2 政府の「改革」の動きについて −感想

速報 200378日、国会、参議院文教科学委員会で同法案を可決。翌日、本会議で可決、成立。

残念 この法律に賛成できません。この法案には問題点がたくさんあり、それらは一つも修正されていないからです。

対応 この法律が近い将来、新たな国会審議によってなくなることを希望します。そのために、今回この法案に賛成した議員たちには私は次の選挙では落選してもらいたいです。また、この法案を提出させた、さらに提出した内閣と文科省官僚(大臣たち)にも早い時期の交代を希望します。それまでの間は、質疑応答の中での提案者の答弁に依拠して、できるだけその欠点を補うことが必要です。

投票結果 第156回国会 2003 7 9 果 http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/vote/156/156-0709-v001.htmより

案件名:日程第1 国立大学法人法案(内閣提出、衆議院送付) 参議院本会議

投票総数 232   賛成票 131   反対票 101

# 〇が賛成、●が反対

自由民主党・保守新党(116)             賛成票 109   反対票 0 

○阿南  一成 ○阿部  正俊 ○愛知  治郎               ○青木  幹雄 ○荒井  正吾 ○有馬  朗人 ○有村  治子     井上  吉夫

○泉   信也 ○ 市川  一朗 ○ 入澤   肇 ○ 岩井  國臣 ○岩城  光英 ○ 岩永  浩美 ○ 上杉  光弘 ○ 上野  公成

○魚住  汎英 ○ 小野  清子 ○ 尾辻  秀久 ○ 大島   慶久 ○大仁田  厚 ○ 大野 つや子 ○ 太田  豊秋 ○ 扇   千景

○岡田   広 ○ 加治屋 義人 ○ 加藤  紀文   加納  時男 ○狩野   安 ○ 景山 俊太郎 ○ 柏村  武昭 ○ 片山 虎之助

○金田  勝年 ○ 亀井  郁夫 ○ 河本  英典 ○ 木村   仁 ○岸   宏一 ○ 北岡  秀二 ○ 久世  公堯 ○ 沓掛  哲男

○国井  正幸 ○ 小泉  顕雄   小斉平 敏文 ○ 小林   温 ○後藤  博子 ○ 鴻池  祥肇 ○ 近藤   剛 ○ 佐々木 知子

○佐藤  昭郎 ○ 佐藤  泰三 ○ 斉藤  滋宣 ○ 斎藤  十朗 ○桜井   新 ○ 山東  昭子 ○ 清水 嘉与子 ○ 清水  達雄

○椎名  一保 ○ 陣内  孝雄 ○ 鈴木  政二 ○ 世耕  弘成 ○関谷  勝嗣 ○ 田浦   直 ○ 田中  直紀 ○ 田村  公平

○田村 耕太郎 ○ 伊達  忠一 ○ 竹山   裕 ○ 武見  敬三 ○谷川  秀善   段本  幸男 ○ 月原  茂皓 ○ 常田  享詳

○鶴保  庸介 ○ 中川  義雄 ○ 中島  啓雄 ○ 中島  眞人 ○中曽根 弘文 ○ 中原   爽 ○ 仲道  俊哉   西田  吉宏

○西銘 順志郎 ○ 野上 浩太郎 ○ 野沢  太三 ○ 野間   赳 ○南野 知惠子 ○ 橋本  聖子 ○ 服部 三男雄 ○ 林   芳正

○日出  英輔 ○ 福島 啓史郎 ○ 藤井  基之   保坂  三蔵 ○真鍋  賢二 ○ 舛添  要一 ○ 松谷 蒼一郎 ○ 松田  岩夫

○松村  龍二 ○ 松山  政司 ○ 三浦  一水 ○ 溝手  顕正 ○宮崎  秀樹 ○ 森下  博之 ○ 森田  次夫 ○ 森元  恒雄

○森山   裕 ○ 矢野  哲朗 ○ 山内  俊夫 ○ 山崎   力 ○山崎  正昭 ○ 山下  英利 ○ 山下  善彦 ○ 山本  一太

 吉田  博美 ○ 吉村 剛太郎 ○ 若林  正俊 ○ 脇   雅史                

公明党( 24) 賛成票 22   反対票 0

○ 荒木  清寛 ○ 魚住 裕一郎 ○ 加藤  修一 ○ 風間   昶 ○ 草川  昭三 ○ 木庭 健太郎 ○ 沢  たまき ○ 白浜  一良

  高野  博師 ○ 続   訓弘 ○ 鶴岡   洋   遠山  清彦 ○ 浜田 卓二郎 ○ 浜四津 敏子 ○ 日笠  勝之 ○ 弘友  和夫

○ 福本  潤一 ○ 松  あきら ○ 森本  晃司 ○ 山口 那津男 ○ 山下  栄一 ○ 山本  香苗 ○ 山本   保 ○ 渡辺  孝男

民主党・新緑風会( 60) 賛成票 0   反対票 57

 ●浅尾 慶一郎  ●朝日  俊弘   伊藤  基隆  ●池口  修次  ●今泉   昭  ●岩本   司  ●海野   徹  ●江田  五月

 ●江本  孟紀   小川  勝也  ●小川  敏夫  ●大塚  耕平  ●岡崎 トミ子  ●勝木  健司  ●神本 美恵子  ●川橋  幸子

 ●木俣  佳丈  ●北澤  俊美  ●郡司   彰  ●小林   元  ●輿石   東  ●佐藤  泰介  ●佐藤  道夫  ●佐藤  雄平

 ●齋藤   勁  ●櫻井   充  ●榛葉 賀津也  ●鈴木   寛  ●高嶋  良充  ●高橋  千秋  ●谷   博之   谷林  正昭

 ●千葉  景子  ●ツルネン マルテイ ●辻 泰弘  ●角田  義一  ●内藤  正光  ●直嶋  正行  ●中島  章夫  ●信田  邦雄

 ●羽田 雄一郎  ●長谷川  清  ●平田  健二  ●広中 和歌子  ●福山  哲郎  ●藤井  俊男  ●藤原  正司  ●堀   利和

 ●本田  良一  ●松井  孝治  ●円  より子  ●峰崎  直樹  ●簗瀬   進  ●柳田   稔  ●山下 八洲夫  ●山根  隆治

 ●山本  孝史  ●和田 ひろ子  ●若林  秀樹  ●藁科  滿治                

日本共産党( 20) 賛成票 0   反対票 20

 ●井上  哲士  ●井上  美代  ●池田  幹幸  ●市田  忠義  ●岩佐  恵美  ●緒方  靖夫  ●大沢  辰美  ●紙   智子

 ●小池   晃  ●小泉  親司  ●小林 美恵子  ●大門 実紀史  ●富樫  練三  ●西山 登紀子  ●畑野  君枝  ●八田 ひろ子

 ●林   紀子  ●宮本  岳志  ●吉岡  吉典  ●吉川  春子

国会改革連絡会(自由党・無所属の会( 14) 賛成票 0   反対票 13

 ●岩本  荘太  ●大江  康弘  ●島袋  宗康   田名部 匡省  ●田村  秀昭  ●高橋 紀世子  ●西岡  武夫  ●平野  貞夫

 ●平野  達男  ●広野 ただし   ●松岡 滿壽男  ●森 ゆうこ  ●山本  正和  ●渡辺  秀央        

社会民主党・護憲連合( 6) 賛成票 0   反対票 5

 ●大脇  雅子  ●大田  昌秀  ●田   英夫  ●福島  瑞穂   渕上  貞雄  ●又市  征治        

各派に属しない議員( 7) 賛成票 0   反対票

 ●大渕  絹子   倉田  寛之  ●黒岩  宇洋  ●椎名  素夫  ●中村  敦夫  ●西川 きよし  ●本岡  昭次    


2000・6月
 大学改革とは何だろう。大学のコアは教師と学生である。政治家ではない。正体不明の「国民の声」ではない。最近、こんなことを言いたくなるような、日本社会の雰囲気がある。教える教師と、学ぶ学生が本当に充実感の持てる大学になるなら、改革も賛成だが・・。しっかり考えねば。

  「地方大学」とは何だろう?たとえば東大も東京「地方」の一大学。いわゆる地方大学の教員もたまたまそこに仕事を見つけ定着した人が大半だろう。都会と比べ、長所も短所もある。もと文部大臣の有馬氏は「光るものはどこにいても光る」という。正しいと言いたいが、正しくないところもあるように思う。

2001・1・5 (1・23)
 昨日から冷えました。でも今日の天気はよし。明るい日差しが校舎を照らしている。今朝のニュースで大学の独立行政法人化の問題を伝えている。文部省はそれが既定方針であると。日本社会の大きな変化の流れの中でこの問題も動いていると思います。当事者の一人としてもしっかりと考えねば、どう対応すべきか考えねばと思います。事態は動きつつ流れつつある中で。それにしても、改革という言葉が肥大化して使われているような気がします。大学をよくする基本は、教師がしっかり研究し、それを学生に伝えることでしょう。ところが今の改革の動きは生き残りという言葉で大学を浮き足立たせ、時間を奪い、かえって大学の働きを弱めているように思います。

2001・1・25 BBC放送から(つぎの文は同サイトからの引用です。イギリスの大学では教師のなり手が減り、学生も減るだろう、と危惧されていることが述べられています。 http://news.bbc.co.uk/hi/english/education/newsid_1135000/1135215.stm
