大学問題フォーラム No.26 2002・3・21 日本科学者会議大学問題部会

 

高等教育の再編成と私立大学連盟

2つの「中間報告」をめぐって

 

細井 克彦

 

 

 2001年6月に「遠山プラン」が発表されて以降、大学の「構造改革」という名のもとに高等教育の再編成が急展開している。このプランが国立大学をターゲットにしながらも公私立大学を含む全体的な大学再編を企図するものであったことはいうまでもない。それゆえにというべきであろうか、公私立大学の対応にも素早いものがある。しかし残念ながら、それらの対応策は、それぞれの特性を踏まえ冷静に将来を見据えたものというよりも、特に「有力」と自認する大学(ある意味で影響力のある大学<公私を問わず>)ではバスに乗り遅れるな式の「生き残り」策といわれても仕方のないものである。そこに見られるのは、大学を市場・競争原理にまるごと委ね、そのなかで国公私立が一斉に競争する条件をいかに手に入れるかであり、結局のところそれぞれ一部の有力大学がいかに「勝ち組」になりうるかの発想しかないといわざるを得ない。国の政策がそのような方向にあるから当然とされているのかもしれないが、それぞれの大学の主体性・自律性はどうなっていくのか、社会における大学の存在理由が問われる事態である。

 本稿では、この間の高等教育再編の動向を国公私の全体的な視野で捉えながら、特に日本私立大学連盟経営委員会が2001年11月20日に公表した2つの「中間報告」(同日、学校会計委員会からも2つの「中間報告」が出されている)に注目し、その分析・検討を行う。まもなく文部科学省の調査検討会議からだされる「国立大学法人」に関する最終報告がこれらの動向とも関わってどのような内容になるかをうかがう基礎的な状況分析としたい。今一度、それぞれのところで冷静に大学の原点に立ち戻って将来を見据えた高等教育のグランドデザインを描きながら考え直すべきときではないだろうか。

 

 

 周知のように、「遠山プラン」は@国立大学の再編・統合、A国立大学の独立行政法人化、B国公私「トップ30」の3つの柱から成り立っている。

 1)国(公)立大学の統合再編と「トップ30」

 国立大学の独立行政法人化に先立ってその統合再編と「トップ30」(文科省は「21世紀COEプログラム」と言い換えている)の選別が進められている。そのなかで、1月25日の地方新聞を含む新聞各紙が文部科学省調べによる国立大学の「再編検討状況」なるものを一斉に報道した。そこには、すでに決定したものから、合意したものや検討や協議に入ったものまでを含めて約8割の大学が統合再編に向けて動いているとまるで政策実現を誇示しているかのようである。なるほど、同日の記者会見で、遠山文科大臣は「これは決定されたわけでもなく、文部科学省が何か大学にこのように出してくれと指示して出してもらったものでもありません」と答えている。しかし、これは文科省が概算要求時に各大学の再編計画案を提示させ、ヒヤリングを行うなど一種の強制をともなう状況下での「選択」であるといっても過言ではないであろう。さらに、文科省はこれらの報道によって国立大学の統合再編を既成事実化し、各大学に圧力をかけたといわれても仕方がない。そのことを踏まえたうえで、いくつかの特徴点を見ておくと、先導的に進められた医科大学をはじめ単科大学と総合大学との統合再編の動向(戦後文部省の単科大学設置に対する政策責任を反省もないまま)とともに、国立教員養成大学・学部が独法化への先鞭として位置づけられ、草刈り場となっている。「1県1教員養成大学・学部」の原則が葬り去られようとしていることである。しかも、現下の注目点は、県域を越えた総合大学どうしの統合や公立大学との統合が検討され始めていることである。「1県1国立大学」の原則そのものも崩れる様相を示している。これに対して、統合再編の理念・目的が示されないままの「数合わせ」「生き残り」ではないかとの指摘や「空白県」となるかもしれない地域からの反発、さらには「少し立ち止まって統合ブームを考え直す必要がある」(神戸新聞)との社説がいくつかの新聞に出ているのは当然の成り行きであるが、状況に流された情報の垂れ流しは現在のメディアの無責任なあり方が問われよう。もう一方で、東大、京大、東北大などの有力大学が統合再編を静観しているというのも特徴的である。また、この調査では法科大学院(ロースクール)の設置を予定もしくは検討している大学が25校から報告されている。ちなみに、法科大学院の設置基準の骨格案が昨年末に出され、早いところでは2004年度には発足させるというように、既成事実のように進んでいるが、法学部を持つ大学の命運(ステイタス)をかけた大学再編の一環であるだけでなく(公立私立でも検討されている)、これからの大学法学教育のあり方はもとより、司法制度の基本に関わる重大問題を抱えたままであることを明記すべきである。

