも今、パレスチナでも、アフガンでも、家族が殺され、嘆き悲しむ残された家族は、イラク人、米兵を問わず続々生まれている。戦争で死ぬとは、傷つくとは、人を殺すとは、傷つけるとはどういうことか。私たちは、そもそもあまり想像力が豊かではない。とくに戦場という極限状態を想像することは難しい。だからこそ、それを教えてくれるこのようなドラマは大切である。それを作ることは大切であり、それを見ることは大切である。(Little Birdsの綿井監督のような人も貴重である。)

小倉、長崎、新潟、広島のうち、たまたま当日は広島が選ばれた。同様に三日後には長崎が。7月26日にポツダム宣言を受諾していればこの二つの町は消滅せずに済んだ。広島市民は、投下に至る何ヶ月か、近隣の町が爆撃されても広島は爆撃されなかったことを、逆に不安に思うこともあったという。当時の米国の科学的な冷たい目、実験者の目もそこには感じられる。

 

2005・10・22 靖国参拝事件

 

小泉首相が先日靖国を参拝した。これで五回目だろう。今回は初めて、袴でなくスーツで、玉串料でなくお賽銭で、と、一般参拝者と同様の形式だった。公用車は使っているし、日中なので勤務時間内でもあろう。一国民として参拝したといったが、公務中ならそうではなくなる。これまで数件の靖国に関する裁判が行われており、小泉氏の過去のそれも最近、違憲とされた。「わかりませんねえ」と彼は言うが。しかし、これまでの司法判断には合憲判決もあった。司法でも分かれるほど、難しい要素が含まれているのだ。昨日のゼミでの意見交換の際の学生たちの判断は、10人中9人が賛成かほぼ賛成、一人だけ反対だった。反対の一人は「夜中に一人で行くならよい」との意見だった。私は、「靖国神社が、日本が行った太平洋戦争をすべて正しい行為としているが、それに対して小泉氏はその考えには反対であること(昨年夏にも日本の行為をアジア各国に対して謝罪する談話を出している)、特定の宗教施設に参拝することになること、(これが正しければ、たとえば創価学会の施設に小泉氏がお参りすることも正しいことになる)」、などを引いて、参拝には反対であると述べた。今朝の読売テレビの番組で、かつての浅間山荘事件の指揮をとって有名になった佐々氏が、参拝賛成だが、東条英機氏が祭られるのには反対と述べた。「あの学徒出陣のとき、私は中学生で見送った。東条氏は『生きて虜囚の辱めを受けず』と訓示した。そのせいで、万歳クリフでの兵隊や民間人がおおく飛び降りて自決し(自決、耳障りのよい言葉だ、実際は自殺である)、また戦場でも多くの傷ついた兵隊たちが自決した。本人は自殺し損ねて、生き残った。そのような人は許せない」という趣旨の発言だった。「生きて虜囚の・・・」の言葉、それを受け入れるしかなかった社会は恐ろしい。しかし実際に当時はそれに従って、多くの人が自らの命を断ったのだ。

 

今朝、犬の散歩で神社の丘を下っていたら、すばらしい虹が見えた。小雨がぱらつく中、上がっていく朝日の光で、北のほうの山の上に虹が出た。大きな得をしたような、とてもよい気分になる。近所のNさんが朝早くから家庭菜園を耕していたので声をかけ、虹のことを教えた。私は急いで帰ってカメラを持ちだして虹をとった。残念だがその間に虹は小さくなっていた。虹の足は撮れたが、全体の5分の1ほどの、足の部分だけになった。

 

2005/10/29 「ベスト・ティーチャー賞」

 

と言う賞を学長が与えることになった。副賞としては学長の寄付などで賞金も出るとのこと。だが、これを決めるために、ただでさえ忙しいところにいろいろな作業が加わる。結果として、もっとも大切な教育と研究の時間が削られ、国民、世界の人々にとっての損失となる。目先の利益(大学を目立たせる)にとらわれ、大きな利益を忘れる愚行であると言わざるを得ない。さかのぼればこのような不要な競争を私たち国立大学行政法人に強いる文部科学省と、その背後の小泉政権がその元凶である。木を見て森を見ず。小泉氏が以前に言った、米百俵の精神はそこにはない。

 

2005/11/22 不思議なこと、または困っていること

 

授業で予習ノートを課している。先日、提出されたノートの一つが、当日の黒板の板書をそのまま写したと思える内容だったので、これは予習ノートではない、(板書を写したものは予習とは認めない)、として、0点を課した。これをその学生に伝えたところ、その学生はあまりはっきりはいわなかったが、「板書を写したものではない、予習したものだ」という趣旨のことを述べた。それが本当ならば私の誤解であり、彼に不当に0点を与えたことになる。そこで、もっときちんとこの点について説明をしよう、(またその学生にも十分に説明してもらおう)と思い、このことについて少し話したいと提案したのだが、「もういいです」という答で、その場は終わった。

真相が闇の中のままとなって、どうも気持ちがすっきりしない。その学生の「もういいです」の意味は何だったのか。「私が悪いことをしたのだから、もう点をくれなどとはいいません」、なのか、「私は悪くないけど、もう先生に話しても無駄だと思うのでもうあきらめます」なのか。

もし後者ならば、その学生は、事前の予習でテキストの範囲をまとめながら、私が翌日か翌々日ぐらいに黒板に書くことと同じ内容を想像でき、その来るべき授業で私がアドリブで入れることとなる挿入句(テキストには載っていない、その授業で初めて思いついたいくつかの言葉)を言葉遣いもそのままに、その予習ノートに組み込んでいった、(それも一カ所や二カ所ではない、数カ所にわたって)ということになる。これでは彼はまるで私自身、彼の頭は私の頭である。希有な偶然ではあるが私の頭の中で未来に起こることがそのまま彼の頭の中で起こっていたことになる。

このような奇跡が起こった可能性は、万に一つはあるかもしれない。いや、100万に一つ、一億に一つはあるかもしれない。しかし、私は今回の評価では、その奇跡が起こっていないと信じる方を選んだ。そして0点を付けた。また、その学生が、これについてもはやこれ以上私と話し合おうとしないという態度であることも、私に、この奇跡は起こらなかった、彼は実は板書を写したものを提出した、と思わせる方に働いた。

とはいえ、これはその学生を信じるか信じないか、二つに一つの賭である。その学生には、実は本当に奇跡が起こっていたのであり、もう話そうとしないというのは、もはやこの奇跡については私を説得できるという可能性はないと考えたからだけのことであり、これが真実であったのだ、という、100万分の1の、1億分の1の確率は残る。この確率が残るので私は気持ちが100%すっきりしないままである。

学生からだまされるのはつらい。逆に、学生を不当に疑い、低い評価をつけたとしたらそれもつらいことである。今日私はその奇跡は起こっていなかったと判断する方を選んだ。どちらかが正しいかを知っているのはこの学生だけである。もし、私の判断が正しかったのなら、これが真実であるのなら、その学生はそれを潔く認め、謝ってほしい。つらいかもしれないが、それがその学生にとって、自分の気持ちをすっきりさせる方法だと思う。悪いことをし、そのまましらを切り続けるのは心に負担が残ると思う。だが、その逆であったら、実は本当に奇跡が起こっていたとしたなら、それはどうやって証明できるのか?彼はそれを私に告げるしかない、「奇跡が起こりました」と。だが、私はそれを容易には信じられない。こうして私は困っている。

いつかこの問題を解決してくれる新しい奇跡が起こることを祈りたい。

 

2006/1/20 医療関係者の過労

 

明日はセンター試験。今日は授業はなしである。保険の手続きに組合事務室に寄り、そこで本学の医学部の状況を聞くことができた。病院看護士の早期退職が、また、数名でたそうだ。相変わらず大学病院は仕事がきつすぎるということなのだ。同年齢の事務職員に比べれば看護士は15倍ほどの給与であるという。だが月に8回ほどの夜勤もある。とにかく仕事がきつすぎる。看護士は倒れる寸前だ。「病人が病人を診ている」状態らしい。点滴を打ちながら、看護士が、働いている。医者も層らしい。彼らはきつすぎてやめる。給与がよくても、それはいらない。もっと楽な場所、民間の病院、開業医などのところに移る。似た言葉を聞いたことがある。かつて自分がぼやいた言葉だ。政府は大学改革と言うが、現場にいれば、不要な改革を押しつけられている気がする。大学には時間が一番大事だ。学校の語源はスコラ、余暇、であるという。追い立てられて走っているものはものを考えられない。今の大学はそんな状態だ。極端に言ってはいるがそうだ。

病院の話に戻る。早期退職が増え、それを埋める経験者が移ってこないと、新しい看護士を雇うしかない。それでは経験値がどんどん下がっていく。大学病院は、重病患者が多い。看護にも細心の注意が必要だ。それと比べて他の病院、医院は楽である。楽だから給与も安い。だが、人は身体をこわすよりそれを選ぶ。それは正しい選択だ。このような状況の大学病院に対して、政府は、「もっと稼げ」と、さらに労働に駆り立てる。法人化以後、病院への交付金はどんどん減らされている。政府が実態を知らずに国民の医療を落としている。それとも大学病院がこれまで楽すぎたのか?実態は前者であろう。

診察する医師も、かなりの数が、非常勤の医局員らしい。彼らの給与は非常に低い。いくつも掛け持ちしてやっと生活できる。何かおかしい。そんな杵築角生活で走り回っている人に診察してもらうのは怖い。これでは大学病院に残ろうとする人はいなくなるのではないか。小泉さんに問いたい。大学病院は必要ないのか?

 

2006/1/20 国立大学の将来

 

大学行政について政府にはいろいろ文句を言いたいが、それにしても、大学の存廃が言の葉に乗るような今、今在職するこの大学を残すことは大事だ。山口地方にとって。また自分にとっても職場として大事だ。だから、とりあえずは政府から「いらない」と言われないようにしなければならない。政府のいろいろな注文のすべてが国民のためになるものではないにしても、それを批判しつつも、しかし、今この時点で、教育行政を任されている自民党、公明党が「正しい」という改革はやらねばならない。そうでないと予算が減り、大学運営が難しくなる。その一つが大学評価だ。「自分たちのしていることを定期的に反省し、している仕事をわかりやすく国民に説明する。」自己評価と公開。これだ。来年度はこの仕事(評価室長)を担当することになりそうだ。

だが、一つ注意しつつやるつもりだ。それは、身体をこわさないということ。あたりまえのことなのだが、民間でも過労死が出続けている時代だ。私たちもどんどん増える運営関係の仕事の中で、健康には注意しすぎることはない状況だ。

教育、研究、そして大学運営。大学にはこの三つの仕事がある。評価は大学運営の一部だ。だが、一番大切なのは教育と研究だ。ここからすべては始まる。

学長と理事の数名は教員ではない。彼らはこの仕事はしない。離れたところにいて、運営だけを行う。つまり、他の教員と学生が研究と教育を行いやすくするための環境作りだ。いわば大学人の中の公僕。これが彼らの役割だ。だが、副学長6名の内、理事でない二人を含め、評価委員長はもちろん多くの委員長などは、この三つの仕事を同時に行なわねばならない。すべての教員は多かれ少なかれこの三つを担う。これはかなりきつい。運営関連の役職が重要になっても、本来の研究と教育の仕事からは手を抜くことはできない。

学部にも、全学にも、運営の仕事がとくにきつい人、重い役目の人がいる。その一人に自分がなりそうだ。だが、だからといって、つい無理をして身体をこわさぬようにしたい。評議員としての2年間も仕事は多いように感じた。それ以前のここ数年、いや、さかのぼって10年ほどは、学部の各種の運営関連の仕事も重く感じた。どう思いと言えば、運営関連の委員長、委員などの仕事をしっかりやると、残る時間ではせいぜいもう教育の仕事をする時間しかなくなること。これが一番つらい。

そして評議員となったこの二年間もまた研究時間はあまり持たせてもらえない期間だった。つらかった。つらい。自分の本来貢献したい場所、しなければいけない場所が閉ざされている気持ちだ。そして、それ以上の重職が今待っている。教育と研究は待ってくれない。いまのところ教育の受け持ちは減らしてもらえない仕組みだ。結局、しわ寄せは研究に来そうだ。だが、そこで無理をしてはいけない。二つの意味で。身体に無理なことをするという無理と、そして研究をしないという無理だ。研究をしないと自分が壊れてしまいそうだ。徐々に。自戒したい。自戒せねば自壊するだろう。

全学のために重要なことだから、と言われ、迫るスケジュールに追われて無理をするとどうなるか。法人化の時、他大学で過労死した人がいたと聞いた。これは避けたい。避けねばならない。いつも、社会に出たら過労死だけは避けなさいと学生に教えている。自分がそうなるわけにはいかない。(・・・目が痛い。昨日、評価の仕事の関連で、夕方から45時間検討会議があった。体力が続かない。23時間たって集中力がだんだん切れていくのを感じた。これだけで、今日はこのように目が疲れる。教育、研究のための体力がこうして削られていく。私が今、この仕事を受け持つことと、受け持たずに教育と研究時間を増やすことと、どちらが国民のために立つのか。これが本当は私に問われている。だが、それはわからない。そもそもそれを考えることは許されな状況だ。大学の空気が、つまり、大変だが、誰かが担わないと大学自体がつぶれてしまう、とにかく現状の改革を続けるしかない、という空気がそれを許さない。

 

2006/3/30 ツバル沈没?

 

今朝のニュースで、太平洋のツバルという国のことを報道していた。一番高いところで海抜5メートル。地球温暖化の影響で海面が上昇し、大きな被害を受けている。遠くない未来に国が水没してしまうかもしれないという。井戸水には海水が混じりはじめ、主食の栽培も難しくなっているという。先日、日本沈没という映画をビデオで見た。最後には日本人の多くが沈没する日本をあとに外国に移住していく。あれは地球表面のプレートの動きによるという想定だった。今回は世界の多くの人々、人間一般の豊かになりたいという自然な欲求が、自分自身の首を絞め始めているという因果関連によるものだ。皮肉な結果だが、人間が起こしたことなのだから、人間が防げるかもしれない。それがこの国人々には間に合わなくとも、少なくとも、被害を受ける人には世界の人々が手をさしのべる、移住を快く受け入れてあげなければならない。世界の人々には、その責任も、人間愛もあるのではないか。

 


 春の交流時のメモ 2006/3/25  (以下、象形文字とアルファベット、まで)

 

 この春に何人かの方と久しぶりに話ができた。そのとき学んだことから。

 

 市場と競争圧力

 

・ガーデニングの仕事。とても「それでは出来るはずがない!」という値段で、中小業者が取っていく。これでは仕事に絶対手抜きがある。(樋口Y氏、東京在住)これが今の競争の現状と言うことだ。

 ↓

・わが家の屋根修理の経験と同じだ。見えにくい仕事は一般的に手抜きがあり得る。イギリスでも以前そのニュースをテレビで流していた。この傾向が、現在の日本社会で強まっていないかが今の問題である。店の間で競争圧力が強まれば、安く取ることを最優先にして見えないところの手抜きが起こりやすくなるだろう。つまり、競争圧力は適度なものでなければならない。行き過ぎてはならない。市場の競争は無限度ものであってはならないのだ。この判断は正しいだろう。

 

・市場の競争に関する事前規制を弱め、競争圧力を強化し、その欠点は事後の罰則によって是正する方がよい、という現在の日本の政府の、またアメリカなどの考え方について。この考え方の是非は、規制を緩和して得られる利益と現行規制による利益との比較によって判断されるべきだ。

 一つの視点は、「信頼か不信か」、であろう。どちらも生産者と消費者の間で、生産者はある商品を作ることで自らの利益を求めるが、同時に消費者の利益も求める、のであれば、両者の間には信頼関係が成り立っている。この場合は、だましあうことは少ないので、つまり、行動主体が自分の行動をできるだけ規制しようとするので、事前、事後、ともに規制は最小限で済む。

 これと異なり、生産者は私益しか考えず、それが消費者の利益を損なうものであっても、それが露見しない間に自らの利益を増やすことができれば、つまり、「自分がもうけて、死んだあとにそれが露見しても、それは自分の人生の成功である」、と考えるとすれば、そこには不信の関係が生まれる。このとき消費者は、つまり、その代理人の政府は、自らの損失を抑えるには、事前規制と事後規制をできるだけ強める必要があることになる。