Wednesday, 24 January, 2001, 17:39 GMT
  'Crisis on horizon' in UK universities  The higher education sector is heading for crisis unless more young people can be recruited and retained in academia, a senior academic warns. Giving evidence to the Commons education select committee, Sir Michael Bett said the measures taken by the government to address the issue had been "more sticking plaster than strategic". In a few years time there will be too few of the right people in higher education, unless a remedy is found right now Sir Michael Bett Sir Michael - author of a landmark report on higher education pay and conditions - said the sector's teaching profession was due for an exodus in 2005, when academics of the 1960s retired. "There's a crisis on the horizon unless we get it right and bring the good young teachers and researchers through now, before 2005," he warned. "You really do have to make sure you've got the right people teaching the right people in higher education. "In a few years' time there will be too few of the right people in higher education, unless a remedy is found right now," Sir Michael said. Poor pay He also pointed to the problem of poor pay for academic staff. Mr Packham says academics' work has increased He cited the example of a lecturer, who - by the age of 28 - would have qualified and started on a salary of 18,000. He or she would compare themselves to their peers who had started on considerably more many years previously, Sir Michael said. "It's a daunting prospect for bright young students who would like to stay in academia - debt and relativity provide a disincentive." Changing role Giving evidence to the committee alongside Sir Michael, David Packham, registrar of Aston University, highlighted the growing pressures on academic staff. "Over the past 12 years student numbers in higher education have doubled," he said. The new universities, in particular, had embraced the idea of widening participation, Mr Packham said, which often meant students needed more support. Support staff in universities and colleges were also hard to retain, especially in areas such as information technology, which in turn added to the burden on academic staff. These key workers had suffered much of the brunt of efficiency savings, Sir Michael said, and should be paid more. Fear of debt On the broader point of student retention, Sir Michael told MPs there was not a culture in this country of young people building up debt. "It may be that elsewhere in the world this has become a way of life, but there is still, I think, a fairly puritanical streak here. Professor Beath views higher education as "a public investment" "For a lot of families the prospect of their son or daughter building up a debt of something like 10,000 to 12,000 by the age of 21 is a really daunting thing and will continue to contribute to the failure to retain." Professor John Beath, the Head of School of Social Sciences at the University of St Andrews, urged MPs to see higher education as "a public investment". "There are large public benefits that flow form higher education - they're much greater than the private benefits. "If people are having to borrow, they look only at the private benefits and the public benefits," Professor Beath said. Mr Packam pointed to the need for better information for prospective students. Some, from families with no history of sending their children to university, were put off because they thought they had to pay tuition fees, he said.



2001・7・14
    独法化反対の豊島氏に協力して、参院選候補者にアンケートを送ることを引き受けた。林、岩元、魚永の三氏に送る。
    日本の社会全体と、大学もその一部として、大きく揺れ動いている。

2001・7・31
    29日投票の参院選終わる。上の三候補からは返答なし。残念だった。それにしても有権者からの質問に対し、一片の回答もないとは少々不思議である。 (後にある候補者からは回答が届けられたはず、との連絡があった。だが届いていない!?)

