1 今、日本が直面している問題は何か?

 

 日本の社会、これからどうあって欲しい?

  最近の内外の状況から(20093月〜)

 

 

1 今、日本が直面している問題は何か?

・・・また日本が直面する問題の一部はおそらく市場経済を採用している先進工業化社会が共通に直面している問題でもある・・・。

 

1)戦争・テロと平和の追求

2)世界の人々との経済関係

1 困窮国への援助・・・一層の慈恵性発揮へ

   2 先進国と開発途上国の関係

3)国内の経済競争と幸

 

 

1)戦争・テロと平和の追求 

 

201215日、312

 ●2011年、イラク戦争開始から8年、米軍はイラクから撤収した。現在、不安定な国内政治が始まっている。ブッシュ大統領と米国、そして同盟軍により行われたこの戦争。ビン・ラディンも殺された。フセイン大統領も殺された。イラクの独裁体制は倒された。だが、だからこれは正しい行為だった、と言えるか?アフガニスタンではまだ戦闘が続いている。312日現在、アフガンで、米兵1名による16人の女性、子供を中心とした殺害事件が報じられている。夜間に近くの村へ行き、銃を乱射した模様だ。米国はこの兵士の個人的行動だという。彼はイラクに3回行っている。仮に精神状態が異常になっていても不思議とは思わない。戦争は生身の人間同士の殺し合いである。単なる近縁者だけのために生きる動物から変化してきた人間だが、まだ進化はここまでだ。せめて兵士を送るとき彼らをかわいそうに思うことをして欲しい。できれば代表1名が腕相撲で勝敗を決することはできないのか?相手の兵士を、そしてこのように兵士以外でも「敵国民」をたくさん殺すために行動し、ほめられるという状況は、おかしい。おかしいはずだ。殺し合いで決着をつけることは避けられないのか?

 ●イランの核開発疑惑が続いている。IAEAの報告はその疑いがあると述べた。今、EU、米国はイランの原油輸出を妨害しようとしている。ホルムズ海峡は緊張が高まっている。イランには六個所の核関連施設があるという。イスラエルはこれまでイラクとサウジ?と二か所の核関連施設を空爆した。自衛のためだというのだろう。確かにイラクの指導者はイスラエルを世界地図から抹消すると言っているという。だが、殺し合い以外の方法はないのか?お互い、生きるためという。イスラエルはホロコーストを経験している。ユダヤ民族がユダヤ民族であるという理由で抹殺されかかった。だが、第二次大戦後の建国には問題なしとはいえないだろう。話し合いで決められないものか?

 ●シリアでは、昨日も40名(?)の民間人が政府軍に殺されたという。殺された側の人々は国連に、世界に援助を求めている。アサド大統領はすでに起きたこうした事件がある限り、話し合いに応じようとはしないだろう。その結果、死刑になる可能性があるのだから。だが、こうして政権の武力をもった人が相手を殺し、殺される側の人たちも武器をとって相手を殺す。世界の指導者たちはこれを止められないのか?たとえば国連はアサド氏の身の安全を保障して、そのうえで平和な代表選出をすることを実現できないのか?

 ●北朝鮮では金正日指導者が死に、息子の正恩氏が新たな指導者になろうとしている。28歳でまだ若い。世襲制で国の指導者を決める体制は非常に危険だ。少数者支配、取り巻きによる支配になりやすい。おばとおじのアドバイスを受けながら、軍を優先させながら、しかし中国のような経済発展も目指したいのではないか。そうしなければ国民はついてこないことを彼らも感じているだろう。

 

 

(以下、200443日 +一部、2005214623書き直し)

あのイラク戦争がはじまって1年が過ぎた。半世紀余りを生きた私にとって、イラク戦争はベトナム戦争に継ぐ二つめの身近な戦争だった。30年前のベトナム戦争では自衛隊は戦場には行かなかった。だが今回はそうではない。自衛隊は武装してイラクに行った。国際法上それは占領軍の一部とみなされるという。両者の違いはもう一つある。前回は冷戦下の両体制間の闘いでもあった。どちらが自己の陣営を拡大できるかが闘いの一つの焦点だった。当時アメリカはドミノ理論を採り、ベトナムが共産化すれば回りの国々も皆そうなっていくと考え、戦った。しかし南ベトナムが負けても、その後、周辺国はドミノ化しなかった。当時のアメリカの恐怖は今から見ればアメリカの誤算だった。それどころか、ソ連を中心とした社会主義圏の多くは資本主義化した。中国も市場経済を拡大させている。世界は経済面では市場経済中心に収斂しつつある。

指導者の見通しの誤りが戦争を始める大きな力になり得る。このことを国民はいつも注意する必要がある。

だが今新たな恐怖が残り、拡大しつつある。アメリカ・イスラエル対パレスチナの闘いであり、それを源としたアルカイダらによるアメリカとその協力者に対する闘いである。それは世界的な全面戦争ではない。だが、反アメリカ勢力の戦い方は世界的なゲリラ戦、テロリズムであり、それは幾つかの国で兵士と市民を無差別に殺している。

 この恐怖に今、日本国民も巻き込まれている。日本はアメリカのイラク戦争を支持した。日本はアメリカらの有志連合軍による戦争を支持し、さらに今、その一部となってイラクで行動している。3月のスペインでのテロと同様、占領軍の一部として、日本が攻撃される危険性は大きい。

なぜ日本は有志連合の戦争を支持したのか?ここで日本とアメリカの軍事同盟が出てくる。この同盟が日本がアメリカを支持する根拠とされている。そしてこの同盟の必要性として、北朝鮮による日本への攻撃の可能性が政府によって示されている。自己防衛のために、自分を守ってくれる人を助けねばならないというのである。

人は誰であれ、自分が殺されそうなときは自衛する権利をもつ。それゆえ、ある国の国民が自衛のために武力を持つことは正しい。これは日本の憲法9条といえども否定していない。では日米軍事同盟は、日本が自衛するための正しい行動なのか?