 他方、国立大学の統合再編に並行して、公立大学の自治体による統合再編が急速に進められている。東京都(都立4大学・短大を統廃合し、法人化)、京都府(府立2大学を統合)、大阪府(府立3大学で「一体的な経営」、法人化)、兵庫県(県立3大学の統合、法人化)、広島県(県立3大学の連携強化、法人化)などが代表例である(全国教研「国民のための大学づくり」光本レポートより)。なかでも、東京都の動きは石原知事のもとでリーディングケースたらんとする勢いであり、内容的にも重大視すべきものである。「東京都大学改革大綱−21世紀を切り拓く都立の大学をめざして−」によって簡単に紹介すると、現行の都立4大学・短大の統廃合(夜間・短大課程の廃止)し、1つの総合大学化、「公立大学法人」化で非公務員型を志向、また経営と教育研究を分離(法人の長<知事選任>と学長<学内選考>)、第三者評価の導入、学長・学部長のリーダーシップ、教員の任期制・公募制などの推進、インセンティブを反映した給与などを提案している。知事の一声による典型的なトップダウンで進められ、都立の大学関係者のいない会議(西沢潤一岩手県立大学長が座長)で原案が作成され、「公立大学法人」などについては総務省に検討依頼するなど、大学(の学内合意)を飛び越えたところで重大な決定がなされようとしている。しかも、石原知事は「この改革が日本の大学のあり方を変革する起爆剤となり、教育全体へと発展していくことを念願」すると記し、後にも述べるように、経営と教学の分離、非公務員型などでも「改革」誘導しようとしている。

 文科省のもう1つの政策である「トップ30」は、先にも述べたように、不評だった名称を変更し、さらに規模が縮小(422億円→211億円→182億円<決定>)して、若干の手直し(文科省が評価するのでなく、ピアレビューによる審査など)を伴いながら、初年度の5分野(生命科学、化学・材料科学、情報・電気・電子、人文科学、学際・複合)で実施されることになった。ランク付けはしないとされるが、なお当初から応募できる大学は大学院博士課程を持つ大学に限られ、しかもどの大学の研究科に集中するかによって自ずとランク付けがなされることになり、すでに「トップ30」が浸透していることから名称を変えても基本性格は変わらないといえる。実際、学長が「トップ30」は資金獲得もあるがステイタスの問題と積極的に位置づけ動く公立大学も存在し、「明示的な」ランク付けに対応している。しかも、教育研究活動の実績および将来構想と実現のための計画内容により、ポテンシャルの高さを評価するとされているので、序列化の問題だけでなく、政策誘導の性格を強めている。評価の視点には、競争的資金等の獲得状況、任期制・公募制の導入状況や産学連携に関わる事項等が並べられており、大学の将来構想にこれらを盛り込む方向に動きだしている。わずかな資金の重点配分により、大学の姿が歪められるだけでなく、それによって本当に教育研究が「世界最高水準」になるかどうかは疑わしく、むしろこれによって日本の大学が長期にわたる混乱と停滞を生むことこそを考えないわけにはいかない。また「トップ30」の問題は、第2期科学技術基本計画の重点4分野(ライフサイエンス、情報通信、環境、ナノテクノロジー・新材料)への大学組織の絞り込みが懸念され、特に基礎科学研究を含む学術研究(体制)のバランスを失することにもなりかねない。国立大学の統合再編と「トップ30」は、高等教育と学術研究の大掛かりな再編計画として進んでおり、国立大学の独立行政法人化はこれらと一体化されて、急展開しようとしている。大学審議会の委員として関わってきた天野郁夫氏は、「今回の構造改革の問題提起は---資源の配分構造を変えるところから始まっていると思います」といい、「唐突さ」を免れないとしつつ、「これまで改革は大学内部の問題だったが、例えば、国立大学の地域配置を変える、再編・統合をはかる話もあり、大学間の問題になってきて、システム内部での資源配分の構造を変えようというねらいが強く出てきたわけです。「トップ30」の話もそうで、研究費の配分構造をこれまでとは大きく変えよう、そこに国公私もふくめよう、国立大学の内部での資金配分も変えようということで、全体として高等教育システムをどうするか、国立大学の問題をどうするかというよりも先に、資源配分の構造を変えることのほうが先行する感じになっている。そこで、基本的なポリシーは何かが問題にされているのだろうと思います」と指摘している(IDE『現代の高等教育』2002年1月号、10頁)。ここに、この政策のポイントが的確に読みとれるであろう。