 

 信頼関係は、生産者と消費者が近いほど生まれやすい。これは私たちの経験から言えることだ。最も近いのは家族関係においてである。この場合、生産物は商品とはなっていないが、生産した者、たとえば親、と消費する者、たとえばこども、は、互いに相手の利益を自分の利益と同一視するだろう。半径100メートルといった近隣の生産者、消費者間でもこの同一視はある程度成立するだろう。

 だが、それが隣の県、外国といった遠方の人々との取引となると、相手の利益を自分のそれと同一視する程度はかなり弱くなるだろう。Out of sight, out of mindの状態だろう。市場における関係は、こうして、地理的条件によって、信頼関係から不信関係に変わっていく。現実には、市場は世界大に拡大していくので、現在では不信関係を基礎にして、実際の取引を行わねばならない。

 この商品は欠陥物かもしれない、少なくとも、生産者は、私という消費者の健康、安全を生産者自身に対するほどは考慮してくれていないかもしれない、という可能性を前提として、私たちは商品を買わねばならない時代、社会に住んでいると言えよう。よって、事前規制と事後規制の両方が必要となるのだ。

 現実に、不信関係の結果としての悲劇の具体例としては、食品、住居など様々なものが存在する。それは一つは無知によるものであり、たとえば化学薬品の廃液が公害を起こした例がそれにあたる。また、一つは悪意によるものであり、その商品が人体に与える悪影響を知りながら、それを商品に混入させたり、そうした物質を放置したままにしたり、といったことである。時々聞く、「自分の作ったものは家族には食べさせない」といったことがそれだ。これらはいずれも、消費者に対する配慮は少ないまま、自らのもうけ、利益を最大限に追求するという上の関係、不信を前提とする関係がもたらすものである。

 現代社会では、少なくともあと100年は、こうした人間の私益重視の姿勢は大きくは変わらないだろうから、事前規制と事後規制を強めることが必要であろう。

 

 国立大学 についていくつか・・・

 

 変化と安定

 

 人間が、環境の変化に応じて、自分の行動を変化させねばならないときは、考えねばならないことが多くなる。パターン化しているときはそうではない。通常私たちは、朝起きて顔を洗うとき、右手で蛇口をひねり、両手をその下に持って行って、さて、次は、などと、一つ一つをゆっくり考えることなく行動する。これはパターン化された行動であり、考えずにできる域に達している行動である。だが、たとえば耐震性を強める必要が生まれ、家を造り替える、あるいは、凶悪犯罪が増えたので刑法を改正する、などの行動においては、私たちは新しい状況に対応するために多くの思考が必要となる。 

 人間には上のように、変化が必要な行動と不要な行動とがある。必要な場合にはこのように思考をはじめとした多くのコストを払わねばならない。ある問題を考えることは他の問題を考えないこと、考えられないことでもある。その行動を変える価値があるものかどうか、それによって失われる試行活動を補って余りある者かどうか、それをよく考えてから、行動を変化させるべきである。国立大学(正確には2005年度以降国立大学行政法人)の現状、変わりつつある姿にも、これを考えておく必要がある。

 

 大学の修業年限

 

 (卒業していくS君、Tさんと:060324、ホテルニュータナカの喫茶店にて。「」内は両君の意見。)

 

 「かつて寿命が60歳ほどの時の18歳から22歳の4年間と、寿命が伸びが今の4年間とは違う。その伸びた分を3割とすれば、修業年限の4年も5年にしてもよい。あるいは、6年でもよいような気もする。」 

 現状は、本学の留年者が、卒業生400名ほどに対して数十名いるのはこれの先取りと見えなくもない。

 

 大学とは何をするところか (1参照)

 

 今、本学の経済学部は、「生き残り」のため、卒業生の就職率を高めるため、職業会計人コースに力を入れている。また、日本社会が求める実学として、観光政策学科を作った。これについては「専門学校化を危惧している。」

 また、他大学で、漫画、アニメ(徳山大学)を学科として教えているところがあるというが。そこまでせずともよい、せいぜい、それに対応できる「講師を入れておけばよい。(学科として作るほどのことではない。)そうすれば、科目の範囲も広がるし、好きな人はゼミでも学べる。これで十分である」つまり、漫画、アニメを大学で教えること自体の必要性は認めるが、それを学科とすること、つまり学科とすることで排除される他の何者かと比べたとき、そこまでする利益は認められない、ということだろう。

 「人生は長い。(その長い人生に対応できる力を大学では身につけるべきだ。)」私もその方がよい、それが正しいと思う。社会に出たとき、ものを長く見通す力、を身につけるべきだろう

 現実は逆に、即戦力を会社が要求しているので、大学もそれに応える、という、いわば専門学校化の道が進んでいるようだ。人間は基礎学力さえあれば、たいていのことには対応できよう。日本社会が個々まで、戦後急速に発展できたのは、こうした、高校、大学までは基礎学力を身につけ、会社に入って、会社が研修で、個別の会社で役立つ能力を伸ばす、こうした教育を行ってきたからではないか。しかし今、会社はその余裕がなくなったとして、会社に入ってすぐ使える能力を求める、という態度になっているという。(少なくとも、そのような解説が大学上層部、文科省などから聞こえてくる気がする。)

 ここは逆に、本来の道に戻るべきではないか。社会を重視すべき大学が、その反対、会社を重視する道に変化しているのではないか。今、すぐ使える力を育てても、会社が競争環境が変化したといってまた違うものを要求してきたとき、社会としてどう対応するのか。

 こうした会社の要求は、たとえばあの、かつてはそれを嫌ったアメリカでも政府が産業界のために力を入れているのだから、と外国の例を持ち出す人がいるが、本当にそれがも

っともよい答なのだろうか。

 これは会社と社会の教育の分業体制という大きな問題である。これについては、日本のこれまでのやり方と、欧米のやり方などを比べて考えることも必要になろう。将来を大きく見通す力、あるいは対応力、基礎力の方が大切ではないか。

 

 「大学では、学生はいろんな経験をして大きくなっていくはず。それが今は、このカリキュラムをこなさないといけない、となっている(決められたカリキュラムに縛られているような気がする)。学校は、友人、地域社会、などとならぶ一つの組織であるにすぎないはずだ。」「現在の大学、そして日本社会は、本来の姿から離れ、どんどん深みにはまっていっているような気がする。それに対して短期的、小手先のフォローを重ねて、さらに深みにはまっているのではないか。」「経済社会が、社会全体を侵害しているようだ。」こうした危惧をもつ両君の意見は正しいのかもしれない。

 上のカリキュラムについては、この二人は大学、学問のことをかなり深く考えてきた学生たちであり、物事を理解する能力も相当高いと思われる。よって、学生たちの大半の意見とただちに理解できないかもしれない。多くの学生の意見を聞く必要がある。

 

 (1)

 教育とは社会を支える土台である。人は教育を受けて始めて人間関係の固まりである社会に入っていける。人は利己心さえあれば、それにしたがって市場で行動していればいつのまにか市場という社会の仕組みが、不思議にもお互いのあいだに「調和的関係」を作り上げてくれる、のではない。市場とはそういうものではない。

 人の間の関係は、教育の中で身につける部分も大きい。こうあるべし、としての教育である。だが、こうあるべし、の教育は職場でも行われる。そして、現在の職場=企業は、学校で学んできた関係とは違うものを教えざるを得ないものとなっているのではないか。

果たしてどちらの教育が人間をより幸せにする者なのだろうか。

 

 学費の無償化

 

 「大学院まで無償化すべきだ。」

 一案を考えてみた。具体的方法として、クーポン制はどうか。子供が生まれたら、幼稚園、保育園から大学院までの授業料に使えるクーポンを配る。それは人生のいつでも使ってよい。授業料にしか使えない。各学校は入学試験をし、それに合格した人がそこに入れる。するとクーポンを使える。

 すべての学校を優れたものとし、格差をなくす。すると遠くの学校に行かずともすみ、下宿代、交通費が最小化でき、もっとも安上がりに教育できる。

 「大学は前期2年の教養課程を再興させる。この課程まで無償化する。」

 

 教養課程の改良

 

 教養課程に100ほどのコースを造り、そこで職業体験ができるコースも入れる。すると、どのような職業に向いているかがわかる。それを終えてから専門に進む。他大学に進んでもよい。

 「稼げる力でなく、稼ごうとする力、を育てる。給料が低くても、(自分にとって)価値のある仕事をすることの方が重要。」

 

 社会

 

 「大道廃れて仁義あり。」(S君の祖父。)一人ひとりの倫理感が荒廃すると、社会で決めたルールだけが残る、の意味という。よくない社会のイメージだろう。

 

 「日本社会は官僚化していっている。」

 官僚化とは、ここでは、「自分のいる部署、そばの人だけしか見えなくなる」、ということだ。ピラミッド型の組織の中で、自分のいる部屋だけしか見えない。それと社会全体との関係が見えなくなる。自分の地位の安泰のため、その部署の肥大化だけを考えるようになる。先の、自衛隊の退職者の天下り先に関する問題(2年間の滞留組織を作っていた)もそれだ。社会として認められる範囲で私益を追求することは問題ない。だが、それを越えてもそれをしようとすることが実際にある、人間は。官僚組織は、力が強いので、つまり、最終的には司法、警察、軍隊、という暴力装置を持っている、あるいはそれに近いところにいるので、自分の本来の力を過大視し、また回りもそう思わされ、通常以上に私益を追求しがちなのだ。啓蒙期の思想家、たとえばモンテスキューの三権分立はこの危険を意識したものかもしれない。アメリカ合衆国の創始者たちはこの危険を、独立前の本国からの圧政という形で実感していたので、しばしばこの危険に対して警告し、それを防具ことの重要性を解いていた。たとえばトーマス・ジェファーソン。

 官僚の上に立つ政治家の責任は重い。しかし、現行の組織でそれが可能か?官僚に頼らない国会答弁、など、官僚の力の行き過ぎを抑えようとする動きはある。が問題は大きく、十分理解するには時間がかかりそうだ。

 

 大学における学生の地位

 

 学生も社会の一部である。とくに20歳を超えるとそうである。彼らは、日本社会の最高決定権である国と地方の議員選挙権を持つ。

 大学における学生の位置、地位とはどういうものか。以下のどちらが正しいのか。

 1)学生は大学という組織の一部でもある。そこでは20歳という年齢は関係ない。入学したときから彼らは参加権をもつ。ただし、学生は大学の運営のうち、教育と研究に対しては責任を負えない。学問的力が不足しているからである。その点では行動の受け手である。もちろん講義に対してできる範囲で改善を要求する権利はあるし、それは十分ではないかもしれないがすでに行われている。教育、研究以外についてはすべての大学運営の場面で意見を言う権利と責任がある。

 →すると、それを制度的に保証する場が必要であろう。評議会、経営協議会への参加などが必要か?

 2)彼らは大学という商店から教育というサービスを買う顧客である。顧客ならば商店の経営に口を出せない。彼らができるのはそのサービスを買うか買わないかだけである。つまり、その大学に来るか来ないかという選択肢だけをもつ。

 この二つが選択肢だとすると、学生のあり方として、どちらが正しいか?

 

 高齢化と人体

 

 老化すると、相手の名前がとっさに出にくくなる。かなり高齢になると妻の名、子どもの名前さえ。頭に映像は浮かぶが名前は出ないようだ。いずれ映像も浮かばなくなることもあろう。おそらく、私たちの脳の活動のもっとも核となるところ、最初からあり、最後まで残る、いわば本能的な部分は映像によって行われるのであり、生後の付加的な部分が言語によって行なわれるであろう。

 

 学習と表現

 

 読むことに加え、それについて書く、話す、をすると、さらに理解が深まる。これは多くの人の実感であろう。不思議なことだ。

 

 Moon River, Born Free

 

 これらはthere is a lot of world to see を歌っている点で、人間にとって、とくに少年期に対して大切なこと、を表現している。

 

 象形文字とアルファベット

 

 漢字は象形文字である。アルファベットもはじめはそうだったかもしれないが、現在ではとてもそうは見えない。アルファベットによる言語は、従って、聞くことだけで、つまり象形的な文字の力を借りずに自分の力で映像を想像することがより重要になるはずだ。つまり、アルファベット使用圏に済む人たちは、幼児から、聞いて、対象を自分の想像力で浮かばせる、理解する、ことを訓練しているといえる。

 漢字圏の人たちは、文字を読むときは、現実の映像が浮かぶ前に、その文字による象形映像を思い浮かばせ、次に具体的な現実の映像を思い浮かばせるという二段階を行っているのではないか。ただ、そこには危険性もありそうだ。最初の文字段階では抽象的な映像しか浮かばない。ここからさらに次のより具体的映像を思う壁用としないとすると、抽象的理解だけですませてしまう危険性がある。また、漢字圏では、読むよりも聞くときの方が、文字が目に入らないので、現実の映像がより早く浮かんでくるのではないか。

 また、いずれに圏においても、多く読む人と多く聞く人では、異なった理解の仕方があるのではないか。多く読む人は、目からはいる多くの言葉の間で連想が生まれやすい、多く聞く人は、耳から入る多くの言葉の間で連想が生まれやすいといったことである。だが、速度から行って、読む方が早く多くの言葉に接することができるようだ。これはなぜだろう。

 こうして、目で考え、耳で考える、という、二つの大きな違いが人間の理解、そして行動に影響を与えそうだ。そして、もう一つ、目で考える圏、耳で考える圏それぞれの中で、多く読むか多く聞くかによって、理解、行動に違いが生まれてくるのではないか。

 

 2006/6/20

 久々の飲み会を呼びかけたが、N先生は仕事が忙しくて参加できず残念との返事。ただの忙しさではないことは私にもわかる。気持ちが落ち着かないほどの忙しさ。研究者の気持ちが落ち着かない状態は、研究者にとって致命的なことだ。今の大学では、こうした環境が増えている。強まっている。一体どれほどの教員がそうなのか?政府、文科省、大学執行部(私もあと2年はその位置なのだろうが)は、日本の国立大学の環境を改善しようとして、実は悪化させている気がしてならない。

 授業をするとほっとする。少なくとも、自分にとって命にも匹敵するほどの大切な研究活動に、一端でもふれられる気がするからだ。学生たちには申し訳ない。本来はもっとよい授業ができるのに、大学運営の合間を縫って教えているようでは、教材準備さえまともにできない。今日も、評価室の仕事で一日が終わるかと思っていたが、そうではなく、ひょっとしたら1時間でも早めに終わり、研究関連の資料を読めるかもしれないと思うだけでぱっと心に光が差し込んだような気がした。週に50時間も研究し続ける力はないかもしれないが、週に10時間ほど授業をし、残りはほとんど運営の仕事をしている今の状態は、教員としてはおかしい。学生に対する責任を果たせていない。研究を半分以上し、その成果を生かした授業をし、残りの時間で運営をするのでなければ、学生に対して正しく行動しているとは言えない。裁量労働制に示されている法的期待からしても、そうあるべきだろう。それが国民が望んでいることのはずだ。

 さて、いつこの不正常な状態を解決できるか?執行部、とくに理事と、事務職員は運営自体が職務の全てなので、このことを切実に感じていないかもしれない。私も含めて、教員を代表する人々、とくに学部長などが、教員がこうした問題を抱えていないか、調査すべきであろう。私の回りには、ほとんど、こうした不満を持つ人ばかりがいる。

 具体的には、運営活動は全て退職者に任せる、たとえば学長、副学長(理事)には定年はないのだから、こうした人々を雇うのがよい。そして残りの人は教育と研究に打ち込ませるべきだ。

 

 2006/7/22

 先日の飲み会は6名参加。今回は飲み過ぎることもなく、楽しく過ごせた。飲み会といえば「ノミュニケーション」のだじゃれもあるように、人間の交流、コミュニケーションの一つと思う。

昨日、東アジア研究科の院生の報告に職場のコミュニケーションのことが出てきた。おそらくこれがうまくいっている職場は生産性は高いだろう。ある調査では過半の労働者は職場懇談会を強く望んでいた。組織体としてみれば、相互の交流、相互理解の進み具合の強弱は、いわば身体の各部分がちぐはぐに動けるか否かを左右する非常に重要な要因だ。

メール、携帯など、一見、人と人の間のコミュニケーション、交流は現代社会では以前よりもいっそう進んだかに見える。だが、それはたとえば電話をかける回数が増えたといったたぐいのことだけであって、その中身はそうでもないかもしれないと思う。もしコミュニケーションが一方的なものなら、それは進歩でも何でもない。最近の現象としては、この、一方的な呼びかけ、あるいは指令、といったものが増殖、肥大化し、じっくりと、相手を大切にしたコミュニケーションが少なくなってしまった、弱まってしまったのではないか?