現行の自衛隊はアメリカ軍と同盟を結んでいる。だが同盟を結ぶことは危険なことである。相手が第三者に対して誤った戦争を仕掛けたとき、その相手を支持せねばならないような気になってしまう。アメリカ軍は過去に誤った戦争をした。また誤る可能性はある。今回のイラク派遣ではそれが現実になってしまったのではないか。

 本来の「自衛」隊に戻すために、日本政府はアメリカとの軍事同盟を破棄するのがよい。だがこのことだけをもって破棄しても大丈夫か?北朝鮮が核兵器を持っていると宣言した(2005年2月初旬)。彼らは、アメリカからの攻撃を防ぐために核を持ったという。(核爆弾を落とされる可能性については、日本は一度アメリカから核爆弾を落とされたことがある。現実に一度あったのだから、いつかまた核爆弾が日本に落とされないとはいえない。)だが、その危険は、米国が北朝鮮を攻撃するときである。だから米国が北朝鮮を攻撃しないと約束すれば日本は安全になる。6月に北朝鮮は、また、アメリカ北朝鮮を攻撃しなければ、つまり友好国になれば、ミサイルをすべて破棄すると述べた。とすると、北からの脅威を取り除くには、アメリカが北を攻撃しないと約束すればよいことになる。

アメリカは、北朝鮮が国内の人民を抑圧し、さらに世界のテロリストに核関連の武器を渡しているという。としても、それを理由にしてアメリカが北を攻撃することは行き過ぎである。人民の抑圧に対しては、国連、あるいは世界の多数の国が歩調を揃えて経済制裁をすることが最善であろう。

テロリストへの各関連物資の提供については、テロリストに核の脅威が渡るとき、北朝鮮がそれを意図していなくとも、それによってアメリカが攻撃される可能性は高まる。だが、北朝鮮はお金ほしさにこれをしているのであろうから、経済的援助がその動機を弱めるだろう。

ただ、こう考えると、国内民主化のためには制裁を、核拡散を防ぐためには援助を、という矛盾した行動が必要になる。ここでは、どちらを優先するかを決めねばならなくなる。

最悪のケースは、北朝鮮が何らかの理由で周辺国に攻撃を始めたときである。そのときは、日本も自衛のための反撃を行うしかない。ただ、そのとき、もし日本が日米軍事同盟破棄していたとすれば、相手が核兵器で攻撃してきたとき日本が反撃するためには、それに反撃できる核兵器が必要である。自前の核兵器が必要になる。平和国家として歩んできた日本にとって、これは内外を驚かす大転換である。しかし、今、日本周辺の情勢がこのようであるならば、日本が核兵器を持たないですんでいるのは、米国に核兵器に頼っているからだ、その抑止力に頼っているからだと言うことになる。これは本当か?日本人のほとんどはこのことは考えないでいる。擬似平和国家のもとで戦後60年過ごしてきた。それは実は文字通り擬似の平和であったのか?

仮に上の状況であったとしても、日本が核兵器を持たないですむ方法は、そして危険な米国に頼らないですむ方法は、国連軍に核兵器を持たせ、それによる抑止力に期待するものである。だが、今、常設の、地域紛争を抑止してくれる国連軍はない。この方向に進んでいくにしても、それは数年、あるいは10年もかかるかもしれない。その間、日本はどうしたらよいか。次善の策として日米同盟を続けるか、自前の核を持つしかないのか?

 

北朝鮮との関係について

日本はかつてこの国を侵略したが、いまだに彼らと平和条約を結んでいない。つまり戦争状態が終わっていない。(同様の主張例:増田俊男氏http://www.chokugen.com/opinion/backnumber/h12/jiji_001025_110.htm)ロシアとも平和条約をまだ結んでいない。急ぐべきである。

 

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 2) 世界の人々との経済関係

 

1 困窮国への援助・・・一層の慈恵性発揮へ

 

 上で、他国との平和な関係を作るためには互恵的な交易関係が必要だと述べた。互恵的とは、等価交換をその本質とする。それは公正性をその内実とする。だが、今の世界ではそれだけで済ますことはできない。現代の世界では、さらに一層の慈恵性の発揮が必要となっている。

通信と交通の発達の下で、私たちはますます多く他国の人々の状態を知るようになっている。多くの人々は、他の人の窮状を知ってしまうとそれに無関心ではいられなくなる。私たちは人間の一人として世界で同胞が苦しんでいるのを見たとき、何もしないわけにはいかない。これまでは政府が中心となって困っている国々に援助をし、さらにこれに民間の活動が加わってさまざまな援助を行ってきた。とはいえ、そのその援助レベルは私たちの満足できる水準だろうか?