 2)国公立大学独立行政法人化

 国立大学の独立行政法人化は、統合再編に隠れて一時後景に退いたが、文科省調査検討会議連絡調整委員会で3月の最終報告に向けて議論が行われている。1月25日の閣議決定「構造改革と経済財政の中期展望」では、国立大学の「民営化及び非公務員化」が謳われ、事態は急を告げている。中間報告では先送りされていた課題について検討されており、4つの論点に集約される。第1に、運営組織では、B案、C案の間にバリエーションを2つ設け、経営(運営協議会)と教学(評議会)を分離し、学外者を含む「役員会」を必ず設けるものとし、その「議決を経る」のか(案の1)、大学の判断で「役員会」を置き、その「議決を経る」のか(案の2)という形に絞られている。国大協などでは経営と教学の分離には慎重であったが、一歩踏み込んだ方向(学内分離)に動きつつある。第2に、中期目標の作成手続きに関するもので、2つの選択肢が用意されている。A案:文科大臣が大学から提出された意見(大学が作成した原案)をもとに国立大学評価委員会の意見を聞いて定める。B案:文科大臣が全大学共通の基本方針を定め、これに基づき各大学が中期目標を作成し、大臣が国立大学評価委員会の意見を聞いて認可する。作成主体が大学か国かの違いはあるが、文科大臣が作成もしくは認可することに変わりはない。第3に、職員身分については、偏った委員会への情報操作をもとに非公務員型に向けて調整が進められている。教育公務員特例法からの除外にねらいがあり、先の閣議決定では、「国立大学の法人化に伴う大学事務のアウトソーシングの促進」が求められていることから、事務職員を含めた一括非公務員化となりかねない状況である(2月21日のNHKは「文科省は大学職員は非公務員型に決めた」と報道)。第四に、学長選考の方法については、4つのパターン(例)が上げられている。法人の長としての経営面での役割と学長としての教学面での役割のバリエーションによって、評議会からの意見聴取を経て運営協議会が選考する(案の1)、運営協議会からの意見聴取を経て評議会が選考する(案の2)、運営協議会と評議会の双方のメンバーから構成される選考委員会で候補者の選考を行う(案の3)、運営協議会と評議会の双方で候補者選考を行う(案の4)となっている。いずれにしても経営的観点から選考過程への学外者の参加には熱心だが従来の学内構成員を基礎とした選考方式は全く無視されている。「遠山プラン」以降の独法化の議論は「民間的発想の経営手法」の導入という観点が加わって、経営責任の明確化のために経営と教学の分離へ水路づけ、目標・評価を国家管理する仕組みを定着させ、非公務員化で教育公務員法の適用をはずし、学長選考にも経営的観点を組み込むなど、限りなく「民営化」に向けて動きだし、競争原理を徹底することによって「大学の淘汰」(尾身科学技術担当大臣)の手段にする方向へと集約されつつある。このような動きに対して、2月6日、9大学教職員組合執行委員長の連名で「国立大学の『非公務員化』に反対する」とし、「1.国立大学職員の身分に関して、公務員身分を維持すること、2.当事者である国立大学教職員の意見を聞くこと」を文科省調査検討会議に要請した(cf.独法化反対首都圏ネットワーク)。

 ところで、公立大学協会は、2001年11月16日に臨時総会を開き、「公立大学が法人格を有することを可能とする法律の整備が不可欠であると確認し、今後その実現に向けて各界に働きかけることを、ここに決議する」ことを確認している。これに先立ってだされた公立大学協会法人化問題特別委員会中間報告で、「情勢が一変した」とし、「問題は時間である。この間の情勢変化を的確に把握し、後手に回らないように、適時適切な手を打たなければならない」として、従来の方針を根本的に転換し、「決議」に至ったのである。「公立大学だけがあくまでも法人格を持たず、従来のまま地方行政組織の一部である『直営』として存続することを主張するとすれば、その根拠を示す挙証責任を問われることになるのではないか。そして現段階では、『すべての公立大学が現状のままの直営でよい、大学法人化の可能性を与えられなくてもよい』と言いうるだけの根拠・理由を挙げることはきわめて困難なのではないかと考える」というわけである。公立大学の場合は、自治体との関係が優先されるので、この「決議」に拘束力はないはずである。しかし、公大協に何の権限があってこのような「決議」をしたのであろうか、「トップ30」への対応といい、法人化問題といい、もっと見識ある態度を示せなかったのであろうか。今や、公立大学も70校を越えるまでに増えており、歴史も地域性も規模や性格、自治体との関係などもまちまちであり、利害関係も異なっており、国との関係も一定の距離があるので、地域的な要求や特性を生かした独自の判断があるはずであるから、わざわざ国立の後追いをするような「決議」をする必要があったのであろうか。むしろ文科省の国立大学独法化への認知を与える結果になっているといわざるを得ない。そして、総務省等も地方自治体が抱える諸機関の独立行政法人化に向けた法整備に入っているのである。