 この推測、観測が的を射ているとしたら、それはなぜなのか?どうしてそうなったのか?(-_-)???

 

 2006/7/29

 大学評価室長の仕事を始めてから4ヶ月。引き継ぎ期間を含むともっと長い。研究が全くできない。これほどとは思わなかった。しかし、やむを得ない。2年間は覚悟せねばならない。研究をしていたからといってどれほど世の中に貢献できるかわからない。授業は持ち続けているので、その質の維持、発展のためにある程度の研究時間は必要なのだが・・。学生と世の中には、「それほど授業の質は下げていませんから」といって許してもらうしかない。8割はキープしていると思いたい。(7割に下がったら、それは背信行為だ。私と、大学が責任を問われる。)

 評価関連の仕事は細かく、肩が凝る。頭も凝る。数時間考え続けると、文字通り、本当に文字通り、頭が固まってしまう。不思議な現象だが、こんなことは、ここまで頭が機能をストップしてしまうのは、初めてだ。頭をほぐしに屋上に上る。むっとする熱い空気、青い空と白い雲、緑の木々と、そしてセミの声。夏本番。美しいと思う。この景色を5分で離れて室内に戻る私の生活。似たような生活をしている日本人のたくさんのデスクワークの人たちがいる。ふと思い浮かべてみる。お金はなくとも、自然の中で汗を流して生きている人たち、自然の移り変わりを24時間体感している人たちと、私たちと、どちらが幸せだろう?目の前40cmの世界で一生の大半を終わらせるのは不幸せかも、と思う。たとえそれでも生き甲斐を感じられていたとき、研究ができていた時と比べて、今があまりに違うのでそのように感じるのだろうか。

 

 人間は一人では小さい。コミュニケーション、さらに進んで共感を発展させること、それによって人間は「大きく」なれる。孤立した「私」、でなく、私という「人間」、になれるのではないか。

 

 2006/8/18

 大学では一人ひとりの教員が研究と教育を行っている。世界の先端の研究を、自然、社会、人間に関して行い、それを最も優れた学生たち、大学生に対して教授している。やりがいのある仕事である。今の私の仕事はその一人ひとりの教員が、この仕事をどのように行っているかを自己点検する助けと、それを文書にまとめ、公表する仕事とである。直接上の二つに取り組む仕事ではない。だから早くもとの仕事に戻りたい。大学教員で運営に携わっている人はみなこう願っている。

 53歳の私の母は10年前に、義父は2年前に他界した。父は80歳で身体が弱くなり、好きな車の運転ももうできなくなりそうだ。高槻市の市長だった江村利雄氏の『夫のかわりはおりまへん』(1999年、徳間文庫)を読んだ。子どもの顔は忘れても、半世紀連れ添った夫の言葉には反応するとのくだりあり。2年の看護でかなり回復してきた奥さんが、老人保健施設に行ったとき、食べ物をのどに詰まらせ、心肺停止となり、今も意識が戻っていないという。人を介護することは簡単にはできない。重度の人に対しては赤ちゃんをみるのと同じ注意が必要だ。(義父も入院中、回復途中でありながら、なくなった。母も信頼していた医師からずっと伏せられていた病名を聞かされ、闘病への力をそがれたように見えた。医療の難しさ、医師、看護士の力量の問題を感じさせられた。)

他にいくつか抜粋を。

 「ボケているからこちらが何を言ってもわからないと思うのは、介護者の思い上がり。・・・病人はこちらの態度や口調で、相手が自分と対等につきあっているのか、・・・察することができる」。(198) これは普通の人間関係でも当てはまることだろう。相手に対等につきあうことの大切さ。そのときのお互いのうれしさ。

 「車いすの人が来たら、そのエスカレーターの近くにいた人たち56人がダーッと走り寄っていって、その車いすをヒュッと担いで、エスカレーターに乗り、上まで運んでいった。ごく普通のビジネスマンふうの空港利用者です。それがごく自然だったのです。」(229)(フランス、ドゴール空港での出来事)

 

2006/9/1

 沖縄戦で、洞窟に逃げ込んだ県民と兵士たちの運命について、次の話を聞いた。国外で戦ってきた兵士たちがいた洞窟では自決が多く、国外で戦ってきた兵士がいない洞窟では降参して生き残った。前者では、国外で戦ったとき現地の人々を、捕虜といえども殺傷した経験があったから、自分たちも捕まればああなると考えて自決を選んだと。海外に侵略したとき、残酷な行動をとらなかったら、もっと多くの県民、兵士が生き残ったことになる。残酷な行動についてはいくつか日本兵たちの告白を読んだことがある。戦場で兵士たちが軍の法さえ無視して残酷な行動をすることは、どの戦場でも共通しているようだ。ベトナムのいくつかの米軍の事件もあった。いつ死ぬかわからないという恐怖の極限状態に置かれれば人間は動物的本能に戻ってしまうのだろう。そうさせる背後の政府、国民こそが彼らの問題行動の根源ということになる。

 

1 仮説1 人類は今、市場の力をどう統御するかで悩んでいる。これを解決することで人類は一歩前進する。

2 系論1 このことをより多くの人が理解することが求められている。

・・・私の大学での研究と教育もこの一助となることを目指したい。

 

 2006/10/12 北朝鮮核実験について ・・・戦争の危機?

 北朝鮮は朝鮮戦争の休戦以後、ずっと、アメリカから攻撃されることを恐れてきた。そして、核兵器を持つことでその危険性が減ると考えてきたのだろう。こうして原子力の平和利用の名の下で、プルトニウム、ウランの核兵器開発への利用の試みを続けてきた。時にアメリカなどが軽水炉を提供しようと言ったり、03年の6者協議の共同声明で、核開発をやめればアメリカは北朝鮮を攻撃しないと言ったりして、核兵器開発を抑えようとしてきた。だがブッシュ政権になってから、イラク、イラン、北朝鮮を悪の枢軸と呼び、イラクをあのように不当に転覆した。そして、これも根拠のあることなのだろうが、麻薬、偽ドル札などに関連して、北朝鮮への金融制裁を始めた。北朝鮮はこれを不当として、6者協議に背を向けた。そして、ミサイル発射、今回の核実験に進んだ。

 たしかに、そもそも現在の核兵器をめぐる保有状況には問題がある。NPT体制はそのままでは早く核兵器を持った国々の独占擁護体制となる。この体制はその意味でつなぎの役割しか持たず、本来は早くこれらの国々も核兵器を廃絶するのが最善なのだ。そして、国連がもっとも信頼できる組織となり、そこに全兵器を集中することが最善なのだ。だが、米、露、英、仏、中の国々はその努力を怠っている。そのもとでインド、パキスタンはNPTに加盟もせず、核兵器を持ってしまった。イスラエルもその保有は公然の秘密という。日本はそうした米にくっついて自国の安全を守っている。情けない形である。

 だが、現時点では、NPT体制を支持する国が圧倒的だ。次善の策としてこれを支持しているのだろう。この状態を悪化させないよう、北朝鮮のような国が核兵器を持とうとすると、こうした国々が、国連の総意としてこれを抑えようとする。やむをえないことだ。

 で、どうすべきか。東アジアの関係諸国が平和に暮らすためには、北朝鮮が、核開発をやめ、他の五カ国を信用し、共同声明の路線に戻ることだ。この路線に戻そうと、現在、国連のもとで各国が、そして日本が、経済制裁と交流の遮断という圧力をかけ始めた。だが、そのもとで、臨検によって、北朝鮮の船から攻撃を受けたとき、応戦し、そこから戦争が始まる危険性も懸念されている。近年北朝鮮籍と思われる不審船から攻撃されたことも記憶に新しいが、それが国家的規模で起こることになる。臨検は公開で行われると言うが、日本の自衛隊は参加する可能性はあるのか?あるとすると、日本の自衛隊がこの戦争に加わることも可能性として出てくる。いったん戦闘行為が始まれば、北朝鮮指導部が自暴自棄に陥る危険性が生まれる。正常な判断力を失い、韓国を、日本を攻撃する可能性も出てくる。工作員が原発を攻撃する、ミサイルを撃ち込む、などが懸念される。何万人、あるいは何十万人の日本人が死傷するかもしれない。

 こうした結果は避けたい。何とかして避けたい。1%の確率かもしれないが、この結末は避けたい。どうしたらよいか?臨検などで追い込みすぎないことか?安部首相は昨日あたりの国会で自衛隊の戦闘行為も認める発言をしていたと思う。日本がどのような行為に出るにせよ、北朝鮮を自暴自棄にさせる結末は避けねばならない。この点に注意することが日本国民が今なすべきことだろう。

 

 2006/10/22

 義父が亡くなって2年になり、昨日は3回忌で香川県に帰省した。瀬戸内海に面した海沿いの小さな集落である。かつて車通りで賑やかだった家の前の通りも、山側にバイパスが通ってから、余り車が通らず静かになった。ここに暮らす人たちはお互いに知己が多い。○○ちゃん、と呼び合うことも多い。気心が知れた人どうしで静かに暮らす生活。目の前は広々とした海、きれいな島々。歌を、楽器を、字を書き、絵を描くことを愛した義父。そんな思い出があちこちに残っている家。私もいつしか海辺に出て、筆で海を描いていた。絵を描いていると、自然が自分の中にゆっくりと根を下ろしてくるようだ。紙の上ではなく、描いているこちらの気持ちの中にその自然が描かれていくようだ。私は山口市の郊外に住んでいる。緑も多い。しかし、この目の前の景観はすばらしい。

田舎の景色はきれいなのに、人々は都会に集まる。「景色は食わしてくれない。」食わしてくれる賑やかな、忙しく車が、地下鉄が走る都会に人は移って行く。だが、選ぶことができるなら、人間にとってどちらで暮らすことがより幸せなのだろう。人間は今、それを試しているのだろう。時に都会生活から田舎暮らしに転ずる人もいる。しかし、今はまだ都会に移動する流れの方が強いようだ。いつまでそれが続くかはまだわからない。それぞれの暮らしの行き着くところが明らかになったとき、田舎から流れ込んだ人で都会があふれたとき、人が田舎に流れ戻るのかもしれない。仕事、収入、そして暮らし。家を買い、車を買い、おいしいものを食べ、遊園地に、映画に、美術館に行く暮らし。私たちが、自分の暮らしの長短を眺めて、「田舎に帰った方が、もっといい暮らしができそうだ」と思う日がいつかまた、来るかもしれない。

 

義父の家族は、このような場所で、多くの近親の親戚家族たちと暮らしてきた。そのことが彼らに「人間としての豊かさ」を与えているように思う。それはアダム・スミスの言う共感としての豊かさなのだろう。ものからの満足には容易に限りが来る。だが相手の喜び、苦しみを共感することから生まれる心の動きには限度はない。共感とは、あたかも私たちを何人にも拡大させてくれる、そんなものなのだろう。

この能力を育てるのには、私たちは3人以上の人間関係で生きるのがよいだろう。3人いると、自分が、あと二人の関係を客観的に見ることができる。人間と人間の関係を客観的に見ることができる。それはおそらく私たちに人間の間の関係づくりの能力を育ててくれるのではないか。

 

文について

 

書いた文を読んでみる。するとその文を書いた自分が違った人のように見えてくる。つまりは、その文の中身そのものが、私が描いたものであるのに、私が気づかなかったことを描いているような気がしてくるときがある。これは、今読んでいる自分は、さっきそれを書いていた自分とは違うものだからだろう。さっきの自分は、さっきの自分としての記憶をもとに書いている。今はまた違ったコンディションで読んでいる。

自分でさえもそうなのだから、違った人が読むときにはその文から生まれる情景はかなり違ったものになって当然だろう。私たちは、いわば、同じ本を読んでも、一人ひとり違った映画を頭の中に映し出して見ているのだ。

これは言葉を介した会話でもそうだろう。そう考えると、言葉というものは、また、映像というものは、一人ひとりにとって非常に違ったものを意味しているのに、(この、非常に、と言う言葉に強い強調を置きたい)、私たちは言葉を介して、映像を介して、お互いに通じ合うものがあると言うことこそ驚くべきなのかもしれない。奇跡なのかもしれない。当たり前の奇跡。

 

2006/11/7

 

 数日前にあるドキュメンタリー番組を見た。「泣きながら生きて」というタイトル。中国から出稼ぎに来ていた丁さんの話だ。彼は1989年に日本に来た。30代半ば。北海道の日本語学校で勉強するためだ。すでに中国に妻と娘がいたが、日本語を勉強して日本の大学で勉強することを目指していたように記憶している。阿寒町の日本語学校はしかし、回りに働く場所がなかった。驚くべき額の借金をしてきた彼は、働きながら学校に行こうと思っていた。それができず、しかし、借金は返さねばならない。彼は密かに学校を抜け出し、不法滞在者となって東京で働き始めた。飲食店で、ビル掃除で、彼は一生懸命働き、稼いだお金を妻と子に送り続けた。それで子どもが外国の良い大学に留学できるように、それだけを願った。妻は、彼が日本で好きな人でもできたのではと疑うこともあった。彼ができるのは電話で時々話すことだったが、それでは妻の気持ちも疑いも十分には晴れなかったが。

彼らは文革の時、下方で極貧の農村地帯へ行ったとき知り合い、結婚した。彼が渡日したあと、妻も働いた。妻子は共同炊事場があるアパートに住んでいた。丁さんも、日本で狭いアパートで暮らした。風呂の時間もなく、ビニールに湯を入れて「風呂」にはいる。

 1996年だったか、彼を写したビデオが中国に送られた。丁さんが、それこそ家族、娘のためだけに全てを犠牲にして働いていたことが伝わった。娘は泣いた。妻も、彼の状況をよくわかった。・・・そして、娘はとうとうニューヨーク市立大学?に合格した。丁さんは喜んだ。娘はアメリカに行く途中、一日だけ日本に寄った。何年かぶりに二人は会えた。

娘を送り出した妻は一人になった。家族皆が、今、中国、日本、アメリカと別れて住むことになった!奨学金をもらうから大丈夫と娘が言っても、丁さんはお金を送り続けた。そして、2002年?、妻がアメリカの娘に会いに行く途中、東京に寄った。10数年ぶりの、72時間だけの再会。浅草を、いろいろなところを案内した。そしてまた彼は妻を送って成田まで行った。空港駅の一つ手前で降りた。彼は不法滞在なので、空港には入れない。娘の時もそうだった。また泣きながら別れた。妻は彼に会ったとき、彼が変わったとすぐわかった。歯が悪くなったこと、・・・年を取ったこと。妻はそれを感じた。

彼は子どものために生きた。そして彼は2004年、中国に戻った。その前に一度阿寒町に寄った。自分の15年にもわたる日本での生活の出発点に彼は戻ってきた。とうとう、彼と妻は、一緒に住むことができる。今度こそ、ずっと。娘は今、アメリカで医者になる一歩手前だ。

 

2006/11/9

 

 4月以降一週間が経つのが早くなった。こう感じるのは、評価室長の仕事に就いたことによろう。目の回るほどの忙しさ。同時に、できれば余りしたくない仕事。本業は教育と研究という気持ちがどこかにある。確かに手応えのある仕事なのだが、早く終わらせたい。月曜日から金曜日、また土曜日まで早く過ぎて欲しいという潜在意識があるのだろう。日曜日は疲れを取り、また来週からの戦いに備える時間なのだが、それにしても少しほっとできる。教育と研究という仕事を中心にしていたときはこのような時間の早さはなかった。人間の無意識の適応なのだろう。つらい時間は早く過ぎ去って欲しいという適応形態。