工業化先進国ではこれまで各国国民の内部である水準の相互援助基準を作り、それに従って困窮者を助けるかなり高水準の仕組みを作ってきた。ときにはまだその制度が十分でなく、困窮者が網からもれる場合もあるが、かなりの人々の救援ができるところまで来た。だが、世界の、他国の困窮者に対するこの基準は確立されたものがまだない。しかし、通信活動の発達によって、世界の人々の状況が身近に伝わることにより、遠からずこうした世界的な援助基準が求められるようになり、それが実現されていくだろう。

現時点では国連の活動がその先端的なものであるように見える。(次の囲み記事参照。)

 

(注)国連の社会・経済開発について (強調部分、塚田)

 

国連は開発を促進するために何をしていますか。

 

 国連の主たる活動は平和維持であると誤解されることがあります。現実には、国連の活動で平和維持に関係するものは、全体の3割をも下回ります。活動のほとんどは開発と人道援助に向けられているのです。開発の促進を目指す唯一の地球的機関として、国連は、開発のための実際的なプログラムを通じ、世界の最貧地域に住む無数の人々の生活を改善してきました。
 開発の促進において、国連より優れた機関はありません。約135カ国でのプログラムを通じ、国連システムは毎年、250億ドルを超える援助を提供していますが、その内訳は、ほぼ50億ドルが無償援助、200億ドル以上が借款となっています。国連システムは難民、貧しい人々および飢えた人々を支援する活動、ならびに、子どもの生存、環境保護、犯罪・薬物統制、人権、男女の平等および民主主義の促進に関わっています。国連の資金は、もっとも困窮した国々と人々に向けられます。多くの国々にとって国連はしばしば、唯一ではないにせよ、主要な技術および資金援助の供給源となっています。貧困国の数百万の人々にとって、これらの援助プログラムこそが国連なのです。国連の青い旗が尊重されているのは、それが公正で持続可能な世界を構築しようとする人々を助ける人々の象徴であるからに他なりません。

 

国連にしかできないこととは何ですか。

 

 数多くの特徴により、国連は開発の促進において特に効果的な存在となっています。

その普遍性:主要な政策決定が行われる際、すべての国々が発言することができます。

その中立性:国連はいかなる国益も商業的利益も代表していないため、各国およびその国民との信頼関係を築き、ひも無しの援助を提供することができます。

その地球的なプレゼンス:国連は世界最大の各国駐在事務所ネットワークを有し、開発のための援助を提供しています。

社会、経済および緊急のニーズを包含するその包括的な活動領域

「連合国の人民」に対するそのコミットメント

http://www.unic.or.jp/know/image03.htm

 

ミレニアム開発目標とターゲット

 

目標1:極度の貧困と飢餓の撲滅

ターゲット1:2015 までに1日1ドル未満で生活する人口比率を半減させる

ターゲット2:2015 までに飢餓に苦しむ人口の割合を半減させる

目標2:普遍的初等教育の達成

ターゲット3:2015 年までに、すべての子どもが男女の区別なく初等教育の全課程を修了できるようにする

目標3:ジェンダーの平等の推進と女性の地位向上

ターゲット4:初等・中等教育における男女格差の解消を2005 年までには達成し、2015 年までにすべての教育レベルにおける男女格差を解消する

目標4:幼児死亡率の削減

ターゲット5:1990 年から2015 年までに5歳未満児の死亡率を3分の2減少させる

UNDP2003、要約6ページの諸目標より抜粋。http://www.undp.or.jp/Publications/undp_hdr2003.pdf

 

最優先国および上位優先国は59 ヵ国存在する。それらの国では前進が頓挫したり、もともとの水準がひどく低いことから、目標(MDGs)の多くを達成できない可能性がある。これらの優先国にこそ、世界の関心と資源(資金)を集中しなければならない。これらの国々は、1990 年代に多種多様な危機に直面した。

 

所得貧困:データが存在する67 ヵ国中37 ヵ国において、すでに高かった貧困率がさらに上昇した。

飢餓飢餓に見舞われている人が4 人に1 人以上いる国は19 ヵ国で、その状況は改善していないか、悪化している。90 年代に飢餓人口の割合が上昇した国は21ヵ国だった。

生存 1990 年代に14 ヵ国で5 歳未満死亡率が増加した。そのうち7 ヵ国では、5 歳の誕生日を迎えられない子どもがほぼ4 人に1 を占める。

給水9 ヵ国で安全な水が利用できない人が4 人に1 を上回り、その状況は改善していないか、悪化しつつある。

衛生設備15 ヵ国で適切な衛生設備を利用できない人が4 人に1 人を上回り、その状況は改善していないか、さらに悪化する傾向にある。

これらすべての危機の根底にあるのが経済危機である。これらの国々は、すでに極度の貧困状態に置かれているだけでなく、その成長率もまた愕然とするほど低い。

 

1990 年代を通じて、54 の開発途上国および移行経済諸国で1 人当たり平均所得が下落し、125 ヵ国で1 人当たり所得の平均増加率が3%を下回った。所得が減少している54 ヵ国の内訳は、サハラ以南アフリカ諸国が20 ヵ国、東欧・独立国家共同体(CIS)諸国が17 ヵ国、ラテンアメリカ・カリブ諸国が6 ヵ国、東アジア・太平洋諸国が6ヵ国、アラブ諸国が5 ヵ国である。これらの多くは目標(MDGs)の優先諸国であるが、なかには人間開発中位国も含まれている。

UNDP,2003,要約11ページより。同上。)

 

2 先進国と開発途上国の関係

 

 工業化先進国と開発途上国との関係・・・両者の関係は、今急速に変わりつつある。先進国の資本が急速に途上国に移転しつつある。これによって先進国では雇用が減るか、伸び率が低下し、失業問題が大きくなる可能性が増えた。資本が移動するのは途上国の安い賃金が一つの理由である。賃金コストが小さくなれば、販売価格が同じなら利潤は増える。株主と経営者の取り分は増える。彼らを資本家を呼べば、そもそも資本家の取り分の増加が企業活動の目的だから、それにプラスになる低賃金国への資本移動は当然である。途上国では流入した資本によって高い技術を持った工場が建ち、生産性が上がり、国内の財が増える。生産物は先進国でも売られ、それはより安い価格で売られるので、先進国の消費者もより大きな利益となる。だが、この消費者は同時に生産者でもあり、流出した資本によって、それまで先進国の中にあった工場が閉鎖されると、彼らは所得を失う。それは、彼らが消費者になれなくなることである。消費者になるためには、流出した資本を補うだけの、新しい生産物を国内で生産する必要がある。