2001・10・31  

国立大学  法人化はやはり誤りだ

 

国立大学の独立行政法人化の動きが進んでいる。だが、それは国民の利益になるものではない。

 中央省庁等改革基本法によれば、独立行政法人とは、政府の仕事であるが、自律性を持たせた法人による方が効率的に行うことができる仕事をする組織である。これは仕事の効率化と公務員数削減の二つを目的としている。政府の仕事のうち、現場的な部分はその組織を自律化させ、本省からの指示を減らしたほうが効率的に運営できる。また、外局化し、非公務員化すれば名目上の公務員の数も減らせるというのである。

 国立大学をこのような独法化の対象とするかどうかについては当初から議論があった。1997年の行革会議最終報告では、大学の自主性を尊重しつつ、研究・教育の質的向上を図ることをめざし、国立大学を独法化することが一つの選択肢とされた。だがすでに同年、当時の町村文部大臣が、独立行政法人は、定型的な業務にこそふさわしいし、組織もそれに応じた短期的で、効率性に重点を置いた運営がなされる、だが、大学の教育研究は長期的視点に立って、多様性をもつことを本質とするのであり、大学の教育研究にはなじまない、とこれを批判した。

 しかし、その後、国立大学も独法化せよとの圧力が政府内に強まった。文科省も本年6月にはこの方向を容認し、平成15年度に独立行政法人化を目ざす(国立大学法人化)という方向に踏み出した。

 だが、国立大学を独法化することは、やはり誤りである。その根拠は、何よりも上の文部大臣見解に示されている。大学の教育研究はまさに長期的視点に立ち、多様性を持つものである。大学で18年働いてきた経験から、この点に全く異論はない。そのような仕事が、短期性と効率性を主旨とする独立行政法人の業務と合うはずはない。

 大学で大切なのは、長期的な研究見通しと強い意欲に支えられた個性的、自主的な研究であり、それを学生に伝える喜びとしての教育である。その意味で私たちは自らを、独法化で期待されているような企業的存在とは思わない。大学の任務は、日本社会、人類社会の共通の課題を解決していくことであり、それは社会の共通基盤を強化する営みであると考える。

 この基本点を無視した国立大学の独法化の動きは、結局のところ、公務員数削減のみを狙ったものであり、結果として国立大学の本来の役割を歪めるものと言わざるを得ない。それは企業間競争的な短期的視点からの教育と研究という、学問の矮小化の道に大学を引き込むものとなろう。

 国立大学はこれまで、安い授業料によって、貧しい家庭の子弟にも教育の機会を保証する役割、私学のように経営要因に左右されずに国全体の教育、研究のバランスをとる役割を担ってきた。だが、独法化によって、授業料の学部間格差、基礎的研究部門の軽視・切り捨て、都市と地方の間の大学間格差の一層の拡大が生ずるであろうことが強く懸念されている。真に国民のための大学、高等教育を作っていくために、今必要なのは、高騰しつづける授業料を国公私とも安くすること、そしてそのことも含め、国家財政に占める、欧米に比べて半分の水準しかない高等教育費への公的支出を増やすことであろう。政府に再考を求めたい。


2001・11・13 文部大臣への手紙

 

 文部大臣 遠山敦子殿  (山口大学 経済学部教授 塚田広人)

 このメールが大臣に届くことを祈って。

 初めてお便りいたします。私は山口大学経済学部に勤務しております塚田と申します。

 大学改革と私たちの仕事の関係について一言申し述べたく、このメールを差し上げま
す。

 この何年か、そして特にこの半年ほど、大学改革の動きが激しく進んでおります。その
改革のための議論の中で、残念なことではありますが、私たち教官の本来の仕事、教育と研
究のための時間がどんどん少なくなっております。私は学部長や学長ほどのポストにいな
いのですが、学部長などはなおさらと推察します。

 大学の教官は、研究をし、その成果を学生に教えるのが任務と思い、そのことを第一に
これまでの18年間仕事をしてきたつもりです。教育も、研究も、そのどちらも、時間はど
れだけあっても足りないほどです。特に大学での研究は、人類の知識に加えられるような
何か新しいものを生み出していこうとする以上、広く、深く、じっくり、しっかり行う必
要があります。

 これまでの先輩たちは、なんとか教育と研究と学内行政をやりくりできてきたようです
が、ここ数年、「改革」の動きの激しさの中で、私たちの研究と教育は、どんどんそのた
めの会議と資料作りに細切れにされているといっても過言ではないと思います。非常に残
念です。私の同僚たちを見ても、もっと本来の仕事である研究と教育、彼らが一生をそれ
に打ち込もうとこの職を選んだそれぞれの研究テーマに打ち込ませてもらえれば、日本の
経済と社会のために(私の学部は経済学部ですから)役立つ成果をもっとあげられるであ
ろうに、と思います。非常に残念です。

 なにごとも改善されることに異論はありませんが、これほどまでに本来の仕事が脇に置
かれざるを得ないほどに、時間をとる「大学改革」に対しては、・・それを軽く扱うつも
りは毛頭ありませんが・・、まじめに考えようとすればするほど、複雑な思いが湧いてき
ます。

 大臣以下、文部省の官僚諸兄と異なり、私たちには行政の仕事は教育と研究に次ぐ第三
の仕事であります。
 多くの大学教官は今、このような、本来の仕事に時間を十分に裂くことができないこと
から来るつらい気持ちの中で、改革の議論に参加していることも、どうかご理解下さい。

 塚田拝

 

→付記:2002・5・22 その後の状況

 

 昨日の全学の会議である教官が述べた。「ここ1、2年は全く教育と研究はできていない。すべてその委員会の委員長としての仕事で終わっている。この私語があと1年で終わるのが今何よりの楽しみである」と。これは他の同様の位置にある人も同じだろう。大学では教育と研究と行政の仕事は混乱、混在している。はっきりと分けてできるのは、つまり給与を堂々と行政の仕事のみに対してもらっているのは学長ぐらいだろう。副学長、学部長も配慮は行われつつあるようだが、それでも教育と研究と兼ねながらやっている。