 働いている人たちのうち、どれほどがこのような、「仕事をつらいと思う」状況なのだろう?仕事を楽しいと思える方が、意欲も湧くだろう。強まるだろう。このバランスだ。問題とすべきは。

 

 2006/12/23

 

 土曜日朝。校内では工事の音が鳴り響いている。ドリルで何かを壊す音。かなりの音だが慣れるとこうして仕事をすることもできる。土日でも続く工事。共通教育棟の回収が進んでいる。全国で国立大学法人の老朽化設備の改築が進められている。学内に長くいるとそれほど大きな不便を感じないのだが、学生たちから見ると、私学のきれいな建物と比べてみすぼらしいと感じ、親もそう思い、こうして、きれいな私学並みの建物を国立大学法人にも造ってあげねば、と国が決めた、ということだろう。早ければ二年後には経済学部の建物も同様の大規模改修が始まる予定だ。きれいになるのはよいのだが、そこに住む者としては大規模な引っ越しをせねばならない。引っ越し先も狭い教養になるだろう。その間何ヶ月間か、おそらく研究室が実質的に使えなくなるだろう。この二つが困る。できれば私の部屋だけは改修しないで、と思うほどだが、・・・それはだめだろう。

 

 昨日は総務企画の忘年会。部屋の隅に作った、三つのテーブルを合わせ、回りに椅子を並べた10人ほどが囲める会場。手作りのおでんで酒を飲み、話す。よい雰囲気で、楽しめる席だった。私は前日の学生たちとの忘年会のせいで、お酒は余り飲みたくない状態。もっぱらおでんを楽しんだ。20代から60間際まで広い年齢層の人がいろいろ話を交わす。昔の給食の話や、子育ての話。いいですね。

 前日のゼミの忘年会も、思い出に残るものになった。Mさん、かなり酔って、足下がふらつくほど。2年のみんなで文字通り支え、世話を焼いてくれた。翌日朝、元気なMさんの声を聞いてほっとした。酔いすぎないことは大切、とあらためて教えてくれたMさんだった。

 

 今朝、アメリカのMaryお母さんに電話。もう80を超えているが、まだ学校で事務の仕事をパートでしているとのこと。お父さんももう23年前になくなり、一人暮らし。外に出ている方がいい、という。一人で家でじっとしているよりは、・・・確かにそうかもしれない。Leeが夏に心臓麻痺を起こし、手術を受けたとのこと。いまtherapyを受けている。Lee一家は、暮らしていくお金はもう十分稼いだと聞いている。だが、サウジアラビアへの単身赴任で、健康管理が難しかったのだろうか。帰国後もあの体重は変わらなかったのだろうか。Kellie-LynnN.J.Seaton college在学とのこと。一度大学を変え、今はInternational relationだったか、を勉強しているという。こうして話していると、まるで以前の、1970年頃のままのような気分になれる、電話での会話。もっと近くにいられればいいのに、とお母さん。でも、本当に、元気な声を聞けて、嬉しい。「とにかく、今朝は元気に起きた」こと。「必要な請求書はちゃんと払えている」こと。それで十分、と。確かに、そうだ。この言葉でこちらも元気になった。お母さんの年まで、身体と頭が元気でいられるとよい。私も目、耳、心臓、その他諸々、年相応に老化を感じつつあるが。

 

2007/1/6

 

 朝9時頃から、NHK総合でイランのテヘラン大学、日本語学科非常勤講師の清水なおみ(あおみ?)さんのインタビューを聞く。昨年のラジオ深夜便で放送されたものの再放送。学生へのよい教材になりそう。イスラム教をイランの人々はなぜ信じるのか、を考察、研究している。

     イランの女性 まだ働く人は一部。大学進学率は女性の方が高い。最近は半数を超えている。小学校は義務教育。銀行の窓口、放送局の機械の操作、女性は多い。男女平等が国是。(憲法?)

     イラン革命 パーレビ国王の時代?、貧富の格差拡大。それを直そうと革命を指示した。別にベールをかぶりたくてじゃない。という人の声もある。

     イスラム教 ベールをかぶれば外で働けるのなら、別にかぶることは便法としてかまわない。こういう友人もいる。他宗教の人に強制はしない。イスラム教は完全な宗教だから、自分たちを見ていれば自然に改宗するとの自信。自分もムスリムになったらと誘われたが、夫が違う宗教だから無理、というと、そうか、と納得される。ムスリムの男は非ムスリムの女と結婚できる。ムスリムの女はムスリムの男としか結婚できない。一夫多妻制はあるが、実態はほとんどない。第一夫人が納得しなければ行けない。全夫人を平等に扱わねば行けない。そもそも第一夫人が納得しないことがほとんど。

     家族、人間の結びつき 家族の結びつきが強い。夕方になれば親戚たちが集まるとか。子どもを大切にする。社会の財産との気持ち。叱るが体罰はない。泣いたりいたずらするのは子どもの仕事、何を気にする必要がある、との感じ方。だが、よいしつけも。友人の家に行くと、子どもを香奈ラブ呼んで、挨拶させる、訪れた自分と話をさせる、相手をさせる。革命時、アメリカに逃げた人々もいる。だがその子どもたちは、自分のアイデンティティをイランに求める人もいる。結婚相手を探しに来る人も。だが、両親だけはアメリカに呼んでよい、といわれて、それでは寂しいからイランを出ない、と、友人の一人は言った。(家族が大切なものなのだ。)イランに住んでいたユダヤ教の人がイスラエル建国後イスラエルに渡ったが、暮らしにくい、と帰ってきた、という話も聞いた。友人になると相手をとても大切にする。

     小学校からは男女別学。大学は共学。大学の席ははじめは離れて座っているが、だんだん混ざり合うようになる。申し訳程度にチャドル?を着ている人も。身体の線を見せてはいけないとの教えなのだが、おしりすれすれまでしかチャドルを着ていない若い女性も。日本なら破廉恥と思われそうな程度。(だが、それも認められている。)

     日本への感情 とてもよい。日本人とわかると大歓迎される。第二次世界大戦で原爆を落とされ、壊滅的打撃を受けた国。ところがその後、急速に復興し、世界のトップにいる国。自分たちもそのようになれる、との期待を与えてくれる国、ということでは。

 

現地に住んでいる人の話を聞くと非常に参考になる。以前、アフリカの・・・さんのインタビュー番組を聞いたときもそれを感じた。その国の状況がわかりやすく伝わってくる。

 

  ニューヨークの地下鉄のヒーローの報道もあった。年末だったか、中年男性が、線路に落ちた若い男性を、線路の間に押し込んで自分もそこでじっとし、車両が通り過ぎるのを待った。二人とも無事だった、との報道だった。そばにいた自分の二人の娘に恥ずかしくない行動をと思った、とのこと。時に、このような人がいる。優しさと、そして、勇気を持った人。まず頭で「あそこに押し込めば大丈夫だ」、と判断でき、でもそれが失敗するかもしれない危険を振り切って、身体がとっさにそのように動くことができる人が。

 

 2007/4/16

 

 休日について・・・休日の良いところ。休日の良さを生かしたいところ。それはスピード、ゆっくりした生活のスピード。休日は通常日より、生活のスピードを緩めることができる。ゆっくり寝てもいられる。早く起きることもできる。ゆっくり歩き、目を道ばたに、両側に配ることもできる。すると、週日には見えなかったものが見えてくる。青い空、白い雲、桜の枝にあるウロ()、芽吹きつつある若葉。人の心の中も見えてくる。この休日、休息があって、張り切った、伸びきったゴムのような心が、身体が柔軟性を取り戻すのだろう。・・・もしも休日がなかったら。それを考えると恐ろしい。張り切ったゴムのような人ばかりの中を私が歩いていることを想像すると、こわい。(あっちではじかれ、こっちではじかれ・・・。あっちをはじき、こっちをはじき。)

 

 植木等・・・氏。同時代と思っていたが、彼を偲ぶTV特集を見て、余り彼の映画は見ていなかったことに気づいた。元気な人だ。健康な元気さだ。すがすがしい元気さだ。「無責任男」という題名がついても、実は人々に元気を与えてくれる、そんな主人公を見事に演じていた。翻って、このような俳優は今、誰がいるだろう?

 

 911,イラク・・・昨年録画した特集を見た。911でたくさんのアメリカ人が泣いた。だが彼らは、それまではしばしば、自国の兵隊が他国で戦争をしていること、または他国においた米軍基地で戦闘訓練をしていることを忘れていたのではないか?

 忘れてはいなかった人もいよう。そのとき彼らは自国の軍隊、兵士をどう思うか?自由のために戦う立派な仲間。普通の米国民はこう考えているようだ。自由。または圧政のない状態。これが彼らのいう自由の一番大事なところだ。圧政は自分をじわじわ、あるいは瞬時に殺す。それはいやだ。だから自由のために死ぬ、自由のために戦う友人のために死ぬ。これが、彼らの崇高な信念だ。イラクに向かう兵士の言葉、自由のために、からこれを感じた。

 だが、その戦争は本当にそのような自由のためなのか?また、それは戦争をすることでしか達成できないのか?戦争は必ず人命を失わせる。味方も敵も、命を大量に失ってまで、その犠牲を払わねばならないところまで、私たちは来ているのか?せっぱ詰まったところにいるのか?戦争をするときは必ずこれが問題になる。

これを判断するのは政府だ。米国ではブッシュ大統領だ。日本なら安部総理大臣だ。そして最後は国会だ。だが、国会が判断する前に、だいたいは、彼らの命令の下で戦争がある期間行われてしまう。緊急避難の状況ならやむを得ないだろう。

だが、今回のイラクはどうだったか?911のあと、復讐心が勝りすぎていたのではないか?なぜアメリカが襲われたのか、も冷静に考えねばならなかったはずなのに、恐怖心に基づく復讐心がそれを抑えたようだ。(軍需産業、石油産業がそれに悪のりしたことはなかったか?)最後の最後の手段のはずの戦争が、軽く扱われすぎたのではないか?

 

 憲法改正・・・改憲のための手続き法が議論されている。法律の改正手続きを決めることは、それ自体は問題ない。だが、改正の必要がなければ手続きも必要ない。仮に「人を殺してはいけない」という考えが全ての人に受け入れられているとき、「でも、人を殺しても良い場合もあるかもしれないから、どんなときには人を殺して良いか、その手続きを考えておこう」と言うのは無駄なことだろう。だが、これと比べれば、今の日本では、憲法を変えたい、とくに9条を変えたい、と思っている人がかなりいるようだ。これらの人が憲法改正を提起したとき、それを判断するための国民投票法を決めておこうというのは現在の日本社会にとって正しいことだろう。(安部首相らは、とくに集団安全保障、具体的には、米軍との共同軍事行動がとれるようにしたい、と考えているようだ。私は、国連軍の行動が必要となることはまだあるだろうと思う。だが、米軍との共同戦争は危険すぎる。) 

 だから問題は投票の方法の中身だ。現在の自民、公明などの案では白票を有効投票と数えないとしている。しかし迷っている多くの人が白票を投ずることはありうる。するとたとえばはっきり意志を示した、国民の12割の賛成で改正がなされうる。憲法改正とはその発議も国会議員の3分の2の賛成が必要なほど、重要なものなのに、最後の投票が12割の賛成でよいということはありえないだろう。有権者の過半数が賛成投票をしたときに改正される、とすべきではないか。このような無謀な内容の提案をする人々が国の指導をしていることに、そして改正を議論していることに、私は非常な危惧を覚える。

 

 捕虜の生体解剖・実験・・・TVの特集によると、これは1944年に九州大学で、軍の命令の下に行われた。医学部教官などの10名ほどが関わった。解剖・実験の結果捕虜の7名は全員死んだ。海水を注射されたり、肺を取られたり、肝臓を切られたり。医学部の教授たちはこうした実験命令を拒否できなかったのだろう。執刀した指導的教授は占領軍の取調中に自殺した。しかし他の者の多くは朝鮮戦争時に特赦で釈放された。福岡市も戦時中に爆撃され、ここでも市民がたくさん殺された。捕虜は撃ち落されたB29の乗組員だった。数名は、落下直後に日本国民のリンチで殺された。爆弾で同胞を殺した者を殺すのは当たり前だ、戦争ではそんな気持ちになるようだ。・・・大学は、執刀した教授らの個人的行為だとしているという。大学も、個々人も、大多数が、殺し合いの熱狂の中に呑み込まれた時代だったのだろう。

 

 教科書検定・・・今回のそれで、沖縄戦での県民たちの壕の中などでの自決は軍の命令ではなかった、と教科書が書きあらためられたという。捕まるのを恐れてかってに死んだのか?としても、なぜ、もうだめと思ったら降参して生き延びよ、と国民に教えなかったのか?「生きて虜囚の辱めを受けず」(19411に当時の陸軍大臣東條英機が示達した訓令(陸訓一号):Wikipedia)と述べた指導者たちは、戦後、生きて虜囚となった。矛盾であり、こうした指導者は利己的ではないか?利己的、つまり、国民のためと唱えながら、実は自分のためだけに生きているという意味の。本来は、せめて、「もう戦えなくなったら投降して生き延びよ」と言うべきであったろう。

 

 2007//22

 

 Dad(「晩秋」)というJack Lemmon主演の映画。あるアメリカの老夫婦と子どもたちの日常を描いている。気丈な、やや気丈すぎる母親。癌の宣告を受け、ショックで昏睡状態になるが、息子の泊まり込みの介護もあってか、奇跡的に回復し、若き日に夢見たことをあたかも今実現しようとするかのように、非常に活発に振る舞う父親。逆に当惑する妻。しかし最後は、父親は癌が再発し、旅立つ。父と息子の交流が印象的。息子はまだ40代だろうが、離婚し、一人息子は妻方にいる。だがおじいちゃんを心配し、来てくれる。非常に日常的な、身近な生活を描いた映画。それだけに印象に残る。また、身近な家族の様子が浮かんできて、親近感を覚える映画である。このような親子の情愛は今の日本では広く見られるだろうか?(一見、私たちの記憶に関しては、非日常、ゴジラの登場とか、ありえない身体の動きとか、特撮による映画の方が印象に残るような気がするが、こと映画に関しては、私は、このごろは、ありえないものを見ても、余り印象深く感じなくなった。記憶の効率化が働いているのだろうか。そんなものを見ても役に立たないよ、といった効率化が。)

 

2007/6/3

 

 Hotel Rwanda。実際にあったことをもとに作った映画。主人公とその家族は今ベルギーに住んでいる。ルワンダのミル・コリンという名のホテル。主人公のルワンダ人、ポールはそこの支配人。ホテルの持ち主はベルギー人。元々ベルギー人がルワンダを植民地にしたとき、少数民族のツチ族を多数民族であるフツ族の上において支配した。彼らは末端では混住し、仲良く暮らしていたが、この事件が起こった1994年当時は、対立し、争っていた。政府軍はフツ族であり、民兵もそうだった。ツチ族は反乱軍となり、国境外に?追いやられていた。休戦協定が結ばれた直後、フツ族出身の大統領が殺された。そのころから、ラジオでツチ族を根絶せよ、と扇動する放送が流され続ける。(まるで、鬼畜米英を殺せ、といっていたかつての日本政府・日本人のようだ。)フツ族の民兵たちが虐殺を始める。一つの村、町の中で、隣り合って住んでいたツチ族の人たち、家族たちが殺される。100万人とも言われる。(しかし、欧米でも同じようなことがあった。古くはドイツでのユダヤ人虐殺。長年にわたったアイルランド紛争。1999年だったか、ボスニア・ヘルツエゴビナでの殺し合い。又は、ロシアとチェチェンで今も起こっている争い。人は「自集団」と「他集団」の争い、と感じると、容易に殺し合いまで行き着きやすい存在のようだ。)奇跡的に1268人の、ホテルに避難した人々は生き延びる。他に、ダーウィンの悪夢、Blood Diamond, Tsozoi?、といった魅力的なアフリカ映画が続いている。ホテルルワンダの最後に流れる歌の一節は、「なぜアフリカ合衆国になれないんだろう」、「なぜアフリカ連合王国になれないんだろう」というもの。しかし、このフレーズが歌われていることがすでに、その方向が目指されていることを示している。第二次大戦後、アメリカ映画が、文化が日本に大量に流入した。すると日本人はアメリカを身近に感じた。今度はアフリカが身近に感じられる番だろう。

 市場経済が問題だといわれる。だが、争いは古来起こっていた。つまりは、経済的富に対する私欲、我が「集団」欲、自分が、「自分たち」さえ生き延びれば、それでよいのだ、との考えによる。だが、南極のアデリー・ペンギンも、その膨大な数からするとかなり狭い土地にそれぞれ巣を作り、ぎっしりと立ちながら、殺し合うこともなく、夫婦の力で子を育てている。人間もそのように「仲良く」暮らしてきたときも多い。上の、虐殺が始まる前のルワンダもそうだった。平和と戦争と。この二つの言葉を持つ人間の間で、戦争が起こらないようにすること、ずっと平和に暮らすことは可能なのだろうか。どうしたらできるのだろうか。

 

 2007/6/25

 

 Darwin's nightmare2006年、オランダ? 