()一部先進国の停滞・・・経済発展は∫字型で進むようである。特にその初期に急激な高い成長が生まれる。これはすべての先進国に共通であった。先進国は今やその先端に達しつつあると考えられる。日本もそれが1950年代半ばから1960年代にかけて生じた。この過程は、日本でも工業化が急速に進み、物的な生産性が急速に伸びた時代であった。そしてこのような高成長は人間の生活に大きな満足をもたらした。この高度成長が終わった時点で、人は、労働と余暇の交換比率を変えようと思うようになるようだ。つまり、もっと長く、または同じ時間働きつづけて、さらに生産性を、つまり消費財をより多く手にすることよりは、物的財の伸びは緩やかにして、労働時間を短くする、つまり自由時間を長くする方を選び始める。日本で週休二日制がここ10年ほどの間に急速に進んだこともその一つの表われだろう。この過程で工業製品の飽和状態に至るとき、第二次産業で不要になった労働力はサービス産業に吸収される傾向がある。1980年代末まで日本ではサービス産業従事者が増えつづけ、それもあって失業率は低かった。しかし、1990年代ではバブル不況の下で失業が急増し、失業率が急上昇した。

途上国への資本の移動・・・この速度には、しかし、限度がある。それは生産物への需要である。かりにトヨタ自動車が、貿易障壁などがなくなったとして、すべての工場を中国に移すことができたとしても、トヨタ自動車は世界で販売可能な台数しか生産しない。よって、それに必要な量の資本移動しかしない。だが、それがどの程度であるかは、日々動きつづける世界的な各商品への需給がそれを決定する。市場経済では、私たちは分業をして、生産性を上げ、他の人が欲しがるもの、役に立つものを作り、それを売って自分が欲しいものをえる。結局は、物々交換であり、何が欲しがられるかは市場の売れ行きで判断するしかない。が、逆にいえば、市場価格を見ていれば、次に何が欲しがられるかがわかるのであり、それを作った人は、その生産が広まるまでの間、創業者の利得を得ることができる。

長期の見通し・・・上の資本の移動は水の動きに似ている。一つの入れ物の水が中で二つに仕切られ、仕切りの北には多くの水があり、南には少なくあるとする。その仕切りが取り去られると水は結局高い方、つまり北から低い方、南へ流れる。こうして、異なった生産・販売市場の間の仕切りが消えていくとき、つまり経済的な国境が消えていくとき、その速度に応じて資本は移動し、それに伴って労働力需要は変化し、賃金は資本の流出国で低下し流入国で上昇する。ここで賃金といったが、正しくは生産と雇用に伴う費用すべてをさす。たとえば法人税も社会保険料もその一部となる。これらは、途上国で、労働力需給の変化に伴って徐々に上昇してゆき、逆に先進国ではやはり需給の変化に伴って徐々に低下していくであろう。(Levelling-off theory - Tsukada)この両者の水準は最後には等しくなろう。この平準化するときが、資本がどの国でも同じ利潤率しか得られなくなったときであり、資本の北から南への大きな動きが止まるときである。もちろんそのもとで、技術進歩の変化に応じて、通常状態といえる規模での資本移動は起こるだろうが、現在起こっているような大きな動きはもはや生じないであろう。

急激な移動と福祉国家の変化・・・急激な北から南への資本移動は、北の労働者の生活を悪化させる。ところで、南では経済発展に伴い、社会政策も発展する。ここで、賃金、税、社会保険料を上昇させる社会政策は、途上国内では生産コスト上昇を促進し、先進国では生産コストの低下を遅らせる。しかし、先進国では、自国資本が途上国に移動することを抑えるために、企業に対する負担は、途上国や先進国の競争相手国の水準に近づけざるを得ない。ここで福祉国家の後退という現象が生じうる。

かりに先進国でこうしたコストを比較的高く維持し、自国資本が途上国に移動することを放置するならば、失業が拡大する。しかし、サービス産業の成長がそれをカバーできれば、それでも完全雇用は実現し得る。たとえばスウェーデンのように労働者の半分が政府に雇用されているといった場合はこの効果が出ている。しかし、かりにサービス産業での雇用が増えても、工業部門で雇用と生産が大きく減れば、実は生活水準は低下する。たとえば国民のすべてがサービス産業に従事する(たとえば理容師)ようになったとき、テレビや自動車を作るものはいなくなるので、もはや国内ではそれを入手できない。理容業は輸出することはできないので、それで外貨を稼ぐことはできない。この場合、完全雇用はたやすいが、生活水準の維持は難しい。もっとも、この国の理容業を海外が高く評価し、この国に来て髪を切るようになればそれは可能であるが。

では、海外移転した資本に代わり「国内にとどまる資本を育てる」ことは、どの程度可能か。またそれによってどれだけの生活水準が維持できるか。一つの可能性として、たとえば、ある愛国的なテレビ製造企業が生まれ、何があっても国内にとどまるとしよう。まず、この企業は原材料を海外から輸入せねばならないとしよう。それには外貨が要る。するとこれを海外に売るために、海外の企業に太刀打ちできる安い価格と良い性能を持たねばならない。性能は高い技術水準でなんとか達成できるとする。しかし価格は、国内の高賃金によって高く維持されるであろうから、海外に輸出できるためには、輸出商品に対する特別減税によって税制面での優遇措置をとらねばならない。だがこれは結局国内の所得をその分減らし、海外に移転することであるから、結局は最初から低い賃金や税金で生産しても同じことになる。

 