 

 

 さて、このような再編動向のなかで、日本私立大学連盟(以下、連盟とする)の文書(4つの「中間報告」)が出されている。まず、経営委員会からは、「高等教育分野における規制改革のあり方及び国立大学の『独立行政法人』化に対する私立大学の対応方策」([提言1]と呼ぶ)と「学校法人の経営困難回避策とクライシス・マネジメント」([提言2]と呼ぶ)という2つの「中間報告」であり、もう1つの学校会計委員会からは、「学校法人財政情報開示基準」「新たな学校法人会計基準の確立に向けて」の2つの「中間報告」である。いずれもセットの形でだされており、大手老舗の私立大学を含む法人経営者団体からの政策提起という性格であるが、特に前者は高等教育の全体的な再編動向に関連して重大な方策が提案されている。以下に、2つの「中間報告」を検討するなかで特徴点を見ておこう。

               

 まず最初に、連盟が今の時期になぜこのような「中間報告」をだしたかのかについては、詳細な事情は連盟関係者に聞くしかない面もあるが、いくつかの要因が示唆されている。その1つは、国立大学の独立行政法人化がいよいよ具体化の段階を迎えたことであり、これによって国公私の違いを越えて一層競争的環境が激化すること必至と見ており、これに向けて私立大学に対しても規制改革を政府・文科省に要請することであり、今1つは、大学経営の危機に直面し始めたのに対していわば業界団体としての処方箋を明らかにし、危機回避できるところはいかにそれをなすべきか、しかし一方で破綻を迎える大学も出るのは確実であるから連盟としての対処法を提示しておくということであろう。したがって、2つの「中間報告」はセットになっているが、性格は多少異なるというべきであろう。そして、経営委員会の問題意識は国立大学の独法化への対応とともに「トップ30」とも関連して、その有力大学がいかにこれに食い込み生き残るかに向いていると読み取ることができる。よって、[提言1]は高等教育政策に対する連盟としての政策提言でもあるだろう。もう一方の[提言2]で、特に倒産した大学については、学生の面倒は文科省も考慮するが、大学法人に関しては考えないという姿勢であるから、業界団体としてマニュアルを提案することの意味はあるといえよう。これらの「中間報告」がどのような経過を経て最終報告にまとめられるかは詳らかでないが、一定のパブリックコメントを受けて3月末か4月には公表される予定のようである。

 2)国立大学法人への対応措置としての規制緩和の要請−有力私大の生き残り策−

 [提言1]は、国立大学の独立行政法人化が具体化するに際して、オープンな競争ができるように規制改革を要請しているといえるが、そこにおける独立行政法人化の捉え方及びそれに対する連盟の見方には疑問がある。例えば、独立行政法人化があたかも「自律と競争」に向けた「第一歩」であるかのような理解や「大学制度を分権的に組み上げる第一歩」という把握は、一方での法人の長の任命・解任の権限や中期目標・中期計画及びその評価等における国との関係が強化される点を見ない一面的な評価になっており、「国立大学の民営化を視野に入れた検討の開始」を求めていることとも相まって、大きな流れに乗るものであっても、日本の高等教育の全体的なあり方を視野に入れたものとは言い難い。しかも、そうした前提のもとに、「国公私立大学間のイコール・フッティングの実現」ないしは「市場原理に従った公平・有効な競争」を追求する論理構成が基調になっていることに疑問を持たざるを得ない。特に「財政基盤のイコール・フッティング」が重視されているが、提言が高等教育財政の拡充を求めているとはいえ、現実には全般的な縮小傾向のなかにあっては、重点配分による格差構造の拡大か「低位平準化」しかないが、恐らく前者が想定されているのであろう。そうした場合には国公私立間での競争ばかりでなく、例えば地域間や私立大学間にあっても格差化に向けた競争が一層熾烈になるはずである。すでに連盟自体のなかでの階層化からの分裂を予想しているのであろうか。従来の国庫助成運動の論理(パイの拡大)とは異なる地平に連盟は立っているのかということでもある。