 この曖昧さは何とかせねばいけない。行政に関わる人をはっきり分けて、その年は行政だけ、あるいは勤務時間の何割は行政、と決める、とか、または、教育と研究と十分兼ねることができるような新しいやり方をあみだす、か、このどちらかでないといけない。今のままではいけない。

 根本は、今私たち大学人は本来すべき以上に行政関連の仕事を押し付けられていると思う。文部省から、政府から。

大学とは行政の一部ではない。そうであるとしても学問の継承、発展という非常に特殊な仕事を受け持つそれである。今、大学はますます行政府の一部として、他の一般官庁に近づくような色合いを強めさせられている。これでは学問が衰退するのではないか。現にこうして貴重な才能が多く浪費されている現状を見ると。このような政府主導の「大学改革」なしに、従来どおりに学問に打ち込ませていれば、この「改革」がもたらす「よい結果」以上のものが生み出されるのではないかとふと思う。このような疑問、「今の改革はやりすぎであり、改善が必要であるとしても、もっと小規模なそれで十分ではないか」、との疑問は大学教官の多くが、多分7,8割以上が持っているのではないか。この疑問が荒唐無稽なものでなければ、このような二つの場合の利益の比較較量を文部省、政府は行った上でこの改革に取り組んでいるのか?そうでないならば、今の私たちの行動は貴重な社会の資源を無駄遣いしている可能性がある。

そもそも大学改革の出発点が、曖昧な「国民からの批判」であった。それがどのような根拠のある批判なのか、私は寡聞にして知らない。どのような説得的な、説得的でなくとも明示された、批判資料があるのか、見たことはない。なにごとも出発点が大切だが、ましては社会の改革となればそれこそそれが大切なのに、その出発点が曖昧なのだ。何が改善すべき点なのか、それが不明なのだ。もちろん、個々に改善すべき点はある。どのような組織でもそれはあるだろう。だが、そのような普遍的な「弱み」につけ込んで、あたかも組織全体が大改革をせねばいけないのだ、と脅し、それを強制するのは、不当な行動である。それは結果としても無駄な「改革」を強制しているだけに終わる危険性がある。


 

 2002・4・3 国公私の大学について

 

 細井克彦氏の論稿を読んだ(表紙ページ参照)。国公私の関係について考えさせられる。教員についていえば、私たちは、たまたまある大学に採用される。ポストが空くかどうかが第一条件なので、それが国立でも私立でもかまわない。大きくても小さくても、あまりかまわない。だが、いま、その、大きいか小さいか、有名か否か、が大きな問題になっている。

 現に山口県でも、東亜大学、徳山大学、萩国際大学などは定員割れを起こしている。経営が苦しくなっている。縮小均衡によって、教員は職を失う恐れがある。だが、上のような採用のされ方を振り返ると、いま国立にいるとはいえ、人ごととは思えない。(国立大学にしても、仮にある大学が定員割れで教職員削減となるとき、各法人は独立法人とすれば、自力で対処せねばならない。すると、ある学部をなくすなどのときは、教職員の首を切ることになるのか?)

 いま、全大学を国立化してしまうと、上のようなことは起こりにくくなる(配転で済む)であろう。

 

 2002・5・16 研究評価と授業料 国立大学法人化 国公私

 

 横浜国立大学の学長の、独法化(国立大学法人化)に関する発言を読んだ。研究評価と授業料に対する懸念が述べられている。きちんとした評価ができないのではとの懸念、そして授業料を上げざるを得なくなるのでは、との懸念。日本の授業料は今でも高いのに、これを高い方の私学に合わせて引き上げる結果となるのであれば、そしてそれは独法化後の運営交付金を減らすことでまさに生じるかもしれないことなのだが、ますます国民の間の格差が広がってしまうだろう。今、所得格差が、そしてその裏腹として学歴格差が固定化し(齋藤何某?氏)、また、広がりつつあるという。それをさらに加速する社会とならないか?又、「小中のゆとり教育」で、かなり私学との間の授業時間格差が広がる。ゆとりはよいことだが、私学がそれと違った道を採れば、これは格差拡大の道になる。それは大学への進学率の格差を生む可能性が大きい。それを放置すれば、私学出身のエリートとその他大勢の大衆、といった社会となる。こんなことは日本で起こるとは思いたくないが、実際に政府がやりつつあることはその結果につながっていくのではないかと恐れる。彼らはその点を予想できていないのか?それとも、予想していて、確信犯的に、つまりはそのような二層社会を作ろうとしているのだろうか?

 

 多くの大学改革の項目が、本学、本学部で実践されつつある。教育についてはすでにかなり(FD研修、学生の授業評価、フレッシュマンセミナー、等々)、行政(学長の権限強化、独法化に向けてそれがさらに強まりそう)、そして研究についても徐々に(独法化に伴って、文部省内の「第三者評価」が進みつつある)。それとともに、独法化で予算が大きく変わりそうである。予算どころか、大学全体のあり方が。やはり国民の視点から一番心配なのは、授業料が高くなることである。あるだろう。これだけはまず防がねばならない。そして、国民に必要な大学教育が安定して続けていけるような仕組みを持ちつづけねばならない。一県一国立大学、ははたして維持されるのか?国立でないにしても、公的な大学、経営に左右されない大学が維持されて行くのか?維持される方向で大学を存続させる必要がある。絶対にある。間違っても、研究者、学生の知的資源が無駄に使われることのないように、今回の長期不況のように、最大の無駄としての大量遊休資源(人、自然、金)を生み出してしまうことのないように、(何といっても、政府は経済面ではこうした大失敗を防ぐことができなかったという経歴を持つのだから!)私たち当事者がそれを守り、作っていかねば。それにしても、そのための青写真が必要だ。以前の辻下氏の提案はかなり説得的であったが、どうか?