途上国の社会政策・・・の発展について考えてみよう。この国が外国資本の直接投資を受け入れつつ急速に発展していくためには、低い賃金水準の競争力を打ち消してしまわないような範囲でのみ、社会政策を強化することができる。その強化の程度は望む成長速度と望む社会政策の程度の間での選択による。具体的にはこれは各国での労使政の交渉による。ところで、そこに先進国からの政治的力が加わったとしよう。たとえば国連が、途上国の最低賃金、社会保障水準について、人道的立場からそれを引き上げるよう要請を行い、これが立法化されたとする。この場合、企業の利潤率は低下し、その企業の投資額は小さくなり、その国の経済成長率は低下する。それによって、たとえばその国の農村から都市に移る労働力の移動速度は低下し、より多くの農村の過剰人口(これが存在するとして)が農村に滞留しつづける期間が長くなる。これが同国にとっての損失であるとすると、社会政策を強化することはいつも途上国にとって利益になるとは限らないことになる。

 

このような問題が生じ得るとき、政府はいかに行動すべきか。大きな指標としては、途上国において、そのときの賃金と社会保障の水準を変化させる(たとえば上昇させる)ことがもたらす福利と、そのときの経済成長の速度を変化させる(たとえば低下させる)ことがもたらす福利と比べることで、政策を選択すべきであるということになる。このとき判断が難しいのは、異なった影響を受ける人たちの福利の幅と深度である。結局それを判断する方法は、政府がありうる変化とその結果を予測し、国民に提示することで、主権者の賛否を求める以外にない。

 

慈恵性による再分配・・・もう一つの基準、すなわち世界の人々の間の慈恵性という視点から見たとき、人々は公正性の基準から離れ、世界における所得の再分配を実行することがありうる。だがそれはあくまで自発的な行動としてのそれである。世界の各国間では、一国内と違い、たとえば国ごとの賛同者が多いからといって、北の所得を南に再分配することが強制力を持って行われることはない。世界には一国内と違って、そのような強制力を持つ組織(世界政府)は少なくともまだ存在しない。その可能性は世界の人々が、今後どれだけお互いを身近な同胞と感じるようになるかによる。(私見としては、このような感情は今日、徐々に強化されつつあるように見える。)

 

3) 国内の経済競争と幸福

テキスト ボックス:  2012年1月5日追記
 ★2011年は地震・津波・原発事故があった。自然の脅威を強く感じた。人間の原子力管理能力の低さも。
 ☆しかし、自然に対しては、たとえ明日地球が崩壊し、人間が滅びる可能性があるとしても、それが起こるまでは人間は予測できる状況を想定して、その枠の中で最善の行動をとるしかない。とりたい存在だろう。
 ☆毎日の糧を得る行動がその中心だ。国単位では、発展する新興国と、足踏みする先進国がある。後者の中では生活の、幸せの格差が大きくなっている。そこでの大きな問題の一つは、市場経済と政府、または個人の活動と、その枠組み、である。すでに起きた米国発の金融・経済恐慌、現在起きている欧州金融危機、先進国の社会保障制度の動揺。これらはこの問題の表れである。これをどうつかみ、対処していくか。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 上のような、国際的な新しい問題への取り組みが必要となり、またそれに対する対応が進みつつある一方、国内の経済活動においても解決していかなければならない基本的な問題がある。経済的問題と言っても、現在、それは、もはや、もっと多くの物質的豊かさを実現するためにはどうすればいいかというものではないであろう。むしろ、ものと心、経済と社会のバランスをどう取るべきか、というものに変わってきていると言えよう。その一つの表現として、今日本の社会では人間の生き方として「経済競争に勝つこと」が前面に出すぎていると言う問題がある。これについて、以下、拙著『社会システムとしての市場経済』に述べた私の考えを示す。1997年のものだが、今もこの内容が日本の経済問題の大きな一つとして続いているように見える。

 

一つの仮説:現在の日本社会と先進資本主義国での最大の問題は、そこでは人間の中にある類性が否定されつつあると言うことではないか。そしてその原因は、市場経済に備わっている競争重視の性質にあるのではないか。この性質が無制約に発揮されるときは、それが人間をして、その類性を放棄させる、という関係が存在しているのではないか。

 

(以下、「後書き」よりの一部抜粋)


 確かにそうかもしれない。日本の人々が幸せになる道は、たとえいじめが増えて、自殺が増えて、オウム事件のような社会的不安が倍増しようとも、世界的競争に勝っていく道しかないのかもしれない。だが、・・・そうではないのかもしれない。別の道があるのかもしれない

 

 「分裂するアメリカ」を危惧する本が近年アメリカ合衆国で立て続けに発行された。日本について言えば、国内の受験競争と出世競争と、そして海外低賃金労働力との倍加された競争とは、実は日本社会が「成長」していくために必要な試練であり、それに「負ける」者は人間社会における不要な部分なのかもしれない。・・・しかしそうではないのかもしれない。「人間は、誰のどのような生き方を求めて」、生きており、そのためにはどのような手段を採るべきなのか。「競争」が私たちを追い立てる力は強大である。「自由競争」と呼ばれる「自然的な力」は、私たちの進路をますます速く、強力に決定していこうとしている。しかし、それは私たち自身が生み出した仕組みであり、ルールである。もしそれに対して不安があるなら、私たちはそれを再考し、改善することができる

 

 さらに、現実の社会における分配の問題は、正常範囲の生産能力を持つ人々の間での分配基準としての公正性とともに、生産能力に欠ける人々と通常能力の人々との間での分配方法の問題、すなわち慈恵的分配基準の問題をも含んでいる。社会的弱者に対する再分配、とくに慈恵的分配の動機はどれだけ強いものか。その具体化としての現実の再分配制度はそれに適したものか

 

 