  提言は、「資金配分の構造」の転換を求めている。例えば、「市場原理の導入で需要主体優位の市場(需給)構造の構築を目指す」といい、また「公財政投資は機関の設置形態を基準とする考え方から機関の教育研究機能の内容と水準に着目した方式に転換を図るべき」として、「評価結果を公財政支出に反映させる」というのであるが、前者ではあたかもヴァウチャー制の導入により、大学への補助金配分を学生の選択に切り替えることを求めているようでもあり、後者では従来の機関補助に代える助成のあり方への要請ともいいうる。そして、「国立大学の『独立行政法人大学』と『私立大学』が対等な地位を保ち、同じ土俵の上で、公正な競争を確保できるよう」「国公私立大学全体の予算を設置形態を問わず再配分する方式が導入されるべきである」とする。このような方式がふさわしいかどうかは検討課題かもしれないが、それを導入すれば、高等教育と学術研究の望ましい発展が図れるのか、本当に大学教育の質の高度化につながると考えられるのであろうか、現状ではむしろ「低位平準化」になり、取り返しがつかなくなる可能性の方が高いであろう。

 また、提言は国立大学の独法化で規制緩和の枠が拡大する(「規制体系の不均衡」等々)のに対して「私立大学にも同等の規制改革」を求め、あるいはそれに伴う「許認可にかかる文部科学省の役割の縮小」(権限の見直し)を求めているのは当然だが、基本的条件をどうするかについては疑問が多い。例えば、審査期間の短縮や提出書類・書式の簡素化などの手続き的なものはともかく、特に学生定員に対する教員定数の弾力化や校地・校舎・教室等の規制緩和などは教育環境や教育の質にかかわる問題を含んでいる。「私学自身の体質強化」のための規制緩和とされるが、そのために「教育内容の劣悪化」に導くのであれば、何のための規制緩和かが今一度問い直される必要がある。

 ところで、提言は日本の高等教育のグランドデザインを描き国に提示するともいう。連盟がグランドデザインを描くこと自体はぜひやってもらいたいが、それが果たして日本の高等教育にとって適切なものとなるかどうかは別問題である。総じて、提言は市場競争原理と自己責任原則を前提とし、経営面での競争をスタートさせるための均衡(イコール・フッティングの達成)が主眼になっている。一方、評価によって「劣悪な大学は市場から撤退する」のは当然の結果とし、「大学を含む教育機関間において消費者利益のために競争原理が働き、質のよい教育機関が社会的に評価される社会こそ成熟した民主主義社会の条件」とされる。これでは市場競争に生き残る大学だけがよい大学ということになろう。言い換えれば、経営効率の高い大学が生き延びるべきであるというものである。このような立場からのグランドデザインは、21世紀の高等教育・学術研究の発展を導くもの足りうるか大いに疑問である。

 3)学校法人の株式会社化と破産処理の手引き−弱小私大の切り捨て策−

 [提言2]は、少子化による学生数の減少、独法化による手ごわい競争相手の登場、海外大学の日本進出などにより、大学経営が危機を迎え、淘汰もやむなしという時代状況において、学校法人の自己責任として危機回避のための方策を検討したものである。まず、経営危機回避策では、学校法人の理事、監事、内部監査機構等のよる「経営組織体」としての強化と企業会計原則によるキャッシュフロー会計化とそれに基づく事業展開(資産運用、その他の収益事業への進出、資材調達の工夫、アウトソーシング、子会社設立による職員異動を伴う業務移転、非常勤職員の有効活用など)、及び外部資金の調達(債権の形での市場からの資金調達を含む)などにより、いわば学校法人を株式会社化し、アウトソーシングで業務のスリム化、コア・コンピテンスに組織集中によるリストラで危機回避を図ろうというもので、それらに対応できない大学は淘汰もやぬを得ないということになる。