 あらすじ:http://www.darwin-movie.jp/より

 ヴィクトリア湖畔。巨大な魚を運ぶ人や水揚げする漁師たちで活気にあふれている。この巨大魚こそが、半世紀ほど前に湖に放たれたナイルパーチだ。肉食の魚・ナイルパーチは湖に元々いた魚たちを餌にして、たいへんな勢いで増えた。そして、淡白な白身で加工もしやすく、海外への輸出にぴったりだったナイルパーチは"大金になる魚"になった。皆がナイルパーチ漁にむらがり、加工・輸出の一大魚産業が誕生した。魚加工工場のオーナーに言わせれば、ナイルパーチは救世主だ。

 ナイルパーチで仕事をしているのは、漁師や加工工場の人間ばかりではない。最大の輸出先であるEUの国々に魚を空輸するパイロットもそうだ。彼らは旧ソ連地域からやってくる。1回につき55トンもの魚を飛行機の腹に詰めて、タンザニアとヨーロッパを頻繁に往復する。そして、彼らパイロットを相手に町の女・エリザたちは売春で金をかせぐ。

 農村などからもお金を得ようと多くの人がやってきた。彼らは湖畔に漁業キャンプをつくった。漁に出てナイルパーチを獲り、工場に売って金を稼ぐために。だがボートのない彼らは、誰もが漁に出られるわけではない。工場の仕事にありつくのも難しい。彼らの中に次第に貧困がはびこり始める。同時にキャンプの男たちを目当てに売春をする女たちも増えた。そこからエイズが広がり、病気で働けなくなる者も多い。漁業キャンプの牧師によれば、毎月10?15人が死ぬと言う。それでも牧師は「教会はコンドームを勧められない」。キャンプのリーダーは、「貧困が悪循環している。強い者だけが生き残る、弱肉強食なんだ」と言う。

 町にはストリートチルドレンが目につく。画家のジョナサンも、かつては路上で生活していた青年だ。エイズで親をなくしたり、貧困やアル中で子どもを育てられない親たちに放り出されたり、路上で生活せざるを得ない子どもたち。暴力や空腹を忘れるため、粗悪なドラッグを嗅いで眠りにつく夜もある。ドラッグはナイルパーチの梱包材などを溶かしてつくる。

 "住民参加型漁業をめざす国際ワークショップ"で、ヴィクトリア湖の自然が壊滅的状況にあることが報告される。ナイルパーチによって湖の生態系が崩れ、やがてはナイルパーチさえいなくなる危険もあるのだ。

 一方、魚加工工場で不思議なトラックを見かけた。それはナイルパーチを加工した後の残り物を集めに来たトラックだった。ナイルパーチの切り身は多くの地元民には高くて手が出せない。切り身を輸出した後の残りの頭や骨などを1ヶ所に集め、揚げたり焼いたりして売っている。それを地元民は食べる。残骸の山からはアンモニアガスが噴き出し、そのせいで眼球が落ちてしまった女性もいる。

 在タンザニア欧州委員会の代表は、EUがこの国の魚加工産業のインフラを整えたのだと胸を張った。

 ジョナサンが興味深い話をおしえてくれた。ヨーロッパからナイルパーチを運ぶためにやってきた飛行機から大量の武器が見つかった。タンザニア政府はそれを知らなかったが、行き先はアンゴラだった。ジョナサンはその話を新聞やテレビで知ったと言う。漁業研究所の夜警?ラファエルが読んでいる新聞には、タンザニアの保安長官が飛行機による武器密売に関与し起訴された、との記事が。その記事を執筆したジャーナリストのリチャードは、魚を運ぶためにやってくる飛行機にはアフリカの紛争で使われる武器が積んであると言う。果たしてそれは真実なのだろうか?

 ラファエルが呟く。「戦争があれば金になるのに……皆、戦争を望んでるはずさ」。

 魚を積んだ飛行機はヨーロッパや日本へ飛び、魚は私たちの食卓へやってくる……。

 

 感想:主張は、ヨーロッパ人、白人はアフリカに武器を売り、紛争を起こす。一方でとれた魚を高く買い、アフリカの飢餓を悪化させている。つまり、白人はアフリカ人を傷つけている。ということだ。この映画を見る限り、この主張は、このビクトリア湖周辺については正しいようだ。ではどうしたらよいか?

 家出少年、少女たちがわずかな食べ物を奪い合い、殴り合う。飢えたとき、多くの人は自分のためだけに行動するのか?何割が?登場したある白人が、アフリカ人は生来怠け者だ、という。本当か?人は食べるために生きる。食べられなければ働く、動く、食べ物を求める。だから生来の怠け者とは言い難いのではないか?

 

 シルクロードの旅。NHK、2007624日、9時ー10時。

 中国西方から、旧ソ連邦の諸国、カザフスタン、キルギス、チェチェンなどへ向かう旅。アジア系から徐々にヨーロッパ系に移っていくようだ。混血が起こったのか?ソ連時代、日本が攻めてきたときのために、スターリンは朝鮮民族を東方から中央アジアに強制移住させた。仲間が眠っているここ、耕したここが母国だ、という人。チェチェンでは友が、親戚が死んでいる。自分は家族(子供は5人)のためにここに残った、という男性。ほかの番組では、イスラエルに帰っていくユダヤ人たちもいた。他方、残る人も。スターリン時代、逆に強制移住を逃れ、中国に入り込んで生きてきた家族も。今は祖国に帰る。10名ほどの家族か。中央アジアの親戚の元へ。親戚が20名ほども集まった。電話もない村。だが、やっと帰れた、幸せだ、と思っているのだろう。

 

 2007・7・25

 

 22日、アル・ゴア氏の不都合な真実、を観る。An Inconvenient Truth. いかに地球温暖化が怖いものであるかがわかった。温度は上がり、氷は溶け、海の潮流は変わり、ハリケーンは規模を拡大し、…。それがここ20年ほどで急進展している。子供たちに生存可能な地球を残してやれるか。待ったなしの時点にいる。それがわかった。

 学生時代の教師の言葉、課題に取り組んでいるゴア氏。この姿勢も、大学で教えることの意義を教えてくれる。人類にとって大切なことを、真実に基づいて明らかにすること。20年、30年かかって、説得力ある議論を作っていくことによって。

 

 2007・8・3

 

 ここしばらく、大学評価室業務で多忙だったが、今日の午前は一息つけそうだ。安部首相の顔が浮かぶ。選挙の前から、今、参院選大敗北後も、彼の表情はTVに映し出されていた。(あのポスターは、ヒトラーの顔に似ていた。多くの人がそう思ったとしたら、これはアングルと表情で失敗したのではないか。)一言で言えば、国民に希望を与える顔ではないように感ずる。歴代首相、私が覚えているのは1970年ごろの田中角栄氏ごろからだろうが、の中で、特に、いってみれば、貧相な顔つきに見えてくる。もっと正確に言おうとすれば、自信がない顔といおうか。どの首相も、1億人の命を預かるのだから、それを考えるとそれほど自信があった人はいないだろうが、中でも、彼はこのごろ、突出して自信がなさそうに見える。なぜか?

 一言で言えば、自分の考え、正しい、重要と思ってきたことに、広い国民の支持を得られていない、と感じていることへの不安だろうか。これまでの世論調査では、彼の強調する憲法改正などは、国民の考える優先順位の中では非常に低い位置にあった。それでも彼はこれを行うことが国民の第一の優先順位だ、位に思っていたのだろう。ただ、彼はそれを国民に問うて、それでよい、それでいきなさいとの信任を得たことはない。彼の支持議員は、小泉優勢選挙で当選した与党だ。安部氏の信ずる課題を国民に問い、信任をもらったことはなかった。

 今回も、その意味では、自分の信ずる優先課題を訴えたものではなかった。今回の敗北では、その要因は、第一に、年金管理への不信と、閣僚の金扱いの汚さへの不信だった。第二は、経済的不安、景気が回復しているといわれる中で、自分たちが取り残されていく、言っている、のではないか、という不安から来る、政府への不信だった。人はまず毎日食べていかねばならない。その切実さが安部氏にはわかっていなかったのではないか。また、食べていけるかどうかを決める政治家たちには、高潔性を求めるのだ。自分の食べることをこっそり優先する政治家は信用されないのだ。そのような内閣は信用されないのだ。このことも今回はっきりと示された。

では、重要性は低くても、憲法などの議論はそのまま安部氏に任せようというのが今回の選挙に示された民意だったのか。安部氏は、この一年、憲法・軍事・米軍との協力、と、戦前のような道徳教育への回帰を重要な柱とする教育「改革」に重点を置いてきた。だが、今、国民のどれだけが、戦争が起こると考えているだろう。北朝鮮が時々ミサイルを打ち上げるのも,自分の国が生き延びるための示威行為でしかないと,それを使って日本にまで攻め入ろうとするものではないと,国民のほとんど99%は考えているのではないか。また、教育にしても、子どもたちが行く小、中、高校、そして大学、特に身近な地域では小と中、これらがどこもよい学校になるようにと、これも99%の国民は願っているのではないか。

それにはどうすればよいか。安部氏は、学校の先生がいけないのだと考え、学校間で競争させることで、つまり、学校を「よく」しなければ、生徒が減って、自分の職場がなくなるよ、という脅しで、それはよくすることができる、と考えている。これは大局的に見ると、違うと思う。先生の尻を叩いて解決できる問題ではないだろう。先生が忙しすぎる、しつけができていない家庭が多くの問題児を学校に送ってくる、また、もしかしたら、ゆがんだ、たとえば拝金主義といった面で大きくゆがんだこの日本社会が、その背後に控えている、といったことが学校の、教育の、問題の根本原因かもしれない。(そうでないかもしれない。)まずはそこ、原因を明らかにすべきだ。個々の政治家の思い込みでことをなすべきでない。それは事態を混乱させるだけだ。

確かに、急ぐべきこと、急がねばならないと思わせる出来事はあろう。それならば、何より、現場へ行って、そこで先生、生徒、親の状況をつぶさに観察し、話を聞くべきだ。(これはすでにやっているのだろうか?)そうすれば、まずは、何から応急処置をすべきかも見えてくるはずだ。血を流しているのは現場なのだから。政治家は、国民の生活現場に寄り添う存在でなければならない。それにはまず生活現場に行かなければならない。よほど鈍感な政治家でない限り、現場に立って耳を澄ませば、そこでの切実な声は伝わってくるものだ。(この声を聞くことができるものが政治家になるべきだ。)それもせずに、永田町にふんぞり返って、自分の狭い経験から、狭い考えを国民に押し付けるものが、政治家であってはならない。

 

2007・8・7

 

人間ドックが意外に早く終わった。8時半過ぎにいくと、終わるのは昼前ということが多かったが、今日、8時前にいくと。9時過ぎには終了した。しかし、予約制度が業者に依頼された今年は、予約業務が滞っているようだ。私も結局、何回かの問い合わせにも返事は返らず。電話も出ず。この業者への不信が残った。大量の情報(予約の仲介)業務を引き受けては見たものの、機械というものは、そして人間と結びついた機械というものは、結構不備が多いもののようだ。社会保険庁の諸問題もその色を帯びているのだろう。人間ドックの今回の予約も、個人情報をたくさん入力しているが、秘密保持は大丈夫だろうか?むしろ、こういう不安を残すよりも、手間がかかっても、(手間がかかるとは、人手がかかること、つまり賃金というコストがかかることであり、それに人手を割くことで、ほかのことがその分できなくなる、たとえばその分食糧生産が減っておいしいものを安く食べられる量が減る、といったこと)、そちらを選んだほうがよいのでは、とふと、思う。どちらがよいのだろう?いつか、安全性、効率性で(効率性では今すでに、かなり、機械化のほうが、…こういう情報を扱うむずかしい仕事でも…優位にある、とはほとんどの人が信じられるほど、進歩してきてはいるのだろうが)、ともに人手より完全に優位になる時代が来れば、こんな疑問は不要になるのだろうが。今はまだ、・・・。

ドックから帰り、駐車場から学部棟まで、遠回りをして歩いた。炎天下、高校生だろう、三チームがサッカーの試合をしていた。緑色の服を着たチームはかなりうまかった。中には本当にこげ茶色に日焼けした子達もいる。青い空、時々来るそよ風、若い、元気に走り回る少年たち。平和な風景だ。先月、サッカーのアジア杯?でイラクが優勝した。国内では練習ができなかったらしい。しかし、国民の中には、優勝が決まった瞬間、危険を顧みず、街頭に出て歓喜を表わした人たちもいたらしい。平和の国、日本。戦火の国、イラク。原爆投下62周年の日本。原爆製造を危惧されているイラン、北朝鮮。原爆をすでに持っているアメリカ(数千発)、ロシア(数千発)、イギリス、フランス、中国、イスラエル、パキスタン、インド。そして、アメリカの核兵器に守られている日本。今日は3年ゼミの打ち上げがある。平和な打ち上げ、飲み会。(打ち上げと言えば、花火もそうだ。平和な打ち上げだ。先日言った徳地の、山に囲まれた佐波川河川敷での花火大会。パーン、とすごい音が続いたときは、少し怖くなった。もし戦火の国から来た人がいたとしたら、やはり怖がるだろうか。)

毎週顔を合わせて勉強をしていると、時には一緒に食事をし、酒を飲みたくなる。(飲めない学生もいるだろうが、私は学生のとき、酒を3年生まで飲まなかったが、クラブのみんなで集まって合宿で一緒に食べたり、話したりするのは楽しかった。きっと、人間の間にはそんなことを楽しむ性質があるのだろう。)私たち日本人は戦争もなく、その意味では今、幸せだ。戦後62年間、国土が線上になったことはなかった。隣の国朝鮮は戦火に襲われ、今も分断されたままだ。今、日本では、見知らぬ爆弾を落とされて、知らぬうちに殺されていることはない。交通事故や病気で死ぬことはある。時に貧しくて生活保護も十分受けられず(先日の北九州市の事件)、死ぬことはある。だが、戦争で殺される、死ぬことは今はない、この日本では。しかし、戦争をしている米軍を後押ししてはいる。自分の土地に基地をおかせ、それを使ってもらい、人を殺させている、イラク人を、世界のいろいろな地域の人々を。自分が助かればそれでいいのか、私たち日本人は?他国の人を自分の用心棒=米軍が違法に殺して回るのを後押ししていていいのか。小泉元首相、それが本当に正しかったのでしょうか?あなたは、日本国民を守るのが私の義務である、日本国民の命を北朝鮮の脅威から守るために、今ここで米軍を助けておくことが必要なのだ、自衛隊をイラクに送るのは私の義務だ、国民から託された期待だ、とあなたは言った。…私たち国民は本当にそれを期待していたのだろうか?安部首相、今、私たちはそれを期待しているのでしょうか?私たちは、本当は、何を期待すべきなのでしょうか?答えてください、首相殿。

私たち国民は、きっと、最高権力者のあなた方がどれほどの力を持っているか、それが何を意味するのか、世界の人々にどのような結果をもたらすのかを、よくわかっていません。あるいは、ほとんど忘れています。しかし、あなたたちは国民の命を握っているのです。(よくそんな地位についていることができるものだと、少し怖くなります。)

もとい。私たちは、自分だけが助かれば、他国の人々が違法に殺されてもいいと考えているのでしょうか?国民は自分で自分のことがわからないのかもしれない。首相,首相になるほどの人ならば,私たち国民が何を考えているのかをわかっているのではないでしょうか?… … やっぱり無理でしょうね…。国民は、自分たちにふさわしい政治家しか持つことはできない、と誰かが言ったのですが、それは本当なのでしょうね。無理なことを期待すると自分で自分を裏切ることになるのでしょう。すると、遠回りでも、国民自身が自分をわかる努力をするしかないのでしょうね。私たちは本当は何を求めているのでしょう? あの憲法前文は、平和、正義、信頼、そして武力の放棄、こうした言葉は、私たちを奮い立たせてきたのではなかっただろうか?