(全文)次は上記の抜粋が含まれている後書きの全体。

 

 「人間、いかに生くべきか?」これはもう30年近く前、私が高校生のとき、(おそらく)「倫理社会」を教えてくれたある先生の言った言葉である。その時の教室の先生の姿と、学生服を着て、今はもうない薄暗い古い木造の教室で先生の授業を聞いていた自分たちの姿が今もはっきりと目に浮かぶ。どう生きたら良いのか、「自分の」人生を生き始めたばかりの高校生の私には、気持ち良くも重い言葉であった。

 

 政治経済の授業で、ある教科書の叙述が印象に残った。「戦争は人間の好戦的な性向にもよるが、その背景には経済的動機があることが多い。」自分の生き方を考え始めた私には、仮に自分が戦争で死ぬことは受け入れがたいことと思えた。私は戦争を始める人間にはならないし、なりたくはないと強く思った。多くを望みすぎるとき、人は人と対立するのであろう。そうでなければ、そしてそうでない人がほとんどであろうが、人はきっと平和的に協力する方法を見つけることができる。しかし、指導者、権力者はしばしば国民を強制して戦争に駆り立てる。戦前の日本、ドイツ、戦後の朝鮮戦争、ベトナム戦争。教科書の、また自分で選んで読んだ戦争関連の本の叙述は、みな、平和を望む国民多数と、戦争を始める指導者たちとのギャップを、つまりは戦争を「止むを得ない」と考える指導者と、それを望まない国民とのギャップを示していた。

 

 しかし、背後にある経済的動機とはなんだろう。領土欲か。富、財宝への欲か。いったい誰のための?戦争で死ぬという理不尽な死を自分は押しつけられたくはない。戦争を引き起こし、国民の多くを巻き込む真の動機は何か。それは「国家」の、または「社会」の動機なのか。いったいどのような?これを解明できれば、戦争を防ぐ方法を見つけられるかもしれない。私はこの問題を考え続けたかった。上の文章の載っていた政治経済の本の執筆代表者は一橋大学の都留重人氏だった。この大学へ行って、この問題を考える研究者になろう、私は進路を決めた。

 

 大学入学前に、1年間アメリカ合衆国に高校生として留学する機会を得た。暖かく迎えてくれたホスト・ファミリーと近隣の人たち。やはり、人間は同じだ、そう確信できたことはいちばんの収穫だった。しかし、ベトナム戦争が進行していた。私の通った高校にも、廊下に、ベトナムで戦死した卒業生の写真が数枚飾られていた。ホストファミリーの父親は第二次大戦に参加していた。とても暖かい父親だが、「もし徴兵されたら、喜んでアメリカのために戦う」と言った。迷わずそう言える、「祖国」を愛している父親だった。日本の私の父も彼と同年輩である。彼は戦時中鉄道員として働いていた。戦闘機からの機銃掃射を受けて貨車の下に隠れた経験を話してくれたことがある。彼は兄を戦争で失った。彼はおそらくアメリカの父ほど、心から「祖国」の徴兵に応ずることはないだろう。私の帰国後、ベトナム戦争は終わった。それはアメリカ合衆国の歴史上の苦悩として残った。それから四半世紀経った。今アメリカの父に同じことを聞いたらなんと答えるだろうか。

 

 1972年に大学へ入った。ベトナム戦争は、日本の米軍基地を経由して日本の社会に入り込んでいた。ナパーム弾と枯葉剤と、それに対抗するゲリラ戦術と、背後にある両陣営と。テレビに映る残酷な戦争ニュースを毎日見ながら私たち学生は食事をしていた。学生の研究会に入り、ベトナム戦争を、戦前の日本の社会、経済、戦争への道を考え始めた。大学院ではベトナム戦争の直接の当事国の一つだったアメリカ合衆国の経済状況を学び始めた。現代アメリカ経済・社会の基礎を形づくったといわれる1930年代に焦点を当て、大恐慌直後の現代アメリカの社会・経済体制の形成期を研究し始めた。

 

 その過程で、政府の活動内容には「社会的意識」のありかたが重要な問題となることを学んだ。「誰のために、どのような効果を狙って」、「どのような手段を採るか」。手段の部分はかなり「科学的」、「客観的」に決められる。だが、「目的」はそうではない。その政策は誰のために行なったのか、と問われたとき、F・D・ルーズヴェルトも「失業者と貧窮者のため」と答えるしかなかったであろう。現在の先進国の為政者は、「低所得層は十分恵まれるに至った。今救われるべきは中間層である」と言うかもしれない。誰のために、は漠然としたものではあるが、しかし現代社会ではそれがすべてを決める、すべてに影響する。ニューディール以降、そしておそらくすべての先進国で、1930年代以降、この「誰の、どのような状態をめざして」の問いは、政府の役割の増大に伴って、枢要な問いとなった。

 

 おそらくこのことを意識して、私の問題意識は徐々に人間と社会に関する外在的事実から内在的事実へと移った。戦争は社会が生み出す、そして直接は政府がそれを始める。1930年代以降の現代社会では政府の役割が決定的となった。現代の政府はしかし、民主的政府である。国民多数の意志で動くはずである。それは国も社会も同じである。その国民は戦争を望まない。しかし現実に多くの戦争は起こった。国民の多数がそれを望んだのか。彼らは自分が何を望んでいるのかを本当に知っていて、それを選択したのか。

 