 危機管理マニュアルでは、学校法人の経営危機のプロセスを初期段階、中期段階、末期段階に分けて、各時期ごとに何を判断材料にどう決断するかまた破綻を回避するために何をなすべきかを明らかにし、しかしなお破綻した場合の危機対処法では、具体の方策(設置者変更<完全移管、部分移管、分離・分割移管>、合併<相互共栄型、危機回避型>の処理法)が提示されており、さらに破綻に瀕した学校法人の法的処理策(破産法、民事再生法)が示され、学校法人の対処の筋道は明らかになっているかもしれない。だが、学生の身分保障等については学籍簿の保管や転編入の斡旋などのセーフティ・ネットは提示されているものの具体性に欠けるのではないか、また教職員については法人が破綻すれば整理解雇の余地または解雇が当然のように前提視されておりその他の身分保障はいっさい考慮されていないのは重大である。法人が潰れたのだから仕方がないでは済まされず、教職員の自己責任で解決せよというのであれば、法人の社会的・道義的責任は果たせないはずである。提言は概して私学の「優位性」を強調し、果たして私学の優位性とは何を指しており、その自信はどこからくるのか分からない。しかし、このことは連盟に加盟しているすべての大学に当てはまると考えられているとは必ずしもいえず、有力私大について想定されていることではないかと考えざるを得ない。

 (この項は2月20日の高等教育研究会における報告と討論を踏まえて書いたものであるが、同日の研究会でのもう1人の報告者(堀雅晴氏・立命館大学)から[提言1]に関する以下のような仮説的コメントが提起されたことも付記しておきたい。「結論を先取りすれば、旧帝大と有力私学の息のあった事実上の『連携』によって、積極的に『競争環境』が創出させられ、本来国民のより高まる高等教育要求に応えるべき存在であるはずの日本の高等教育機関が『国策』である科学技術立国政策と産業界奉仕の機関に一層変質させられ、学費の高騰と『教育投資論』の名による国民的な国庫助成運動を根底から崩す事態を迎えているのではないか。」)

 

 

 1)競争万能主義の行き着く先

 政府・文科省が大学に自由競争原理を導入する政策をとっているだけでなく、国大協をはじめ公大協、私大連盟などの高等教育行政に関与する団体もその政策動向に積極的であれ消極的であれ翼賛するかのような姿勢にあることは見逃すことができない。特に私大連盟は経営者の団体であるから、国大協や公大協とは区別すべきかも知れないが、大学経営という特質やその影響力から見れば一層重視されるべきであろう。ここでは、競争万能主義ともいうべき現在の政策動向が大学に何をもたらすかを若干検討する。

 すでに独立行政法人になった元の国立試験研究機関では、国の目標に沿ったプロジェクト型の研究が優先され基礎的な研究がやりにくくなっており、しかも一定期間でそれが評価され、成果に従って資金配分される形になっているので、分野間の格差が開いてきており、研究機関としての自律性も一層失われてきている。そこで、もう少し具体的にメカニズムとその結果を理解するために、1980年代から新自由主義の政策を大学にも導入してきたイギリスを事例に取り上げることにする。イギリスはサッチャー時代に、アメリカのレーガン政権とともに新自由主義を採用したが、大学に対しても強力に押し進めており、日本でもモデルとされてきた。市場化に向けた競争原理導入のための有力な手段になったのが大学評価システムの導入と評価結果の資源配分への反映ではなかったかと考えられる。大学評価の先輩格であるアメリカとも違った形と方法で機能化させたといえよう。

 かつてイギリスの大学は、大学補助金委員会(UGC)が政府から交付される資金を民主的に配分し大学の財政的自治を担保する機構を持つということで日本にも紹介されてきた。しかし、サッチャー政権の中頃になると、UGCも資金配分に当たって大学評価を導入するようになる(1986年に第1回実施)。さらに、1992年にはUGCに代えてイングランド、ウエールズ、北アイルランド、スコットランドの4つの高等教育財政審議会(HEFCS)が創設された。HEFCSは、政府と大学の中間にある独立法人とされるが、その中心任務は「国家の必要を踏まえ財政の範囲内で資金効率のよい研究教育活動を促進する」こととされる。そのために、いわば国家的な観点から研究・教育活動の評価を行い、資金が効率的に運用されているかどうかを確認し、しかも費用=効果の状況に見合った評価結果を資金配分に反映させることのできる仕組みを導入したのである。HEFCSは1992年から研究評価を行うようになったが、評価結果によって大学ごとのランク付けが行われ、資金の重点的傾斜配分されるようになったので、多額の研究資金を獲得できる大学とほとんど獲得できない大学が出ており、大学間格差が際だって大きくなっている。1996年の場合には、147大学うち研究資金の配分が0という大学が19あったことも紹介されている。また、HEFCSは教育評価も行っていたが、現在では高等教育品質保証機構(QAA)が高等教育の質と水準維持のために中心的な機関となり、HEFCSから国庫補助金を得ようとする大学は定期的に教育評価を受けることになっている。政府が教育の質を評価する制度に強い関心を持っており、評価基準に対しても厳しい規定を要求しているので、市場原理と結びついた国家主導による評価といってもよいであろう。教育評価の結果もランク付けして公表されている。このような評価づけとその結果の基づく資金配分が持ち込まれたことによって、何のための評価かが問われるに至り、教員・研究者はストレスをためており、イギリスの大学に嫌気をさして海外流出するものも続出しているとの指摘もある。イギリスの大学にあっても「効率性」「有用性」そのための「集権的管理の強化」が強調され、学問の自由と大学の自律性が失われつつある。ちなみに、1990年代初めにイギリスは従来の大学(私的セクター)とポリテクニク(公的セクター)のデュアル・システムを止めて、高等教育の一元化を推進したが、大衆化への積極的な側面が生かされず、かえってそれぞれの特質を壊しかねない政策が取られてきたのではないかとの疑問を抱かせる。ブレア労働党政権に変わっても、補助金の配分については若干の是正措置がとられたものの、基本路線を変えるところまでいっていない状況のようである(秦由美子『イギリス高等教育の課題と展望』、明治図書、2001年1月;Mary Henkel "Academic Identities and Policy Change in Higher Education" Jessica Kingsley Publishers London and Philadelphia,2000など参照)。