 

2007・11・13

 

三カ月が過ぎた。ずっと、評価の仕事で追われるように動き続けてきたこの夏。本当に暑い夏が過ぎ、30度台前半から、今では10度台後半へと気温が低くなった。真冬は0度ほどになる。今日はふとした時間ができた。

 

安倍首相が退陣した。疲れ切ったように見えた。小沢党首もつい先日、気力が切れたといった。だが彼はまたやる気を取り戻したようだ。私の周りでも、疲れた表情、しぐさの人が気になる。そしてAlways、三丁目の夕日がヒットし、私たちの中に昭和30年代への、つまり、東京タワーができ、テレビが登場し始めたころ、人々が路地に出ていたころへの郷愁がますます高まっていくようだ。・・・幸福感とはどのような生活から生まれるのだろう。忙しいが収入が多い生活?収入は多くないがゆったりした時間のある生活?その中間のどこかなのだろうが、さて、どこなのだろうか?

 

長門峡を歩いた。4.6キロを2時間半。時に川におりながら、紅葉を満喫しつつ歩いた。疲れたがそれだけの価値はあった。54年生きてきて、初めての経験だった。紅葉にこれほど浸かったのは。うれしいといえば、あと半年、来年の515日は本当にうれしい日だ。評価の仕事が終わり、「普通の大学教授」に戻れる日だ。完全に縁が切れるわけではないが。研究をし、大切なことを考え、できれば役立つことを発見し、それを学生に教える。この生活に戻れることがうれしい。体力も少し衰えつつある今。残る力をそれに注ぎたい。あさって1115日からちょうど半年後だ。ささやかな幸せ?大きな幸せ?大きな幸せだ。(キーボードを打つ指があまりスムースに動かない。18度の室温は意外と指に影響するのだろう。)

 

学生たちは就活に苦しんでいる。過半数は決まったが、まだの人もいる。半年以上、会社訪問を続けねばならないのは、つらいだろう。Empathyを感じるとこちらもつらくなる。

しかし私にできることは社会科学を教えることだけだ。そして、ゼミでは「長い人生で役立つこと」を教えるのがよいだろう。大切な、社会の根本を。長い人生の中で、いつでも支えになるような、社会の基本構造を理解させること。講義ではそれを教えられるのだが、ゼミは個人研究が中心となり、それがなかなか難しい。ここをうまく解決することが課題だ。

 

 2007・11・24

 

 神社

 

 23日は勤労感謝の日。新嘗祭(秋に新穀を供えて神を祭る稲作儀礼)が引き継がれたもの。偶然、USとカナダでは感謝祭がこのころある。USでは11月の第4木曜日。

 「感謝祭は、イギリスからマサチューセッツ州のプリマス植民地(Plymouth Colony)に移住したピルグリムファーザーズの最初の収穫を記念する行事であると一般的に信じられている。ピルグリムがプリマスに到着した1620年の冬は大変厳しく、大勢の死者を出したが、近隣に居住していた北米先住民ワンパノアグ族(Wampanoag)の助力により生き延びることができた。翌1621年の秋は、とりわけ収穫が多かったため、ピルグリムファーザーズはワンパノアグ族を招待し、神の恵みに感謝して共にご馳走をいただいたことが始まりであるとされる。しかし、イギリス人の入植者もワンパノアグ族も秋の収穫を祝う伝統を持っており、この年のこの出来事は特に感謝祭と位置づけられてはいなかった。プリマス植民地で最初に祝われた1623年の感謝祭は食事会というよりもむしろ教会で礼拝を行い、神に感謝を捧げる宗教的な意味合いが強かった。」(Wikipediaより)ともに生きることが非常に難しかったころ、生きていること、その象徴としての食べられることへのうれしさが、祈りに変わったものといえよう。

 宇佐八幡宮訪問。八幡という神が現れたのでそれを祀ったところといわれる。(この神のどのようなところが好かれたのか?)また、この地は、その前に(?)、すでに天皇の祖先が戦に勝ち、尊敬されたこと、そしてこの地に立ち寄ったことから、祀られているようだ。なお、道教と和気清麻呂の事件の時、和気清麻呂がここから神の啓示をもちかえり、道教が皇位につくことを防ぎ、皇室の血が絶たれることを防いだことでも有名である。

 ともかく、神社とは多くの人が自らを守ってくれる人を尊敬したというわかりやすい動機から生まれたものなのだ。だからこそ続いてきたのだ。皇室と縁が深いものとしては伊勢神宮も同様の皇室の祖先といわれる天照大神を祀っている。人間がだれかを記念し、またその子孫を尊重するのは、彼らが自分たちによいことをしてくれた、くれるだろう、からだ。

 

 禅

 

 帰路、NHK特集で、岡山の全寺、曹源寺を放映した。ここでは25年前から、合計500名ほどの外国からの修行者を受け入れている。ある人、40代前半、アメリカ、コロラド州から、は、仕事でも生活でもうまくいかず、ここに来た。ある青年、22歳、大学4年生、は、どう生きたらよいか、どんな仕事についたらよいか、迷ってここに来た。彼は16歳の時9.11を見た。人間とは何か、どう生きたらよいのか、考えざるを得なかった。心理カウンセラーから禅のことを聞き、ここに来た人もいた。30代頃から、60歳ほどの現在までずっとここにいる人もいる。

 その大学生の若い男性は、これまで一番印象に残った和尚の教えは、どんな仕事をするかではなく、何をしていてもよい状態になることが大切、ということだった。生きるための根本的姿勢を得ること、それになること、が大切、ということであろう。ここからは仏教の教えにかかわることになる。その根本は、物事に執着しない。今ある状態を水のように受け入れていくこと。滑らかに生きること、ではないか?今あるものから得ることを受け入れ、味わいつつ、それは変化していくことも同時に受け入れ、味わうこと。

 

 豊後高田市

 

 昭和の町。見える形で、「昔の良さ」を示してくれている。一方、大通りを隔てれば、「現代的な」町がある。人も車も忙しく走っていく。だがこちらは、何か、「人に合った時とものの流れ」があるようだ。これは何か?これは大切らしいのだが、それは何か?

 

2008・4・3

 

今日は入学式。天気良し。桜はもう3分咲きほど。土日は曇っていくので、今日明日は第一回目の見頃。

最後に書いてからすでに4カ月が過ぎた。地球温暖化と戦争、争い。この二つはまだまだ続いている。昨日のTV番組では南極のペンギンの様子を映した。1998年からは南極のゴミは持ち帰ることになったが、氷が溶け、それ以前の鉄骨などのごみが波打ち際からあらわれてくる。ペンギンは餌をお腹に入れて子供のところに帰るのだが、この鉄骨のゴミが体を傷つける。また、雪、氷の下から土が現れ、(24度にもなる日がある!)、ひび割れ、巣も子供も被害に遭う。

オーストラリアでは2001年から7年間干ばつが続く。農民の自殺も増えた。10分の1の小麦収穫量の家もある。カンガルーも被害を受け、3000万頭が1000万頭に減った。アフリカの、コートジボワールだったか、波が海岸を侵食していく。海沿いの家が失われてゆく。「海が陸を食べないでほしい」という子供たち。マレーシアから水を買っていたシンガポールは、売り手のマレーシアでも水不足で水の値段が上がるので、下水の再利用を始めた。日本の技術が(逆浸透膜、日東工業)使われている。

環境だけを見ても、世の中には困っている人がたくさんいる。一生懸命働いても困っている人が。それに比べ、日本人はかなり豊かになった。多くの日本人は前より長生きをし、おいしいものを食べられるようになった。しかし世界には生きるか死ぬかの状態で困っている人がまだたくさんいる。日本にもいる。その時、私たちはどう生きたいのか?私は、あなたは、どう生きたいのか?それは、私は、あなたは、だれが喜ぶ顔を見たいのか、という問いでもある。

「鹿男あおによし」というドラマがあった。主人公は鏡に映る自分の顔が鹿としてしか映らない。生き物は普通、自分自身を外から見ることができない。鏡に映る姿が自分でない時は、自分を見ることができないということだ。(写真に映るなら可能だが。)そして、人間はおそらく長い間、猿だったころ、自分を見ずに、鏡を見ずに生活しただろう。その時、「自分」という意識はあったのだろうか?犬は、猫は、鏡を見ない動物たちは、「自分」の意識はあるだろうか?私たしの祖先は、「他者」、対象物としての存在は意識できても、自分自身はどうだったのか?猿は水に映る自分の姿が自分だと認識できるだろうか?人間はいつから鏡に映る姿が自分だとわかり始めたのだろう?

作る、そして分ける、自分と他者の間で。いま私たちを悩ます分配問題は、鏡とともに発生したのだろうか?自分を自分と意識しだしたときに。

 

2008・5・17

 

今日はうれしいことが書ける。15日で大学評価室長の任務が終わったのだ。20064月から2008515日まで。2006年の見習い期間も入れると22ヶ月半。…長かった。大学執行部の役員はどれも大変だが、私の場合、長く感じた理由は、一、仕事自体が多く大変だったこと、そして二、本当はこの仕事はあまりしたくなかったこと、つまり、教育と研究をしたいのにこれをしなければならなかったこと、だ。大変な仕事でもやりがいはあるし、あった。第二の理由がなければもう一期でも二期でも出来たろう。だが本当にしたいこと、すべきことはほかにあると思いつつその仕事をするのはつらかった。任期の最後の半年ほどは特にその気持ちが強まった、そして最後の23カ月はほぼ臨界点に達した。(というのはやや大げさだろうが、それに近かった。)体調ももう50代半ば、それほど自信のあるものではない。いくつか病気も出、そこかしこに老化のきざしが見える。その時残る期間に何をしたいかといえばやはり研究と教育だ。そして今、評価室の仕事は終わった。私は戻ってきた。本来の仕事に。

特に教育では学生に迷惑をかけた。本来の教育の67割ほどしかできなかった。授業準備、授業の質自体、授業後のまとめ、どれも不十分だった。時間さえあればできたものができなかった。いつも次の評価業務が迫っており、授業関連の業務は不十分なまま打ち切らざるを得なかった。全教員相手の評価業務を優先せざるを得なかった。これが結局は大学への交付金に影響するのだから、第一にせざるを得なかった。だが困った。

研究は言うまでもない。ゼロだった。二年間研究はしなかった。できなかった。こんなことは初めてだ。「研究の成果を授業に生かす」という本来の大学教員の在り方から見れば、この面でも質の低い教員であった。(だから、本来は、「大学評価担当学長特別補佐・大学評価室長」は、教育は免除されるべきだった。しかしそうではなかったし、まだ次期室長もそうなっていない。私の場合、実情がまだよくわからず形に合っていなかったのだ。今後は遠からず法人評価も担うことになろう。そうなればもうはっきり、室長はその期間の教育からは免除すべきだ。)

だが、ともかくも、今は、私は戻ってきた。教育と研究に戻ってきた。これがうれしい。I am back. I am home.

 

2008・6・6

 

昨晩は大学院ゼミの懇親会。銚釐庵にて。その後シダックスへ。おいしい料理、楽しい歓談。2時間が過ぎ、アルコールも適度に(少し多めに?)回る。日本語と中国語の歌を次々と楽しむ。私も数曲歌う。彼ら、20代半ばから30歳まで、はやはり歌が好きだ。私と吉野君は50代。私は歌好きを自任しているが、吉野君も歌を楽しんでいた。テレサ・テン、尾崎豊。疲れが勝り、最後まで付き合えず。11時ごろ帰宅。

 

2008・7・22

 

人間社会について。

イランのニュースが気になる。2003321日のイラク戦争開始前に似ている。イランが核爆弾の製造をしているとの疑いがかけられている。あのときもどこだったか国連からの?査察が行われている中でアメリカが戦争を始めた。今日のニュースではイギリスのブラウン首相がイスラエルでイランに警告している。

中国のバス爆破事件も気になる。雲南省昆明市。二人がそれぞれ殺された。チベット独立派によるテロだとは思いたくない。しかし先に新疆ウィグル自治区の人で、雷管100本を持って列車?に乗り、逮捕された人もいる。

14歳少女の父親刺殺事件。先の秋葉原事件。埼玉の事件。大阪大学学長の鷲田清一氏が数日前の朝日新聞に書いていた。よくわからない事態が日本社会に起きているようだ。何なのだ?いったい、何がおきているのだ?汝自身を知れ?では、自分に聞いてみようか?「あなたは他人を無差別に殺したいか?」「あなたは父親を殺したいか?」「あなたは母親を殺したいか?」等々。

自分の生育暦を振り返ると、結局、こうした事件を犯すか否かは、その人が周りの人に、その中心は多くは両親に、どう育てられたか、によるのではないか?以前、外国のこうした無差別殺人犯の心理を扱った書物に、そのようなことが書いてあったように記憶する。結局、人間とはなにかは、その人がそれまでに接した人間がどのような人であったかで決まる。仮に本には別のことが、たとえば人間とはやさしいものだと、書いてあっても、自分を育てた人が残酷な人であれば、その子供は人間とはそのようなものだ、と認識する。それに対応して自分の生き方を決める、生きていく。

すると、このような事件が起こることを防ぐには、子供の生育環境がやさしいものでなければいけないことになる。やさしい、しかし、働き者の大人たち。

では、今の日本社会はそうではないのか?大人たちは優しい人ではないのか?やさしいとは何か?日本の社会で、あるいは人類の社会で、やさしいとはどういうことか?やさしいとは、力持ち、働き者、とどういう関係にあるのか?怠け者と働き者なら区別はつきやすい。では、やさしい人と働き者はどうか?キリストはやさしい人だっただろうが、自分では働かなかった。だから彼を慕う者はかなりの時代にわたって、瞑想の生活をよしとした。仏陀についても同じだ。

問題は、人間について、働くこととやさしいこと、作ることと分けること、をどうつなぎ合わせるかだ。これらをつなぐ仕組み、社会の仕組みをどう作るかだ。(今朝、またせみの抜け殻を家の壁に見つけた。夜のうちに脱皮し、無事に大人のせみになって今頃元気に鳴いているのだろう。だが彼らはひとりで生活する。人間は違う。社会を作ることができる。では、どんな社会を作るのが良いのか?)