 

 今後競争的となる国立大学への資金配分について、(これも、私学から見れば、まだまだ国立偏重だと見えるだろう。たしかに、国公私間に仕事内容、つまり教育、研究をするという差はないのだから、資金は本当は平等に出すべきだろう。すべて国公立化してしまえば良い、希望する大学は。教育とはそもそも公的なものなのだ。もっと出すべきなのだ。そもそも、国民の高まる教育需要に対して、自分で大学を増設せずにそれを私学に任せてきたところに、政府の誤りがあったのだ、今にしてみれば。そして、卒業生の水準がある水準以下のところには出さないということもありうる。)今のところは、自分の大学が、文部省、政府から低く評価されて、今後弾力的となる運営資金配布からこぼれおちていかないように、確かにそのための努力は必要である。だが、それはこれまで私たちがやってきたことなのだ。これまでとそれほど変わるわけではない。それを整理し、目に見える形で評価者に示せばよいことである。できることはできる。できないことはできない。それにしても、上の横国学長の懸念、ちゃんとそれを評価できるのか、又、目標設定の場面で、大学の学問内容に時の政府が口を出し、それをゆがめるといったことが格段に増えるのではないか、という点が心配だ。それが起こりそうなときはそれを変えさせねば。(昨日のM先生の発言、大学外の成績を大学で単位として評価することは反対だ、というのは感覚的にわかる。大学とは何をするところか、それが曖昧になりつつあるとすれば、それは私たちの足元を揺るがすことになる。大学方の教育機関と協力しながら、さらに形態を変え、全体として研究、教育が発展して行くのはよいことだ。だが、本当にそうなるのであるように、あまり急ぎすぎて失敗を重ねないよう似せねばならない。)

 

 本学、また学部では今法科大学院構想が進んでいる。果たして単独でここに作れるか、あるいは連合ではどうか、両方同時に検討を進めねば、単独でだめとなったとき、もはや遅いということはないか。そういった細かな点でのわからないことはあるが、法曹人口の必要性は国民としては納得できる。それがこの地に作れるのなら、歓迎すべきことだ。ただ、それが経済学部の他の部門のあり方と抵触するとき、つまり、他の部門の人を食ってそれを作らねばならぬときは、しっかりとした全体像の検討が必要だ。

 

 2002・11・9

 

 「本学部の定員は多すぎる。基準は国民の希望する大学生の知的水準だ。今の大学のそれはやや低すぎるのではないか。定員385人を300人ほどに減らすのがよいのではないか。つまり7-8割に減らすわけだ。その分、高卒で専門の技能を身につけるほうがよいのではないか。これから団塊の世代の教官が短期間に多数退職する。そのとき、教官定員をすべて埋めずに返上し、あわせて学生定員も減らすのがよいのではないか。」という意見がある。共感できる気がする。

 

 2003・5・16

 

 衆議院文部科学委員会、国立大学法案の審議:

 

質問者

 

中期計画はよすべし。大学が暗くなる。学長、教職員は、文科省の役人より頭がよい。自由裁量に任すべし。大臣がはんこを押す必要はない。

 

 労働安全への対策が未達成のまま法人化するのでは?予算はあるのか?いつまでにできるのか?→答弁:これから対応する。

これで法律を認めよというのは違法行為を助けよということ。(このような審議で法律が決まる!)

 

 

2003725

 

朝日新聞 社会部 長谷川玲記者宛て 

 

721日付の貴兄の記事「自立に向け意識改革を 法人化される国立大学」について

 

貴兄の主張は次のようにまとめられると思われます。

 

第一に、最大の論点としての文科大臣が中期目標を定めることについては、統制が強まるという意見は理解できない。

第二に、その理由は、不当な介入には抵抗をすればよいのだからである。

第三に、それゆえに、いまだくすぶりつづけている反対論には違和感がある。

 

この主張を凝縮すると、どんな法案が通っても、不当だと思えば抵抗すればよいのだから、反対を続けるのは誤りだ、となります。

 

私見

 

前段の、通ったあとは抵抗が必要だというのはそのとおりと思います。

文科大臣が中期目標を定めるとの規定は、貴兄が挙げておられる、大学法人法案の是非に対する判断基準としての学問の自由、大学自治という原則に対して、これを否定するものであることは明らかです。よって、この法律を根拠とした介入に対して抵抗することは大切なことです。

 

しかし、後段の、反対を続けるのが誤りだという部分は誤りではないでしょうか。

悪法のマイナス面が現実化するのをできるだけ減らすのが抵抗することだとすると、反対を続けるのはそのような悪法を撤廃するために行動することでしょう。

しかし、貴兄は、対症療法には賛成だが、根治両方には反対だ、と述べているように私には見えます。この論理展開には矛盾があるのではありませんか?

(この論理展開の矛盾が、記事全体の色調にも反映されているような気がします。)

 

私のこの理解が誤っていればよいと思いますが、もし上のような理解が正しいとご判断されるのであれば、その場合には訂正記事を載せることも含めてご一考くださりたく、お願い申し上げます。

 

 

2003725

 

                                                              山口大学経済学部教授

                                                              塚田広人



 

 

2005年1月7日 法人化後、新年を迎えて

 

1)今回の法人化の動きはなぜ起こったか?

 

1 公務員定数削減 つまり財政上の数あわせから生じた。→公務員から非公務員へ。

2 不況対策 つまり経済政策上の要請から生じた。→理系の成果を企業活動に応用する。

 

 2)今後予測される動きは?

 

1 国公私への財政措置の平準化 法人化でCEO、競争的経費、在外研究制度は平準化された。次は一層の財政措置一般の平準化か?つまり、国公私の区別を無くす方向へ?

 

 3)実質的な影響はどうだったか?

 

1 教育・研究へのマイナス 移行準備と移行後の仕事の増加(とくに事後評価=「そのための説明責任」の登場によって、評価に対する仕事が大きく増えた。) これは教育、研究のための仕事を減らした差し引けば、大学の本来の仕事にとってマイナスである。(評価を詳しくしようとすればいくらでも評価項目は増やせる。それは終わることがない。評価のみを目的とすればそれは「改善」だが、大学の本来の仕事、一番大切な仕事である教育と研究にはマイナスである。)

 

 4)改善の方向は何か?