 大学評価は現在の大学に不可欠の要件(特に大学の説明責任という名目で)のようになっているが、そのあり方と活用の仕方によっては「効率性」「有用性」さらに大学の選別・淘汰の手段になることを示している。すなわち、競争原理の徹底によって学問の自由と大学の自律性は弱体化され、大学の生命そのものを危うくすることになるであろう。イギリスの大学評価は、ランキングのための国家的評価やその結果の資源配分への反映など、特異な性格をもっている。しかし、日本の場合にはさらに国家による目標管理と結びつけ、行政による評価を含め幾重もの評価に晒して、大学のランキングを明示化し、資源配分に反映させるシステムになるので、高等教育と学術研究に及ぼす影響は一層いびつなものとなるにちがいない。それだけでなく、政府の総合規制改革会議(規制改革推進機関)では「評価認証機関については、互いに質の高い評価認証サービスを提供することを競い合う環境を整えるため、株式会社も含め設立できることとし、特定の評価機関の独占としない」(「規制改革の推進に関する第1次答申」2001年12月)ということまで提案されている。つまり、大学評価で金儲けをする機関を設置できるようにせよというのである。評価や競争が無際限に推奨されるが、高等教育や学術研究をよくするために考えられているのでは決してない。そこでは、競争そのものを自己目的化し、いかに市場化して金儲けができるかしか考えられていないことを見ておくべきであろう。

 2)大学改革の課題

 以上に見てきたように、今や大学問題は資金配分を通じて社会と大学の関係構造を組み替える視野で展開していることを重視する必要がある。私立大学連盟の「中間報告」も高等教育のグランドデザインを問題としていたが、そのことも当然この点と関連している。ところで、日本の高等教育・学術研究のグランドデザインは誰が描くべきであろうか。すでに指摘したように、連盟がこれを描いて政府に提出してもよいと述べているが、連盟も1つの対象たりうるとしても、適切な提言ができるかどうか疑がわしい。また、最も「期待」されているのが文部科学省でかもしれないが、従来の政策・行政に対して責任も取らず反省もなしにグランドデザインを描かれても期待できるものにはならないことも明らかである。例えば、1990年代初めには少子化で学生数が減少し始めることは分かっていたにもかかわらず、一方で公私立大学の新増設をなお認可し続け、他方で国立大学の統合再編で削減・合理化を行うという矛盾した行政をやっており、このような行政・政策に対する説明責任も果たしていないのである。文科省(中教審や関連機関を含む)や連盟などに日本の高等教育のグランドデザインを任せることはできないといわざるを得ない。では誰がつくるべきであろうか。これは各大学・高等教育機関や大学関係団体及び学界などが中心に国民各層の意見反映の場を適切に設けながら議論を積み上げ、ある程度の構想ができた段階で国民的な議論を踏まえて描かれるべきものではないだろうか。高等教育のグランドデザインは教育・研究はもとより社会の将来のあり方にもかかわる重大事なので、拙速にトップダウンでのグランドデザインの押しつけは決してやるべきでない。