 私たちはどのような生き方を望んでいるのか。とくに、現代のような進んだ分業と交換社会の中で、私たちはどのような協力の仕方を望んでいるのか。戦争の背景としての経済的衝突とはそもそも人間にとって何なのか。戦争を、あるいは日常的な衝突を生む基本的要因は何か。両大戦は「自国勢力圏の拡大」という、他国の人々を手段としてのみ見る、彼らの人間としての尊厳を顧みない動機の下で行なわれた。だが、民主主義の発達の下で今ではそれが困難となった。現在生じ得る戦争は、冷戦であれ、湾岸戦争であれ、民族間紛争であれ、その重要な部分はその民主的な生存方法を否定しようとする者に対する抵抗、すなわちもはや耐えられぬ程強い「我々は不当に扱われている」との認識から生ずるものであろう。そしてこれこそが、現代の人間社会におけるすべての衝突の基本的要因であるといえよう。

 

 そうであるならば、その逆の正常な状態、すなわち私たちが「正当に扱われている」と考え得る人間関係とはそもそも何か。人間の生存を支えるという意味では最も重要な人間関係としての経済関係において、私たちはどのような分業と交換のルールのもとでならば、平和的に協力できるのか、そのような気持ちになれるのか。これが今私たちが直面している問題であろう。

 

 人間は自然と戦わねばならない。そのためには人間同士争うのは愚かなことである。戦う前に仲間割れをしては自然に勝てはしない。What the world needs now is love, sweet love,it's the only thing that there's just too little of,..Lord we don't need another mountain, there are mountains and hillsides enough to climb, there are oceans and rivers enough to cross, enough to last till the end of time.(c 1965 H.David & B.Bacharach)自然との戦いにおいて我々には協力してなすべきことが文字どおり山ほどある。仲間割れをしている閑はない。

 

 しかし、今日でも戦争をはじめとする人間間の生死にかかわる衝突はなかなかなくならない。そして、この問題に取り組むとき何よりも現代の社会人を悩ます新たな問題は、人間間の結びつき、連帯感の一層の弱まりとも見られる現象である。日本の社会では、こどもたちの成長過程にそれが見られる。いじめ、自殺、学校行事中止を要求する脅迫、受験競争による偏った成長。大人社会でも、政界、官界の汚職、地方自治体の裏金づくり。その一方での過労死の頻発。さまざまな「社会病理」的、人命軽視の事件。これらの共通した背景には、そのなかで私たちが生きてきた現行市場経済システムの不備、なかでも、行き過ぎた企業間競争と、そして新たな国際間競争の激化が見え隠れする。

 

 日本社会は高度成長期を経て、1980年代末に「これからは真の豊かさが必要」だと認識し始めたように見えた。当時の宮沢首相はこれからは「公正さと真の豊かさ」が味わえる社会をつくるのだと唱えた。それはとりもなおさず、それまでの日本の歩みに欠けていたものへの反省であったはずである。そこではおそらく、過度の競争社会が生み出す歪みを是正することが焦点だったはずである。しかし、「ゆとりと豊かさ」は今日再び後景に退いていくかに見える。「世界との大競争」のかけ声の中でこの声はかき消されていくかに見える。対外的競争に勝つために金と人の重点配分を、とは私たち大学人の周辺でも、政府と文部省から最近頻繁に聞こえる声である。

 

 確かにそうかもしれない。日本の人々が幸せになる道は、たとえいじめが増えて、自殺が増えて、オウム事件のような社会的不安が倍増しようとも、世界的競争に勝っていく道しかないのかもしれない。だが、・・・そうではないのかもしれない。別の道があるのかもしれない

 

 「分裂するアメリカ」を危惧する本が近年アメリカ合衆国で立て続けに発行された。日本について言えば、国内の受験競争と出世競争と、そして海外低賃金労働力との倍加された競争とは、実は日本社会が「成長」していくために必要な試練であり、それに「負ける」者は人間社会における不要な部分なのかもしれない。・・・しかしそうではないのかもしれない。「人間は、誰のどのような生き方を求めて」、生きており、そのためにはどのような手段を採るべきなのか。「競争」が私たちを追い立てる力は強大である。「自由競争」と呼ばれる「自然的な力」は、私たちの進路をますます速く、強力に決定していこうとしている。しかし、それは私たち自身が生み出した仕組みであり、ルールである。もしそれに対して不安があるなら、私たちはそれを再考し、改善することができる

 

 冷戦後に残った現状の市場経済の仕組み。ともすると人々を、自らの意志に反して過剰な競争にも駆り立てる仕組み。それをどう評価すべきなのか。それは真に我々の望むものなのか。この本で考えたのは、この問題であった。問題の焦点はおそらく、現代社会において人間が「正当に扱われている」と自覚できる人間関係、経済関係にある。効率・競争と「正当な扱い」の感覚とは両立することができるのか。人間間の経済関係の焦点は、それが協力によってより多くの成果を求めることを目的として結ばれるものである以上、負担と成果の分配関係にあるいかなる分配関係が、人々に自らが正当に扱われていると感知させ得るものであるのか。この「正当な扱い」を保証する分配ルールが、言い換えれば経済的分配ルールの公正性こそがそこでの第一の焦点となろう。効率と競争の長所と公正性とをともに両立させ得る負担と成果の分配ルールとはいかなるものであるのか

 

 さらに、現実の社会における分配の問題は、正常範囲の生産能力を持つ人々の間での分配基準としての公正性とともに、生産能力に欠ける人々と通常能力の人々との間での分配方法の問題、すなわち慈恵的分配基準の問題をも含んでいる。社会的弱者に対する再分配、とくに慈恵的分配の動機はどれだけ強いものか。その具体化としての現実の再分配制度はそれに適したものか

 

 以上の問題意識からの公正性と慈恵性の内実の考察と、その具体化の方法への一歩前進が本書の課題であった。

 

 1997年5月21日

 

 以上、拙著『社会システムとしての市場経済』(1998年、成文堂)の後書きより

 

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(参考)市場経済機構を原動力とする社会がどのようなことに注意すべきであるかについて。