 

1 本来、大学運営は公的資金でまかなうべきだ。アメリカでさえ、州立が大部分だ。高度成長期に国が財政資金を出し渋り、私学に任せたのが悪かった。当時の国会答弁のように、授業料無償化にむけて、全大学を公的資金で見るべきだ。私学の独自性があるから出せないとの意見もあった(橋本元総理)が、それは根拠が乏しい。実質的に国公私の教育、研究内容に違いはない。

 

2005年4月15日 大学に求めるもの:就職と道と                             

 

 学生が求めるもの。それは、就職先。これも確かだろう。アンケートなどにもそう表れるだろう。だが、もう一つ、「自分の人生の行動基準を手に入れること」もあるだろう。これは高校までで手に入れている人もいるだろう。しかし、まだの人が多いだろう。それを大学時代に手に入れたい、そう思っている人が多いだろう。

 孔子の「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可也」の、「道」である。これを求めて人は生きているといってもよい。大学は、それを考えることができるところだ。また、考えるべきところだろう。

 学問をするところだ、大学は。これは皆が認めることだろう。この学問とは、究極的には、どう生きたらよいか、を知ることだろう。その目的と手段の関係をできるだけ多く知ることだろう。人間が目指すもの、そのために目指すもの、そのために目指すもの、の連鎖を知ることである。

 貧すれば鈍する、これは貧乏になれば頭の働きが悪くなる、また品性が卑しくなる、の意味だそうだ。大学が、今不況の中で、財政が厳しくなっているとき、自己の生き残りのために、上の二つの目的のうち、就職だけを目指して行動するとすれば、それはまさに「鈍している」状況といえないか。それは逆にその大学の自殺行為にならないか。

 

 2005年6月29日 大学の進路 ・・・国立を減らし、授業料をもっと上げる?その逆であるべきだ。

 

 先週の土曜日に広島大学の佐藤清隆氏の後援を聞いた。国立大学の独法化で、財政面で兵糧攻めにあっている国立大学は、このままでは、いくつかが合併する方向、全体としては減る方向に進まざるを得ないだろうとのこと。これに道州制の議論が加わる可能性がある。たとえば、中国地方では五つもいらない。どことどこで合併し、どことどこは残し、どこは無くす、そうすれば国家財政は助かる、といった議論である。これをどう考えるべきか。それは、つまりは、国立大学はどれだけの数で存在すべきか、という問題である。戦後60年ほど、一県一総合大学が作られ、維持されてきた。国民がどこに住んでいても通学しやすいこと。また、地域の課題に答えること。この二つがその目的だったのだろう。今、国立大学を平均すると、自宅通学生は33%いるそうだ()。この数字を見ると、各県に大学があることが国民全体の大学進学の機会を平等化するのを助けているといえる。また、地域の課題に答えることについては、地方大学のある県、市町村などの審議会員などへの協力、また、公開講座による近隣住民への教育機会の拡大などの役立ちがある。()http://www.gk.ofc.kyushu-u.ac.jp/gkseikatu/gkresearch/pp22-30%E7%AC%AC4%E7%AB%A0%E4%BD%8F%E5%B1%85%E9%80%9A%E5%AD%A6%E7%8A%B6%E6%B3%81.pdf

 だが、それでも政府、あるいは国会議員にはその数を減らせと考える人がいるようだ。そのように考える人は、おそらく私学出身者が多いだろう。だが、私学出身者は平均して裕福な家庭出身者が多いだろう。すると、上のような国立大学の利点をよく知らない、あるいは感じられない人々と言うことになる。とはいえ、国立大学の授業料はすでに安い私学文系に近づいている。その6、7割ぐらいにはなっている。これは本来、授業料を撤廃する方向に進むとかつて宣言した日本国政府の立場からは誤ったことだ。今財政が厳しいからやむなく行っていることであるはずであって、それが緩和されれば、授業料は、国立も私立もどんどん安くし、ゼロに近づけていくべきである。さらに、どの地方大学も優れた大学にすれば、国民の子弟は、皆地方大学に進学できる。わざわざ都会の大学に進まなくても良くなる。これには、しかし、大学のそれぞれの歴史と財政力の違いなどがあり、優秀な研究者が裕福な、つまりは都会の大学に引き抜かれやすいと言う問題も若干はある。だが、それも、財政措置によってかなりの程度改善できるだろう。

 本来の方向はこのように、どこも優れた大学になれるように育てるべきだ。

 

 2006623日 独立行政法人化後、2年と3ヶ月。

 

 角を矯めて牛を殺す。現在の本学の状況を思うとこんな諺が浮かんでしまう。現状をこんなふうに形容するのは誤っているかもしれない。しかし、このように思ってしまうところがあるというのは何かそれなりの要素があるのではないか?一番感じるのは、本を読み、学生に教えるという、大学の中心がぐらつているのではないかという危惧だ。多くの教員は、忙しすぎるといって落ち着かない表情だ。私の接する人たちはみなそうだ。だが私の接触範囲が偏っているのかもしれない。大学全体で調査すべきではないか?本をしっかり読み(しっかり実験し)、知の発見をし、それをわかりやすく学生に教える。そのためには時間がいる。

だが、上の接触範囲の人たちにはその時間がない!では何をしているのか?様々な「大学運営」の仕事だ。私なら「自己評価」の仕事だ。何をしているか、記録をつけ、国民にわかるように整理して説明しなさいという。もっともだ。だが、それで研究と教育がみすぼらしくなったら本末転倒だ。現在の本学では、関係する数十名の人が主にその負担を担っている。だがそれらの人が研究と教育に打ち込む方が、こうした「説明責任」よりも大事ではないか?

おなじことが法人化前から他の分野でも起こっていた。教養教育の改革、個性化のため組織の改廃、国際的に見劣りしない養育のため、カリキュラム改革。学生減、生涯学習要望の増に備えて大学院の定員増。もっともなことも多い。だが、それは私たちの身を削るだけの、遺産を食いつぶすだけの犠牲のもとで進んでいるだけではないか?こうした改革を担っているのは40代から50代の教員で、それなりの蓄積がある年代だ。だが、彼らがさらに花開く年に、こうした、研究と教育の現場から離す課題を果たさせることは、鶴の恩返しのおつうのような状況を作っていることと同じではないか?蓄積を食いつぶし、何か新しいもの、きれいな建物を作っているかに見えるが、実はその地面の下は空洞になっているという状況。

このような危惧がある。これが現実ではないことを祈る。

 

 2006725日 事務職員と大学

 

 昨日話した事務職員の方も、昭和60年(1985年)頃から、大学の事務の仕事が非常に忙しくなってきたと言った。現在、2006年時点では、もう限度近くまで来ており、さらにこれが後12ランク強まると、もうとてもできないと言うことになり、こうしたやり方を変えざるを得なくなるだろうとのことだった。