 そして、現在の政策的な流れは、高等教育財政における公財政支出の抑制傾向のなかでの資金配分の構造転換に向かっており、その上にグランドデザインを描くことの危険性も指摘しないわけにはいかない。その点で連盟の提言はその危険性を抱え込み政策展開を助長する発想に陥っているといわざるを得ない。すでに見たように提言は高等教育財政の拡充を求めてはいるが、内容的には永年積み上げ連盟もその一翼として努力してきた国庫助成運動に背を向け、その運動の解体をも願う方針転換をうかがわせるようなものになっている。その方向では、国立大学の独立行政法人化を機に有力私学がパイの配分をめぐってオープンに競争し生き残ることが目標となり、弱小私学は切り捨て倒産してもやむを得ないということになる。これは少なくとも国庫助成運動の理念と蓄積に悖るものである。国庫助成運動は、国民の教育を受ける権利と機会均等原則を実現するために、公教育の一環をになう私学に対しても国庫助成が必要でありかつ正当であるとの考えに立って、パイの拡充自体を求めるものであった。連盟の提言は、この運動を現時点でどのように総括し、これからどのようにこれに臨もうとしているのであろうか。「護送船団方式」には戻れないとしているが、あるいは国庫助成運動も「護送船団方式」として精算したいのであろうか。この問題は連盟だけの問題では決してない。これからは、いろんな形で私学国庫助成に対する批判や見直しまたは廃止に向けた攻撃が一層強まる恐れがある。また連盟の提言では、「独立大学法人大学」と「私立大学」は対等な関係になるので、「イコール・フッティングを実現せよ」ということになるから、パイの分け前をもっと私学によこせという論理になりかねず、全体として日本の高等教育は「低位平準化」することになるに違いない。このような市場競争原理に大学を委ねることは避けるべきであろう。

 そのためにも、国大協や公大協はもとより、国公立大学における再編・改革も、今一度、高等教育再編の全体動向のなかでそれぞれを位置づけ直し、競争と新たな序列化に向けた位置取りや生き残りという観点ではなく、大学の原点に立ち戻って日本の高等教育をどうするかという観点から見直すべき時期にきているのではないであろうか。まだ国立(公立)大学が独法化したわけではないから、先取りする必要はないが、大きな岐路を迎えていることは確かなので、設置形態にかかわらず、大学として最低限必要とされるべき要件・条件を、それぞれの機関が大学憲章のような形で明確化していくことが重要になっているであろう。これはすでに大学の統合再編を予定ないし検討している機関にあっても、単なる「数合わせ」「生き延び」にならないためにも、何のための統合再編であり、その理念や目的は何かを明らかにすることは避けられない。それぞれの大学がグランドデザインを描き、それらをつむぎ合わせて、日本の高等教育のグランドデザインの基礎としていく必要があるのではないだろうか。

 これまでの国大協とか公大協あるいは私立大学連盟や私立大学協会などという設置形態別の団体というのは、国大協や公大協は学長の集まりで何らの代表性はないはずのものであり、また連盟や協会等にしても業界団体ではあるが私立大学を代表するものではないはずである。それらの団体があたかも代表のように文科省が扱い政策形成や行政の道具として使ってきたことはないだろうか。それらが文科省の政策の下支えをさせられたということはないであろうか。このような関係を見直すことも必要な時期にきている。文部科学省の権限やあり方の見直しと同時に、それらの団体自体の見直しも必要とされる。これらの全体的な見直しをするなかで、政策形成主体の社会的な転換が求められているだろう。

 


 (塚田付記) 調査検討会議について

 

 次の意見は調査検討会議の2001年3月14日の議事録からの引用である。このようなことが「大学の実態」として語られている。

 

「例えば今の実態として、内部規約で40時間の勤務時間の中で6時間を授業時間に当てればよいこととされていると聞いている。そうすると教育に関しては4コマの授業だけをすればいいと考えている教授もおり、6/40すなわち1/7しか教育に貢献しないこととなる。そのようなことでは学生に付加価値はつけられない。しかし、教授を個別に呼んで、教育をもう少しやってくださいとは学部長としても言いにくいだろう。したがって、最低限ここだけは授業を行い教室を開放するという、ミニマムのスタンダ−ドを作ることがよいのではないか。」

 

 一つの講義をするのにはそれ相応の準備が必要である。このことをこの発言者は全く知らない。ましてやいまは大学改革の名による行政の仕事の増加で、研究時間はおろか、教育のための時間さえ切り縮められている。そのような実態を知ってか知らずか、このような発言がなされている。

 抗議したいが、発言者の名前は書かれていない。この点もおかしい。それこそaccountabilityに悖る無責任は議事録作りではないか。このような誤認に基づいて政府は大学の将来を決めようとしている。誤った実態認識が誤った進路に人々を導く好例となりそうなことを心配している。