 

自然環境について。

そして今年も暑い夏が来たこと。朝9時の研究室、室温はすでに34度。クーラーをつけて28度。

 

社会と自然。

自然の中で、力を合わせて、自然に対応して生きてきた生物。その一つとしての人間。個体の数が増えることがその生物の「成功」を判定する指標だとすれば、人間は非常に成功してきた。だが、「力をあわせて」生きてきた、その力をあわせることが下手になってきたようだ。その結果、自然への対応力も少し心配だ。ただ、これはこれから半世紀間の努力次第らしい。ここでもう一度力のあわせ方を見つけることができれば、まだ人間はかなり先まで生きていけそうだ。

 

2009・4・23

 

前回から9ヶ月が過ぎた。早い。昨年6月から今年3月まで9ヶ月あまり、他の部局に引越ししていた。

。間借り先から戻って、桜が咲き、多くの草花も咲き、そして今、大学通りにまたケヤキの緑が輝き始めている。

評価室の仕事が終わってからもうすぐ1目になる。去年の516日は本当にうれしい日だった。教育と研究に戻れる。これが本当にうれしかった。今年も学部の仕事は、委員の職からは免除してもらえた。学部の同僚たちにお願いのメールを送った。そしてそうなった。ただ東アジア研究科の仕事が新たに入った。副研究科長。閑職ならと引き受けたが、少し仕事が増えた。増えつつあるような気もする。これは最初の引き受けの条件を守ってもらおうと思う。

50代半ばを過ぎ、自体の働きは却ってさまざまな知識を積み重ねてきた結果、社会問題を考えるには以前よりよい状態になり続けているような気がする。だがそれを表現する、あるいは情報を取り入れるはあまりよくない。年相応に、あるいは少しそれより早く老化しつつあるようだ。これからは目などを大切にしながら、経験の力を生かす方向で仕事をしていこう。

 

2010・2・18

 

(多忙な社会、便利になったはずなのに、いつも追い立てられているような気がする、社会)【安心のない社会?】

前回から10ヶ月が過ぎた。前回の書き出しも同じようなことが書いてある。なかなかここに書くための時間がなくなっている。日々感じ、考えることはある、あったと思うが、それを文にして定着させる時間がなくなってきた。周りの人と話すと、似た感想が返ってくることがある。この、「便利になって、ゆったりした生活になれるはずなのに、逆に追い立てられているような気がする」、という感覚はなぜなのか。私の場合はメールに追い立てられる感覚。メールに入ってくるいろいろな事務的な連絡文書。通達が便利になったからといって、以前なら来なかった、あるいは精選されていた、送られてくる文書が増えた、そんなことはないだろうか?それにまじめに対応しようとするとどんどん時間がとられていき、研究する時間がなくなる、という本末転倒。これと似たことがある。文科省、政府は、各種の評価に関して危惧を抱き始めている。どうでもよい、あるいは、一見大切そうだが、それをすること、それに時間を使うことで、かえってもっと大切なことができなくなる、そういったことが多くなっているのではないか。何をなすべきかを決めることは人間のもっとも大切なことだ。そこに不安が生じている。「これは大切なことなのか?」これは人間の生き方一般にかかわる重要な問題といってよいだろう。

卒論の提出方法が厳しくなって数年。以前は教員が受け取っていた。だが教員によって「受け取り方の厳しさ」の点で若干の違いがあったようだ。そこで今では、二日間のみ、指定時間内に提出、が原則となった。良くなった点もあろう。公平性という点で。だが悪くなった点もあろう。融通が利かなくなったのではないか。教員間の信頼があれば以前の方法のほうが優っていた、公平性も融通性もある場合は。だがそれがないと判断され、公平性を優位に立たせた。形式上はよくなったが、果たして総体としてはよくなったのだろうか。

 

*以下の話も、上の「追い立てられている気がする社会」につながる問題ではないか?

 

(大学教育、「戦略教育」と実施体制について)

昨日の教授会の議題。昇任の基準に教育に専念したという項目を新たに立てるかどうか。今、事実として、「学部の戦略的教育」のために、特殊な活動をたくさんしている、させられている?、教員がいる。研究時間があまりない。よって研究業績が増えない。これはよくないので、この活動を高く評価して新たに昇任の条件としよう、という学部長の提案。だが、学部長と評議員以外は裁量労働制で働く教員であり、彼らは勤務時間の半分以上を研究に充てることによって給与をもらっている、はずである。ならば、このような新しい基準を立てるのではなく、こうした特別な任務を負わされている教員をその過重な任務から解放してあげること、研究にも力を、時間を使うことができるようにさせてあげることが、本来の解決方法であろう。「とりあえず」で、つぎはぎでいろいろ進めてきた結果、対策もつぎはぎのようになっていないだろうか。

(学長選出について)

3月で現学長の任期が切れるので、昨年から改選が行なわれてきた。意向投票で構成員の意見を行き、それを参考に14人からなる学長選考会議が決定する仕組みである。当初M氏が選ばれた。(正確にはまだ文科省の発令前なので学長候補、が選ばれた。)だが彼は病気で倒れ、辞退した。問題はその次である。「だから選考会議は次点の人を候補者とした。」私は、本来の正しい対応方法は、意向投票からやり直すことと考えている。いまだにそう考えている。だが選考会議はそうはしなかった。そうしなかった理由を知りたい。それが納得できるものならばよい。現在の問題はその理由が学内に説明されていないことだ。なぜ意向投票をしなかったのか。「時間がない」こともその理由の一つのようだ。ではその中身は何か。時間がないとはどういうことか。こうした、異常な行動を採ったことに対する説明がないと、この選出は納得できない異常なもの、として残る。これでは学内構成員の気持ちは晴れないであろう。

(学生の「質」について、日本社会の「質」について)

昨日久しぶりに教授会後の飲み会で歓談した。そこで出た話題。3分の2の出席者のみが試験を受けることができる、とした先生が、学生から怒鳴られたという。自分は出席している、それなのに試験を受けさせないのはおかしい。お前は死んでしまえ。という暴言を吐いたそうだ。その学生は3回しか出席していなかったという。ならば彼はうそを言っている。そして暴言を吐いている。これは学生から教員に対するハラスメントだ。以前、中央大額の卒業生が教員を刺殺した事件があったことを思い出す。身の危険を感じさせるような言葉は、学生といえども懲戒対象となるのではないか。その学生は所属ゼミの教員に付き添ってもらって訪れたそうだ。だがこの暴言に対してその教員はそばで立ってみているだけだったという。このようなこと(暴言)が本当だったとしたら、学生の質が落ちてきた、ということではないか。例えば20年前に、このような暴言を吐く学生はいただろうか。これは社会全体の質の悪化でもあるのではないか。人間のつながりが壊れていく不安。砂状化する社会?それは社会ではない。2008年の秋葉原事件。少し前の池田小事件。これらは本人の特殊性もあるだろう。だが、人間は社会の反映でもある。子は親の鏡というが、人は社会の鏡でもあろう。鏡自体は自分であっても、そこに映るものは社会である。学生の質が落ちているとすれば、今の日本社会の質も落ちているのではないか。

 

(愚痴、悪口について)

気が置けない友人に、他人の悪口を聞いてもらう。これはよいことだろう。どんないやな気持ちも、心にためておくだけではよくない。内を壊すか他人を壊すかに向かうだろう。まず外に出す。すると少なくとも客観化される。不思議だが、人は、聞いてもらうだけで重荷の一部は減るようだ。そして再び上の社会のことに戻るが、こうしたことを聴いてもらえる友達、人がいることは大切なのだ。だが今の社会、時代に、そうした人たちが少なくなっているということはないだろうか。家族、友、親切な周りの人。どうだろうか。

 

2010・9・17

 

昨夜、一カ月ぶりの飲み会。U先生のアジア調査旅行の話。マレーシア、シンガポール、タイなどを訪問。とくにタイの活気がすごい。NHKのドキュメンタリーであった、日本の金型技術の移転。まさにあのような場面を見学した。確かにアジアは発展している。英語で通じる。1990年代に中国へ行ったときはそれほどでなかった。英語の通用力は大きい。どんどん大きくなっている。

振り返って日本は?落ち込む必要はない。だが、アジアも含め、いろいろな人の行動を見て、自分は、自分たちはどうすべきか、考えたい。

 

2011・1・14

 

今日は明日からの共通一次試験の前日で休講。大学全体はとても静か。

昨日はゼミが三つ、3年、4年、院、そしてその後院ゼミの新年会。これは忘年会も兼ねた。修士二年の三人、王、黄、蘇君の修論執筆に集中させるため、懇親会は待つこととなった。何とか無事提出。日本語は今回は椿君に大変お世話になった。よく頑張ってくれた、年末年始の時期に待機してもらい。あの第一次校正がないと、私の最終校閲は、そして12名の提出は間に合わなかったかもしれない。新年会の発言でも、早めに取り掛かるように、との交配への助言があった。

椿、婷両名の大変な準備のもと、楽しい新年会となった。キムチ鍋、和風魚鍋、鳥鍋、の三つ、刺身、津和野の銘酒各種たくさんの差し入れ。吉野君のお燗機。楽しい2時間だった。修士三年のうち王君は就職、他の二人は進路をもうしばらく検討。30歳前後という年齢や家庭を支えながらという条件など、いろいろなことをよく考えて決める。それが大切。

10時前にお開き。2時間半ほどで、準備、歓談、後片付けと完結。何名かはブリックで2次会に。私は健康に注意し、帰宅。とても楽しい新年会となった。(*^_^*)

(間に合わないといえば、学部4年のI君も、なかなか持ってこず、提出期限、時刻の2時間ほど前に持参し、内容の不足を発見。どうするか二人で焦って考え、結局残り時間で頑張ることとし、質はともかく、何とか提出。彼にもこれからへの戒めにしてもらいたい。きっとするだろう。)

 

2011・2・12

 

今朝は雪。みぞれ交じりの重い雪だ。かめ福まで歩き、そこから自転車で職場に来た。途中、右側の歩道件自転車道を進んでいると、右側の細い道からワゴン車がのろのろ動いてきた。そのままだと私と交差するので、当然そのワゴン車はいったん止まって私の通り過ぎるのを待つだろうと思い前進を続けていると、そのワゴン車は私にぶつかりかかってきた。私が見えていなかったようだ。雪が降っていたことと、また、そのワゴン車は大通りへ出てすぐ対向車線へ出て右側へ進みたかったのだろう、それで右側の自動車が切れ、左側も切れているように見え、早く行かねばと焦っていたのかもしれない。そこで私は無視され、あと30センチの所でぶつかるところだった。以前もそっくりの状況で一度ぶつかられ、右手ひじの骨を折るけがをした。その時私は車道の中央へ向かって投げだされたが、あの時すぐ後ろから車が来ていたらはねられていただろう。今度もそっくりの状況だった。自転車はで走るのは時に非常な危険が待っている。あのように不注意な運転手はこれからもいるだろう。あの場は向こうへ渡った車から中年男性らしい運転手がこちらを見ていたので私は睨みつけてやったが、事故になっていたらと思うとぞっとした。もし事故になって私がはねられ重傷を負ったらその運転手はどれくらいの×を受けるのだろう。もし軽い罰なら、運転手たちはこれからも人→自転車に対してあまり注意をする動機が強くならないまま、不注意な事故を続けてしまうだろう。将来の人間釈迦がどうなるかはともかく、現在の人間の状況では罰則を重くすることでこれを防ぐしかないだろう。

 

2011・3・24

 

読書感想。

『震度ゼロ』横山秀夫著。1995年の阪神大震災と時を同じくして起こったある警察署内部の事件。所内ではかなり上の地位にある、ある警察官の失踪をめぐって、所内で様々な人が様々に行動する様子を描いたもの。この様子が、警察内の人間関係を、キャリア組とノンキャリア組の間の溝、キャリア組内部の対立などとして描いている。新聞記者としての経験がある著者から見た、一種の警察内部のドキュメントとして読むこともできそうだ。

『極北クレーマー』海棠尊著。北海道の小さな私立病院が舞台。赴任した非常勤医師を主人公に、病院の存続をめぐって病院関係者(病院内部の人たち、また経営責任者としての市職員、市長)の言動を描いている。横山氏もそうだが、海棠氏も医師という現場をよく知った人。病院内部の人たちの気持ち、考えを臨場感を溢れさせて詳しく描いている。もちろん一人の人の目から描いたものだが、それでも少しこうした人間社会の内部、そこでの人々の気持ち、考えを知ることができた、読んでよかったと思わせる。(ならば、大学の人々についてもこうしたものを書くことは他の人たちに役立つ可能性がある。)

 

2011・10・20

 

前回からもう7カ月。昨日の飲み会。6人で開催。漫画の話。皆、自分の時代の漫画を持っているようだ。また、その力の大きさを認めている。絵で表現できることは文字が同じなら文字だけのものより強い(場合がある)。S先生。車で来られ、ウーロン茶を。赴任半年。お元気そうだ。M先生。足のその後がまだ完全でないようだ。今日は欠席。中国の話も、U先生から。広州の「食」の話。屋台風のとてもおいしい店。都市再開発はそれらを壊さなかったと。あっという間の2時間半。

帰り、警官に職質を受けた。スナックが12件あるところの店の前から懐中電灯で呼びかけられ、はじめは客引きと思い無視した。自転車の防犯ナンバーのチェック。今朝の正門前の立て看板にも自転車の盗難多発とあった。若い、何となく感じのよい警官だった。

 

2011・12・26

 

そしてもう師走の月。大晦日が近い日となった。ここ23日、強い寒波が来ている。昨日は雪が積もった。大学は静かだ。授業は先週の木曜で終わった。学生たちの多くは帰省しただろう。研究室の院生ゼミもその日で終わり、忘年会をした。畳の部屋なので少し体はきつかったが、また、あとから気がつくとたばこを吸う人もいたので、それもあとから思い出すときつかったが(その時はもう酔いが回り、気にならなかったが)、楽しく過ごせた。東京の王瑋璞君とも話した。陳さんは古川ゼミの人たちと台湾に行く予定という。良いことだ。中、台、若い人たちが交流することは。終了後、久しぶりにカラオケへ。若い人たちはリズムに乗って体を動かし、楽しそうだった。私は、15の、僕が、スロー、の三曲を歌ったと思う。二日続きの宴会で、翌日はスポーツ大会。(バドミントン。) 男子Wはきつかったが、混合Wは楽しめた。運動は楽しめるのが第一だろう。その意味では男子Bクラスで出るのはもう難しいかもしれない。三日目の今日も疲れが深部に少し残っているようだ。

 

1年生の基礎ゼミも先週の月曜日で終了。体育館前で鍋を料理した。女子6名は鍋につき、男子は中でハンドなどを楽しんだ。彼ら、彼女らが卒業する3年後はどんな就職状況だろう。今年は大震災、欧州通貨・財政危機があった。原発後の福島と周辺地域の問題はずっと続く。それでも原発はまだ動いている。大災害を心配しながら運転するより、少し生活を不便にしても、(と言ってもそれほどひどいものにはならないだろう)、安心して生きる方がより良いのではないか?

 

人間は、祖先が単細胞の生物として生まれ、それが変化し、今の形になったようだ。植物的時代があったとすれば、無機物と太陽エネルギーで生きていたのだろう。動物的時代になってからは他の動物、植物を捕食して生きている。この捕食は、採取から始まり、育成が加わった。そして今年は70億人を超えたという。今のような形の生物として、私たちには避けられない行動(たとえば、必ず食べねばならない)と、選べる行動(たとえば、結婚してもしなくても良い、とか、米を蒸すか、焼くか)がある。学生たちの就職も後者の一つだ。それは食うためだ。だがどのように食うかはいろいろな可能性がある。だから、それを予測して、1年生から考える。人間は考える。

 

2014・3・25

 

この間、この欄に書くことなく2年余りが過ぎたようだ。201213年と評議員を務めたので、そのせいか?

