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[3] 北海道大学前副学長 藤田正一氏から参議院文教科学委員への書簡

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                         平成15年6月30日

 

               北海道大学前副学長 藤田正一

 

        国立大学法人化に付いて

 

前略

 

大学の運営にあたった経験者として、今回の大学法人化論に我が国の教育の将来を危

うくする危険性を感じています。行政の方針に異論を挟むことから生じる私自身が被

るかもしれない不利益を鑑みても、発言せざるを得ない思いに突き動かされて以下の

一文を書きました。審議の参考にして下さい。

 

国立大学法人法と大学教育の将来

 

国立大学法人法案が衆議院を通過し、参議院での論議がスタートしましたが、大学人

の間ではこの法律に対する様々な批判があり、特に重要な指摘として、この法律の施

行が「学問の自由」を侵害するのではないかと危惧する声があります。一方で文部科

学省は、今回の国立大学法人化が、大学運営の自由度と自主性、自律性を増すもので

あると言うことを強く主張しています。確かに「自由こそ学問と道徳の生みの親であ

る」とはアメリカ独立宣言の起草者トーマスジェファソンの言であるし、札幌農学校

の開校式辞でクラーク博士も、明治維新の改革による「封建制や階級制度からのこの

すばらしい自由の獲得は学問を志す若者達の胸に大志を抱かせずにはおかないでしょ

う。」と述べています。自由こそ学問教育の発展に不可欠な要素でありましょう。こ

のことについては後で考察するとして、自由が束縛されると言う大学人の見解と、自

由が増すと言う文部科学省の見解の相違点は何処にあるのでしょうか。国立大学法人

法案によれば、大学は、自らの中期目標を自主的に決定できず、主務大臣が大学の意

見を聞きながら決定し、大学は、中期目標に従って実施計画を作っても、認可を主務

大臣から受けなければならない。計画を実行した結果が主務大臣の意向(目標)と違

えば、低い評価を得て、次年度からの予算は減額されるというものです。運用次第で

大学の自由度は縮小され、国家統制が強化される感があります。ただし、大学はこの

ような枠の中で交付された予算の使途の自由裁量による決定だけは認められています。

これをもって文部科学省は大学法人が自主的自律的に大学を運営することができると

主張するわけです。金魚鉢の中を「自由に」泳ぐ魚は果たして自由なのでしょうか。

いや、金魚鉢の中でさえ自由に泳げない仕組みになっている様です。「第3者評価」

とはいえ、文部科学省の息のかかった評価機関による予算執行の事後評価が控えてい

ます。私が恐れるのは、このようなシステムが少なからず学問の自由を侵害する可能

性があることです。

 

「学問の自由」の概念は、西洋における学問と権力との関係の長い歴史の中から生ま

れてきました。「地球は動く」と言ったガリレオを弾劾した宗教裁判に代表されるよ

うに、権力によって、自由な発想による研究が阻止されたり、学問研究を通して知り

得た知識や情報が、権力の望む方向にねじ曲げられたり、事実の公表や、教育として

のその伝達を妨げられたりしてきた苦い経験から生まれてきた概念です。大学におけ

る「学問の自由」とは、(1)学問を志す人が、自分の自由意志で学んだり研究した

りする対象を決定し、学問を遂行できる自由と、(2)学問研究の結果知り得た知識

や事実を曲げることなく公表する自由と義務、さらに、(3)その知識や事実を曲げ

ることなく教育と言う形で伝達する自由と義務を指します。(2)は「報道の自由」

とも相通ずるものがあり、(3)とともに正しい情報を知る権利を持つ学生や国民に

とっても重要な基本的概念です。これらのことは、学問研究を志す人の良心に基づき、

国民に直接責任を負ってなされるべきもので、いかなる権力からの圧力でも、事実の

歪曲や、過った情報が国民に伝えられるようなことはあってはなりません。大学は良

識の府として、いかなる権力からの、いかなる圧力にも屈することなく、正しい情報

や見解を自由に発信できる組織で無ければなりません。従って、時にはその専門知識

を持って、国の政策に批判的な見解を提示する御意見番的役割りをも国民に対して負っ

ているといえます。

 

我が国の大学の歴史において、戦前、戦中を通して、特に政権の戦争政策や歴史認識

に批判的な見解や論文の発表に対する厳しい弾圧が加えられ、「学問の自由」の侵害

があったことは歴史的事実ですが、世界的に見ても、政権による学問の自由の侵害が

特に危惧されるため、1950年ユネスコにより召集され、ニースで行われた世界の大学

の国際会議では、「大学と不可分の3つの理念」の1つとして、「多様な意見に対す

る寛容と、政治的干渉からの自由」をあげています。最近では1998年にユーゴスラビ

アのセルビア大学の管理職および教授を任命制にしたことに対して、大学人の主張が

入れられない可能性があるとして、ユネスコはミロシェビッチ大統領に「学問の自由」

を尊重する様、強い勧告を出しています。我が国の文教政策もこのような失態を演じ

ない様望みたいところです。

 