 教員も、職員も、ぎりぎりまで来ているのだ。その原因は政府という上司の、現場を無視した押しつけにあると思う。その結果、成果も上がっていないのではないか。教育と研究に打ち込むことができるのが大学なのに、教員も事務職員も誰もが忙しく、本来の仕事に打ち込めない状況にある。これが問題の8割。

ただ、事務職員について言えば、全てがそうだというわけではないとも言った。つまり仕事の再配置で過労を防ぐことができる余地がまだ少しはあるということだろう。これは教員の間でも同様と思う。教育研究、そして運営。この運営の負担が一部の人に過重にかかっていると思う。これを大学執行部は重視して対応すべきだ。これが問題の2割。

 評価の仕事(全学的自己点検評価)も、この点、全体の仕事量と、教育、研究、大学運営、社会貢献などの間のバランスをしっかり見ることで、この問題の解決に資するものとなってほしい。

 

 200743日 評価室の仕事と教育・研究

 

 室長となって1年が過ぎた。少しずつ身体の心配が出てくる年になったが、何とかここまで来た。しかし、早くもとの教育と研究に戻りたい。戻るべきであると思う。この仕事はそれなりの意義はあると思って引き受けた。思いの外仕事時間のほとんどを取ることとなったのには驚いたが。だが、意義はある。山口大学が存続することの一助、といってもそれが自己目的なのではなく、本来、そこにいる人たちは、教員も職員もそれなりの高い能力はあるのだから、それにふさわしい仕事が存続することは社会とそこで働く個人のためになる。よい大学として存続すれば、近辺から来る学生たちの経済的負担も軽くなる。だから、不当評価されないように、本来の姿が、社会に正当に評価されることだ。これが評価の、また評価室の意義であろう。

 しかし、それを担う人は、本来は、定年後の人が望ましい。もっと言えば、定年で、教育と研究の能力は落ちたが、大学運営の能力はまだ十分ある人たちに任せるのがよい。彼らは経験があるのでよい。現役、私も含めて、がこうした役をしていると、肝心の教育と研究が手薄になる。それこそ私たちが全力を注ぐべきものなのに。大学はそれを第一に望まれているはずだ。

 というわけで、来年3月末を持って、この役を終えることができるように望む。そして、本来の、現在の私の研究テーマである福祉国家の行方、あり方を研究し、それを学生に教えられるようでありたい。

 

 2008526日 関西大学、O先生と

 

 2年余の室長の任務が15日に終わり、11日目。M先生も大学の某センター長の任務が3月に終わり、その後はしばらくリハビリ中との表現をされたと思うが、自分も終わってみると、この期間はそのようなものに感ずる。(できれば1カ月、せめて2週間ほど休暇をとるのがよかったかもしれない。)確かに任期末のころはかなり室長のためのエネルギーも枯渇しつつあったように感じたが、今思うと本当にそうだったのかもしれない。「リハビリ中」の今、疲れを少しづつ癒しつつあるところと感ずる。一昨日の学会出張後も、日曜日はちひろ展を見に行った後、綿のように疲れて感じた。あと12週間で体力、気力も100%に戻るような気がする。

 関学の状況、山大の状況、いろいろ意見交換ができた。私立は建物を新しくすることが経営上非常に重要とのこと。国立は学費の安さで引きつけているところが大きい。そして共通の感想は、「大学とはこのように経営ばかりを重視するところであったのか」という嘆きであった。国立は法人運営費を減らされ、私学は私学助成金を減らされた。お金のことを気にしだすと、学問に集中できない。教員・研究者も学生も同じである。学生はアルバイトに時間を多く使わねばならず、教員は学生集めに奔走せねばならない。

 今の日本の大学は、かつての大学より、「学問の府」としては、質が劣っているのではないか。こんな懸念が私にはある。そしておそらく、現場の教員の89割はそう思っているのではないか。

 

 2008・8・20 本学学長の見解 大学の予算について

 

 今日付けの学長メールマガジンによると、次のとおりである。私立大学の4割が定員割れとなっているが、国立大学は予算を減らされることによって、その働きが弱まりつつある。学長たちはそれこそ本当に国立大学の機能が大きく低下することを心配している。私もそこでの一教員としてそれを感じつつある。私は文型でそれほど大きな予算を必要としないので、その切迫度はまだ低いのだが、それでも本を買う予算が減ってきたことを問題と感じている。また、むしろ私がもっとも切実に感じるのは、政府の行う改革が的外れなものが多いこと、その最大のものは大学に無用な事務、書類作成を求め、大学にもっとも必要な「時間」を奪っていることである。下にもあるが、財務省をはじめ、他の省庁でもおそらく、そのことが、また、予算削減の影響が、よくわかっていないのだろう。もっと切実に訴える必要がある、大学も。マスコミに、街頭で。政府、つまり省庁の公務員と議員たちは物事、社会の実態をあまりわかっていない。せいぜい自分の詳しい小分野のみである。これに対抗するにはいろいろな分野で、その実態を声を上げて彼らに伝えることである。

 

 ■ 国立大学協会 理事会における話題

 

  「教育振興基本法」の中に教育支援の数値目標を入れるように,文部科学省と国立大学協会が協力して財務省と交渉してきましたが,最

 終的には数値目標は記載されませんでした。国立大学協会の理事として私も要望書の提出や協議に関わってきましたが,その過程で感じた

 ことは,財務省は法人化後の国立大学の教育・研究の現状と実態についての理解や,大学間格差の増大に関する認識が極めて低く,協議は

 かみ合わないままに終わったという状況でした。

  国立大学協会としては,運営費交付金の増額を要望するのみでは状況改善は極めて厳しいことから,多方面からの対策を講じるとともに,

 実状を政財界や社会に対してしっかり広報することを確認しました。まず,大学に対する個人からの寄附金の所得税控除改善,及び相続財

 産を大学に寄付していただいた際の税控除についての要望書を提出しました。 

 