昨日は院生のYさんの送別会があった。まだ山口市では桜もほんの少しだけ咲き始めたところだが、Yさんは4月から1年間、岩手の宮古へ援助に行く。神奈川県が向こうの自治体の仕事を援助する人を採用しており、それに合格したとのこと。Yさんはもともと県庁で働いていたので、自治体の仕事はよくわかる。土地収用の仕事をするそうだ。津波の後、地域の復興の際、それぞれの土地の所有者と交渉しなければならないが、その場所に住んでいない人も多いようだ。交渉には人手がいるのだろう。

内モンゴルから帰ったC君は、フフホトの駅にも警官が多くいたと言った。新疆ウイグル自治区での情勢不安定のせいだろう。

 西安から帰ったNさんは、PM2.5が安全基準の50倍だと言った。かつての1970年代だったか、日本の光化学スモッグのような状況だろうか。

 東北部出身の朝鮮族のL君は、朝鮮族の父親と息子たちは一般に仲が悪いと言った。私が儒教の影響だろうかと尋ねると、返ってきた答えはそれを肯定するもののようだった。女性は男性より低く見られる。(また、年下は年長者よりも?)同様の話は北朝鮮の女性たちに関する新聞記事にもあった。日本もこれと似た時期が、そう遠い昔ではない時期にあったと思う。時代は変わるだろうが、今、そこではこうした問題がまだあるようだ。

 

 評議員の仕事が間もなく終わる。20067年と大学評価室長の兼務として務め、その後T学部長の時に2年間務め、そしてこの2年間務めた。すべての期間、学長は同じM氏だった。ただ、途中で学長の選挙があり、Ma氏が健康を害したので、いろいろあった末に、M氏がもう一期務めることとなった。この間、独立行政法人化した大学はK学長から始まり、M学長の二期8年間が過ぎた。だが日本経済の抱える財政問題の解決が優先され、国立大学をはじめとする大学一般への資金が絞られ続けた。それは同時に人員を絞ることでもあった。人もお金も減らすが、何とか工夫して教育は改善し、世界と戦えるグローバル人材を育てよ、と政府は言い続けてきた。このこと、つまり100メートル奏者に向かって、栄養は減らすが何とか頑張って新記録を作れ、というがごときことそれ自体は通常、矛盾すること、無理なことの要請だろうと思うのだが、雇用者と被用者の関係がそこにあり、それを受け入れる状態は続いている。

 

 ICPPの会議が始まり、次の環境対策が注目されている。地震と気候変動と温暖化。そして、地震と原発。人口増加と食料増産の限度。かたやこうした状況を見つつも、その中では市場競争に勝ち抜くことが強く求められ続けているこの状態。ここにも何か大きな矛盾がありそうだ。そして人間の協力関係をどう維持できるのか、下手をしたら弱めてしまいかねないとも危惧させる事件も続いているし、新しく起こってもいる。国内でも不安定な生活に不満を持っている少数者の暴発的犯罪、国外では集団的な暴力への訴え、パレスチナ、イスラエル、シリア、エジプト、ウクライナ、クリミア、タイ、等々。一つ一つ、人間は自分の問題を解決していきたい。

 

 2014・4・5

 昨夜はNさんの学部長退任記念飲み会。Saさんの呼びかけとのこと。Hさん、Siさんも参加。

 待ち合わせの7時の15分前に湯田に到着。寒い!花冷え。今日は急に冷え込んだ。Nさんの考えで松政のロビーでしばし。ペコロスの母に・・・の本のこと、Nさんのお母さんのこと。瑞穂で96歳、一人暮らし。近くに姉二人。一人は500メートルの距離、毎朝裏の畑に寄る。母、まだしっかりしている。もし弱くなったら施設に入ると言っているとのこと。

だんだん茶屋。しばし、医療経営コースの話。Nさん、Saさん、Siさんで。Siさんは現場にいる人。看護師も送りたい。それに対し、専門学校卒でも大丈夫との答え、Nさん、Saさんから。Siさん、喜ぶ。Tさん、Nさん、そして2,3年後にはKさんが運営に加わる。このコースは続けられる。

健康談議。私が、医者から見放されたがビールを飲んで回復した人の話をした。皆驚き、疑う。Siさん、チューハイの方がよい、と。水で薄めているので、と。説得力ありそう。ともに黒霧島を飲む。

Saさん、血圧の上が95と。酒を飲むと血管が広がり血圧が下がる。それでか、Saさん、あまり酒が好きではないとのこと。

Siさんは長野県のこともよく知っており、・・・ワンダーフォーゲルの経験あり・・・私と松本の話などで盛り上がる。

同じくSiさん、教育学部退任の方が今同所で働いている。障害者の送迎、お世話をする運転の仕事。本人は生き生きして働いているとのこと。私は退職後は図書館に通い詰めたい、という。いろいろな生き方がある。要は、生き生きとできるかどうか。

タクシーの運転手さん、若い人、とも楽しく会話。Siさんから聞いた話、毎年、4,5月は急性アル中で学生が運び込まれる、を話題に。私が、飲酒を18歳からにして、高校最後に、飲み方を教える教育をする、というのはどうかと提案。すぐにできるのは、大学で、希望者に、そのような飲み方を教えるオリエンテーションをすること。自分の限度を知っておくことはよい。

こういったことをよく覚えていることに驚いた。なぜか。いつもはもっと記憶が薄れるのだが。寒いことが影響している?

 

2014・6・17

土日と信州に帰省。父の七回忌。弟家族と合わせて10名がそろう。上山田温泉の清風園。1927年?創業の旅館。窓からは広々とした千曲川河川敷が見える。アユ釣りのシーズンが始まっている。元気に子どもたちがそろった姿を見て亡き父も天国で喜んでいるだろう、きっと。

人間は平和に協力し合って生活するのが最善だ。それでも自然の力には勝てないかもしれない。しかしそれでも人間同士が争わずに自然に対処するのが最善だ。だが、仲の良い家族間のひと時を過ごして帰ってくると、人間の協力の問題では心配なことが多い。個人間のことは個人が気をつけるしかないが、社会の心配ごとは関係する人たちが手を携えて解決するしかない。

心配事は、例えば日本の集団的自衛権行使を認めるか否かの問題、あるいは学校教育法・国立大学法人法の改正の問題がある。

前者は、日本の友好国が第三国と戦争状態に入ったとき、友好国を助けて日本も戦争に入るか否かという問題だ。世界では第二次世界大戦の後も時折戦争が起こってきた。朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、湾岸戦争、イラク戦争。日本は1960年から米国と安全保障条約を結んでいる。日本が攻められたら米国はその敵と戦う。代わりに日本は通常時から米国に基地を貸す、というものだ。第6条は米軍の基地は日本と極東の安全のために使用されるとしている。ただしこの文面では、極東とは言ってもその安全のためならば米軍が地球上のどこに出撃し行っても許される。

ベトナム戦争以降、日本駐留米軍は世界のあちこちに出撃してきた。だがそれが日本と極東の安全のためであったかといえば、ベトナム戦争でも、イラク戦争でも、その戦争が共産圏の拡大阻止のために行われたり、また、存在しない大量破壊兵器を破壊するために行われたりで、こうした出撃が本来の目的に合致していたかは大いに疑わしい。この点からは本条約、同盟関係自体の必要性、是非を考える必要が出てくるが・・・しかしこの点は日本では大きな議論とはなっていない。

とはいえ、日本はこれまでの米軍の戦争に関わって日本の兵士を外国で戦わせることはしなかった。それを日本国民は選んで来なかった。それはしないことを憲法は命じていると理解し、それに長い間従ってきた。

だが今、安部政権はこれを変えようとしている。他国の軍隊が、そしてそれはつまり米国のそれが、攻撃されたとき、そしてそれが日本の安全に深くかかわるものであると内閣が判断するとき、内閣は自衛隊にその敵に対する攻撃を命ずることができるようにしたい、というのである。

その理由は、どこかで戦争が起き、日本人を移送する米艦を守るためであり、または、別の場合に米軍とともにたたかうことで、いつか日本が攻撃されたときに米国に本気で日本を守ってもらうためである、という。

その可能性のある場所の一つに尖閣諸島があると言われる。日米安保条約は日本の施政下にあるある領域の日米いずれか一方に対する武力攻撃があったとき、共同で反撃する、とある。米軍基地は、日本から使用を許された区域にあり、当然、日本の施政下にある。米軍がある国と戦闘状態に入ったとき、その米軍が日本の基地から来ている時は、当然日本の米軍基地を攻撃する権利を持つ。そしてそれが行われた瞬間、日本の自衛隊は米軍とともに、その敵と戦う行動をとる。ただし、自国の憲法上の規定と手続きに従って。これは生死をともにする約束である。

そして、今問題となっているのは、この戦争行動を一歩(巨大な一歩)進める政策である。日本の兵力が、日本が攻撃されていないのにある国を攻撃することは、日本がその国に宣戦布告することである。自らその国に先制攻撃をすることである。それは当然相手国に日本に対する報復の権利を与える。仮に一発のミサイルであっても、それが引き起こす損失は膨大となりうる。それは、集団的自衛行動をとらない場合と比べて、かえって損失はより大きくなりうる。この危険を冒してまでそれをするのは、安部氏の理解では、いざというときに本当に、強い意志で、米軍が日本を守る気になってもらうためである、という。しかし、すでに上の時点で膨大な損失が、死傷者が、生まれうる。

安部氏は近年の情勢変化はそれを覚悟すべき状況を生んだという。韓国、中国との関係悪化、米国の弱まりなど。日本は野田政権から尖閣国有化をし、また安部政権下で靖国参拝をし、みずからこうした関係悪化を招いた。しかし、関係悪化は外交努力で改善するのが最善のはずである。だが悪化を招いた当事者としての安部政権はそれができない。逆にそれを情勢の悪化と言って今度はそれに対して戦闘モードを強めようとしている。いわゆるマッチ・ポンプ方式である。子供が火遊びをしているように見える。オバマ大統領さえこれに苦言を呈している。

中国は内政がうまくいっていない。地域によってはまるで内乱状態にさえ見える。習政権がそれを外に向けて発散させる誘惑にいつ負けるとも限らない。タカ派とタカ派がお互いを煽りあうのは危険な状況である。ここはまず安部政権にやめてもらい、もっと冷戦に情勢を見ることができる政権に、現在の事態に対処してもらうのが良いだろう。自民内のハト派はどうか?野党はどうか?

 

2015・2・11

 

そろそろ学年末のシーズン。4日前は4年生の卒論発表会後の懇親会(花菜)。昨日は3年生の劉さん送別会(一番どり)。どちらもお酒を飲みながら、なべや鳥料理を食べながら楽しく活発に懇談。

U君から就活方法の質問。今年は昨年より民間はもっと求人が増えるのではないか。合同説明会はいった方が良いか、先輩はあまり必要ないと言うが?大学主催の説明会はせっかく来てくれるということは取る気が強いということ。

劉さん、将来の夢を語ってくれた。国際弁護士。子供のころ周りでいじめをしている子たちに立ち向かった。その気持ちから。日本での経験はとても楽しかったとも。しかしやはりアメリカでの経験はまた大きく役立つだろう。K君、親の自営業を継ぐ。自分が行きたくなる居酒屋作りを目指す。友達でやる気のある人(9時―2時と言っていた)がいる。そんな人と一緒にやりたい。11店舗中黒字?は半分。中国への進出の話も、すぐに自分の店舗ということではないが、していた。しばらく前までは合弁でないと開業できなかったので中国人の名義を借りることも必要だった。パチンコ業界にも詳しい。友達にその経営者がいると言っていたか。射幸心をあおる仕組み。警察と業界の結び付き。開業時に顔が効くこと。N君、広島市役所。生まれ育ったところ、そして県議、参議院。六年間安定して仕事ができる。I君、不便さもあるが、地元で生活したい。S君、鹿児島県庁、島で育った、島嶼地域と本土との橋渡しの仕事をしたい。Y君、本学の職員、ここで仕事をしたい。三人は徳地で公務員試験合宿中。その最中を抜けてきた?すごい雪、写真を見せてくれた。

直前の午後は2時間ほど体育館で学生とバドミントン大会。太田、佐尾、加川、近藤、劉、そして飛び入り大久津、藤島、横山。劉さんが5勝で優勝。みんなにチョコレート。昼からでは3時間。さすがに疲れた。

4年の懇親会での会話はどうだったか?出てこない。いろいろ一生けん命話している姿は思い出せるのだが。すぐ書き残さないと。

U君から。N,H,Kの各先生は声が大きく、よく聞こえて印象に残る。良く分かる。声の大きさ、はっきりしゃべることは大切だ。

 

2015・10・10

C君の送別会。途中からB君も参加。送別と言っても正式な退学は来年3月だが、これからはフフホト、通遼に帰って仕事と論文書きをする。少し、新疆ウイグル自治区やチベットの話もする。民族がはっきりと存在する国。14億人。日本が15ぐらいある国。

K店長さんの話題もたくさん。本学出身で、歴史学専攻らしい。客を大切にする。

コース料理で2時間のところ、次の客が来るまで、と、延ばしてもらった。初めて油そばの店へも。

よく飲み、よく話した。これでまた元気が生まれた、と思う。

 

2015・10・10 No.2

戦争について。今も世界で殺し合いが続いている。シリアで。クリミアでもあった。アフリカでは南スーダンで大統領派、反大統領派の内戦が。東アジアでは朝鮮半島の問題と東、南シナ海の問題がある。アフガンではタリバンと政府側の内戦が続いている。イスラエルとバレス地なの問題もずっと続いている。米国はISを壊滅させると明言し、行動している。日本はそのcoalition nationsの一つに入っている。

これにどう対応するか?近くと、遠くの、組織的、国家的、疑似国家的な暴力の問題に

昨年来の安倍内閣による安保法制は、まず、自衛隊員に、また国民に、殺すこと、殺されることを国家が、つまり私たち自身が私たち自身に命じるものだ。そして自分たちが殺されそうになったときではないときにも、そうせよ、と新に命じるものだ。集団的自衛権という形と、国際的平和支援の新しい形と、で。

集団的自衛権では、そうしないと自分たちが殺される危険性がある時にそうせよ、と言う。これまでは違った。これまでは攻められたら反撃しかえす。これはよくわかる。その覚悟はある。だが、攻められていないけど、攻められると同じ被害が予想されるときに、ある国に攻撃を始めよ、というのは、どういうときなのか、よくわからない。ここが不明なので、私は本法案に反対した。新しい戦争をなぜしなければいけないのか。なぜ、殺し、殺される新しい事態に入らなければならないのか。それを明確に政府は説明できていない。それなのに、反対の国民が多数なのに、それを押し切って、自分たちは代表だから、とこれを決めた

まだ1国会、2国会かけて、国民を説得すべきだった。これは国民全員にとって最重要問題だ。代表者だけで決めてよい問題ではないと思う。(だが今のルールではそれができる。このルール自体も変えねばならない。しかし、今は、ルール内で行動するしかない。反対の声を、選挙で示すしかない。)

2017・6・3 土曜日

ひさびさに、1年半ぶりに書いている。特にこの25月は院生の博論指導で多忙だった。

昨日は7年生のM君が来訪。3月から税理士事務所で働いている。たくましくなっている!体重は55キロで、もっと太らねばというようなことを言っていたが、すでに、社会人の頼もしさのようなものを感じた。企業に助言をする力を身につけたい、と。

が、彼が45月とずっと事務所が多忙だったこと、やっと休みがとれたこと、を聞いて自分のこのころのそれと重なって共感した。ゼミに参加してもらい、おみやげのまんじゅうをMa君、F君、Sさん、T君と一緒にお茶を飲みながらいただく。トランプ大統領パリ協定離脱、佐伯啓思氏の脱成長の記事をめぐって意見交換。帰りにはろくの屋で替え玉を三つ食べた。彼は運転をして帰るので2個。

今朝、いつものように土曜休日出勤をしようと、朝食を済ませ、少しソファーで休んでいたら、・・・眠ってしまった。月―土と、昼に運動を続けているのでその疲労がたまっていたようだ。が、このように眠ってしまったのは珍しい。その後、昼からの出勤となった。

だがその時うとうとしながら見たNHKのテレビで「この世界の片隅で コトリンゴさんの音楽映画」というような番組を放映していた。悲しくてやりきれない、フォーククルセーダーズを彼女なりに、ゆっくりとして、静かな歌に変えた歌があった。確かに、何か、良い。あの映画の監督も、この歌がとても良かった、それで彼女に頼んだとのこと。番組の最後に、私たち一人一人に、どの片隅に生きている人にも、愛は宿る、というような言葉があった。こうの史代さんの。普通の人の愛。この映画が初めは63館、すぐに300館で上映、となったのも、その辺の共感なのだろう。きっと。

こうした、普通の人の共感。心の交流。それは何か、なぜか、私たちの心に染み入り、私たちを動かす。

 

2017 July 25

今日は725日。昨日U君より投稿論文が雑誌に掲載されることが決まった旨の連絡あり。Very Happy!これでこの間の気懸りが、心のどこか3割ぐらいの隅っこをずっと占めていたものが消えた。T君、S君も博士号を取ることはできた。やはり指導は厳しかった。だが今回はそれと違い、彼を引きうけるに至った経緯が、本研究科の落ち度が関わることだったので、ややもやもやした者が時折浮かんでくる指導であり、彼の努力の日々であった。時にそれが彼からやや激しい表現となって表出することもあった。…だが、今はそれが終わった。1年、彼の予定より遅れたが明日の最終審議で彼の、私たちの努力は報われる。ほっとしている。本当に。

さて、これで、この半年間あまり進まなかった研究を再開したい。特にこの夏の2ヶ月間は集中せねば。後期が始まると授業準備で相当の時間がとられる。今のうちに頑張っておきたい。