前述のような国立大学法人法案の許認可制度が 学問研究教育の内容にまで及ぶこと

になれば明らかに「学問の自由」の侵害で憲法23条に抵触するばかりか、独創的な

研究も不可能にしてしまいます。さすがにこのことについては、大学の独立行政法人

化を検討した自民党の文教部会も「大臣が大学に目標を指示したり、学長を直接任命

し、解任するような制度は、諸外国にも例がなく、国と大学との関係として不適切で

ある。」と平成12年3月30日発表の「提言 これからの大学のあり方について」

で述べています。「学問の自由」が保証されない民主主義はあり得ませんが、この法

案の解釈・運用によっては「学問の自由」が侵害され、我が国の民主主義の根幹を揺

るがすことになりかねません。昨年ある会合で文部科学省の大学法人化に関する説明

を聞いたイギリスの大学長が「学問の自由はどうなってしまうんだ。イギリスの法人

化に範をとったと言うが、これはいかにも日本的な法人化だ。どうなるか非常に興味

深い。」と私に囁きました。さすがに時の政権による大学統制の危険性を鋭く読み取っ

た様です。

 

明治の初期、帝国憲法発布以前に帝国大学の法人化論と言うものがありました。帝国

議会が召集され、帝国大学の予算も議会で決することになれば、時の政権によって、

大学の教育研究が左右されることになる。教育は国家100年の大事、時の政権に左

右されることがあってはならない。大学を法人化し、一定額を帝国議会の予算審議に

よらずに支給する、あるいは、その一定額を皇室からの基金でまかなうことにより、

政権の影響力から大学を独立させる事が望ましいと言うものでした。福沢諭吉や大隈

重信も「学の独立」を説いています。驚くべきことにこのような案が文部省内部から

も出ているのです。徒に主務省の権限拡大を狙わず、国家100年の計に思いを巡ら

す明治の官僚には素晴らしい人がいました。しかし、残念ながらこのような法人化は

実現せず、帝国大学は国権に支配され、国家主義教育の中心として戦争への道をひた

歩むことになります。

 

国立大学の存立基盤からの抜本的改革を行うのであれば、国立大学の100年に余る

歴史を評価し、改めるべき問題を洗い出し、改善策を含めて今後の国立大学の取るべ

き道を明確に示し、それを保証するための制度とすべきでありましょう。最大の反省

点は戦争と言う犠牲を払って知った教育の国家統制の恐ろしさです。しかし、今回の

国立大学法人法案では国の大学統制は現状よりも強化されています。そもそも今回の

国立大学法人化の構想は、大学の歴史や教育現場からの反省から生まれてきたもので

はありません。国の行政改革の一環として公務員25%削減の圧力の下、突如大学に

降って湧いたのです。それまで大学内で検討されていた大学改革案などこの法人化を

巡る論争の嵐の中で吹っ飛んでしまいました。この法案によれば13万人の国立大学

教員を非公務員化することにより、官僚を一人も削減することなく、公務員定削25%

は見事に達成されることになります。さらに驚くべきことに今回の論議には大学にお

ける教育の質的向上と言う大学改革に最も重要な視点が欠落しています。経済窮乏の

時とは言え、国立大学の統制強化や経営効率化、経済界への貢献を主眼とするあまり、

教育の質をおろそかにすることは、国家100年の向後に憂いを残す事になります。

今こそ、米100俵の訓を思い出していただきたいものです。

 

当然のことですが、大学改革を考える時、大学で教育を受ける学生と彼等を経済的に

支援する家族である一般国民の視点を加える必要があります。この視点も今回の法人

化論議で全く欠けていました。日本は世界で最も教育を重視する国民性を持っている

と言っても言い過ぎでは無いでしょう。日本国民が、国立大学の効率化、教員定員の

削減等で大学における教育研究の質が後退することを願っているでしょうか。国民は、

国費の無駄使いの改善は求めてはいるが、大学教育の衰退は求めていません。むしろ、

大学教育の強化充実と科学技術の振興を望んでいます。国民から見て同意できる国家

公務員の定員削減は官僚の削減で、大学の教職員の削減による教育の弱体化は求めて

いないはずです。国民は法人化による経営効率の追求から、産業に直結する研究のみ

がサポートされ、基礎研究や文系の科目がおろそかにされ、やがては大学の持ってい

た文化が廃れてしまうことを望んでいるでしょうか。教育の国家支配の強化により、

学問の自由が束縛され、一歩間違えば、国を再び間違った方向に進めてしまう可能性

を強化する法律を望んでいるでしょうか。大学に最も求められているのは、次代を担

う優秀な人材の育成と文化の創出です。これが教育研究の最高学府たる大学の第一義

的な社会貢献であり、大学における知と技術と研究力による産業界への貢献が第二義

的な社会貢献です。教育の質を犠牲にする大学改革などあり得ません。今回提案され

た法人化法案は学問の自由に抵触して健全な学問研究の発展をさまたげ、産業界への

貢献や大学の経営効率の追求から教育の質的低下をもたらし、大学の文化を歪めてし

まう可能性を色濃く持っています。このような法律の下での大学法人化は大学改革に

逆行するものに他なりません。国民的視点からの再検討を求めます。

 

最後までお読みいただき有り難うございました。

 

札幌市北区北18条西9丁目

北海道大学大学院獣医学研究科 教授

藤田正一

 
辻下徹:北海道大学大学院理学研究科(数学専攻代数構造学講座教授)氏からのメールより転載