  中期目標・計画ll期(平成22年〜27年度)の運営費交付金の配分について,文部科学省は,l期の教育・研究の実績を学部ごとに評価し

 て,交付金の配分額に差を付ける方針で,大学一律に年1%削減する現行制度を見直すことを検討しています。平成23年度まで運営費交付

 金の年1%削減はほぼ間違いなく実施される予定で,このことだけでも大学運営は厳しいのですが,ll期目に配分額が減るようなことにな

 れば大変困ったことになることは間違いありません。山口大学でも最悪の事態に備えておく必要があります。未定のことも多々あり,確実

 な方針を立てることは難しい状況ですが,今のままではどうしようもならなくなる事態が生じるのは間違いないと思われます。

  ここまで原稿を書いたところで,政府の臨時閣議において,医師不足や環境問題への対応に必要な経費,約3,300億円の捻出財源を作るた

 め,国立大学の運営費交付金や私立大学の補助金を2%上乗せして平成21年度に削減することが決定されました。1%削減でも大きな影響

 を被っているところですが,もし3%の削減となりますと,大学運営の根幹をもゆるがしかねない大問題になることは明らかです。

  国立大学協会としましては,この方針に対する憂慮と反対のための「緊急アピール」を政府及び社会に対して行っております。今後の状

 況変化は予想がつきませんが,山口大学としても,その対策を考えておく必要があるでしょう。

 

 上にあるアピールは以下のとおり。

 

平成20年7月23日

概算要求基準における国立大学法人運営費交付金の削減幅を3%とする方向の検討について(緊急アピール)

社団法人 国立大学協会 会長 小 宮 山 宏

 

国立大学は、これまで、我が国における知の創造拠点として高度人材育成の中核機能を果たすとともに、高度な学術研究や科学技術の振興を担い、国力の

源泉としての役割を担ってきました。

しかしながら、国立大学法人の財政的基盤である運営費交付金は、骨太方針2006 に基づき、毎年△1%の適用を受け、削減され続けており、各法人では

各々が懸命の経営努力により対応しているものの、その努力も限界に近づきつつあります。

それにもかかわらず、最近、政府部内において、来年度概算要求基準における運営費交付金や私学助成費の削減幅を3%とする方向で検討が行われている

と仄聞しています。

そのような運営費交付金等の大幅かつ唐突な削減が行われれば、教育の質を保つことは難しくなり、さらには一部国立大学の経営が破綻することとなりま

す。また、地域における医師等の人材育成機能が低下するだけでなく、学問分野を問わず、基礎研究や萌芽的な研究の芽を潰すなど、これまで積み上げてきた国の高等教育施策とその成果を根底から崩壊させることとなります。こうした結果を招来するならば、「教育振興基本計画」や「留学生30万人計画」等の実施に支障が生ずることも明らかです。

つきましては、国立大学運営費交付金の大幅削減に強く反対するとともに、その確保・充実を求めます。

 

 2011・12・26

 

 学問。学び、問う。まねし、反省する。知り、これでよいかと考える。つまり学問とは現状批判の精神。そこには聖域はあってはならない。大学はその頂点に立つ。高校までが知ることを中心にしているのであれば、大学は反省すること、批判することを中心とせねばならない。これでよいのか、と。これが正しいのか、と。

 この精神から見たとき、現状は、現在の大学、山口大学は、何か息苦しい。何かに合わせて行動している、学問をする立場からは合わせるべきものではないものに合わせて、考えているような気がする。その何かとは何か?本当にそうか?それは政府か?政府は国民の生活のために行動する。国民の共通利益のために。そのために国民が作っている。大学もそうだ。ただ大学は知的な面で貢献しようとする。基礎的、長期的な世界の理解の面で。政府はこれも含めた国民の利益のために行動するものだ。それを国民は期待している。今日の糧を得るためと、未来の糧を得るための二つ。後者が大学、学問への期待の基だ。今日のパンをどう焼くかは日常生活の課題だ。企業の。個人の。それを政府が助ける。パンが焼ける原理を普遍的に解明しようとすることは学問の課題だ。そして同じように世界の様々な原理を。

 とすれば学問は、特に大学は、今日の余裕がなければ発展しない。活発にできない。今日の糧を得ることに追われていては。

 で、今の本学は、どうか?(たぶん、他の国立大学も。) お金を得ることについて、政府が査定をすることが増えている。正確には政府が委託して。政府は基礎的な部分を減らし、競争的部分を増やしている。そして、本学では科研に応募せねば研究費を減らすことも行われている。その手間も惜しんで研究をしたい人、基礎的部分だけでよい人には、無駄な時間を使わせている。これが典型例か?

 

 2012・7・3 新しい動き

 

 ここ2カ月ほど、また大学を改革せよ、という声が強くなった。発信元は政府、内閣あたりだ。経済戦略会議。財政問題から、もっと投資効率を高めよ、アンブレラ方式はどうか、といった視点がまた大きくなっている。ただ、独法化の時と同様、その背景にあるべき社会と教育の関係への自信を持った理解が弱い。だから今度も、何をすべきか、どこまでしてよいか、それは教育を、社会を壊しはしないか、をいつも心配しながらの及び腰の「改革意見」である。あのときも「社会の要請にこたえていない」という単純(すぎる)な言葉だけで、その改善の提案は個々ばらばらであった。

その中で強かったのは日本経済がうまくいっていないことへの不安であった。国際競争力を高めるために、である。それに対して大学よ何とかしてくれ大学が変わればもっと良くなる、というものだった。今回も同じだ。学生の質を上げてくれ、民間の研究にもっと役立ってくれ、というものである。

だが、質を上げることは、昔と比べると進学率が上がり知的理解力がより遅い人が大学に入るので、結果としての卒業時の質を上げるためにはより長い期間の教育が必要になる。(だが実態は3年末から就活が頭の中心を占めてしまう。)ただここ20年というひと世代ほどの期間を取ったとしても、個人としては寿命は長くなっているのでその限りではより長く教育を受ける余裕はあるかもしれない。ただし経済成長は止まっているので、家計にとってはそれは困難である。そこでそれを社会的に実行するためには、つまりより多くの資源をそこに振り向けるには、今は他の分野を抑えねばならない。しかしこのためには国民的合意が必要である。私学でどんどん個性的に試してみればよい、と言っても、12割は公費に頼っているのでやはり公金は使われている。国民的合意は大切になる。