以下は、この問題に関して、上記拙著の前書きに記した叙述である。

 

  社会科学は社会の改良を目指す。

 では、社会とは何か。社会とは人間がよりよく生きるという目的のために作りだした一つの手段である。人間の目的は一般に、人、物、人間関係の獲得にある。人とは異性と家族である。これらの獲得は個人的問題であるから、ここでは扱わない。次に、人間は衣食住などの物=生活手段を必要とする。そして人間はこれらの物を得るために協力する、すなわち協力関係としての人間関係=社会を作り出す。この協力の仕方は労働の負担と成果の分配という行動として現れる。その時人間は、成果それ自体から、またそのための協力関係からも満足を得る。この満足の合計が人間の社会に対する満足の程度を表し、その大小がその社会を改善する必要性の有無を規定する。

 

 現代日本社会では人間関係に対する大きな不満が存在しているように見受けられる。人間間の協力関係に対する不満は一般に対人的敵対行為として現れる。近年の日本社会のそれはたとえば子供社会のいじめであり、大量殺人を伴う反社会的集団の登場として現れている。これらの問題現象への対極的概念としてしばしば登場するようになったのは「公正性」、「思いやり」、「本当の豊かさ」などの言葉である。それらは戦後高度成長のもとでも見えかくれしつつも、1970年代以降の「安定」成長の下で広く論じられるようになった言葉である。しかしまた、これらは近年再び「世界的大競争」のかけ声のもとに後景に退いて行くかに見える概念でもある。これらの現象、言葉が意味するものは何か。現代社会の人間関係において「社会的病理現象」という言葉を生み出すほどの否定的現象はどこから生じ、どうしたら解決できるのか。この問題への取り組みはまだ始まったばかりである。

 

 この「社会的病理現象・閉塞感」と「経済的閉塞感」の両者に同時に直面しているのが現在の日本社会であるとすれば、そのような社会状態への反省とその打開こそが、そして、社会・経済政策の出発点としてのめざすべき社会像は何かという課題に取り組むことこそが、今現在我々が最も力を注がねばならない課題の一つであると言えよう

 

 この問題に取り組むことが本書の課題である。そのために、本書では経済社会の「枠組み」、「骨組み」の把握を試みる。そもそも経済社会とはいったい何か。それはどのようにつかむことができるのか。部分的にではなく、我々が現行「社会」そのものに問題を見いだしたとき、その解決の助けとなるような総体的な見方を手に入れることがそこでの課題である。そこで私が主張するのは、社会とは、あるいは経済社会とは、まず第一に、私益を第一とする個々人が協力のメリットを求めて形成するものであること、第二に、そのようなものとしての社会には効率性と公正性・慈恵性の三つの要素が必要であること、しかし、現代社会では効率性が重視されすぎ、公正性・慈恵性の要素が軽んじられていることである。ではそれがいかなる意味でそうなのか、それに代わる公正性、慈恵性の比重の本来の大きさとは何か、また、それを実現するための具体策は何かが次に論じられる。

 

 戦後先進国社会を対象に、現代の人間社会の協力関係における最も重要な問題は分配ルールのあり方にあると初めて論じたのはジョン・ロールズであった。彼はそれを功利主義と社会契約説との対立として描いた。彼の理論は多くの人の心と思考をつかみ、多くの研究者をこの分野に引き入れる役割を果たした。

 

 だが、彼は公正性の欠如という現象を、その原因にまで遡って考察しなかった。彼は一方で経済財の分配が問題であることを指摘しながら、孤立した人間がいかにして公正なルールを作り得るかのみを抽象的に問題とした。問題はどこにあるか。原因は何か。解決策は何か。体系的に見えたものの、彼の議論はその中核としての原因論を欠き、それゆえ対策論も無知のヴェールという抽象的なものに終わらざるを得なかった。彼以降、現代における分配ルールの問題は、経済学、法哲学、政治学など広い分野で扱われてきたが、その問題把握の体系性においても、またそれゆえに個別諸分野の問題の設定、研究においても、いまだこの体系的な分配ルールの問題の研究は始まったばかりであるといってよい。

 

 分配ルールであれ、その一規定要因としての目的主体観(本論参照)であれ、従来与件としてきたものを変数としてとらえ直す、これは理論的にはなんら問題のない操作であっても、人間社会についてそれを行うことは、従来与件としてきたこれまでの社会像という時間的、空間的に巨大な現象を対象としてとらえ直すことでもある。それゆえ、これまでの「市場経済制度」を与件として進化してきた従来の経済学にとって、そもそもこのシステムの基本構造とは何を意味していたのか自体があらためて問題となるほど、この問題の探求は容易なものではない。経済学は人間の社会的活動を扱うものである以上、それに対する反省は不可避的に社会的構造全体に関わるものとなる。生産における効率性、負担と成果の分配における公正性と慈恵性の両者をトータルに扱い、複眼的にみた望ましい社会状態を解明しようとするとき、そのためには経済制度、社会制度の最も基本的なあり方まで遡った考察を行わざるを得ない

 

 社会制度が人間の作り出したものである以上、人間の他のすべての創造物と同様に、我々はそれをその目的と手段との二点から評価、考察することができる。それはどのような目的をもつか。その目的は過去と現在とで変化しているか。その目的に対して現行制度は最適な手段、内容となっているか。これらが経済、社会制度についても解明されるべき基本的問題となる。

 


 

2 日本の社会、これからどうあって欲しい?

 〜政治、軍事、経済、社会、こんな風になって欲しい、のひとつの例〜

2002・1・25、2003・1・13、5・13、2004・4・3、2005・6・23)

 

私たちは個人として、本を読みたい、学びたい、おいしいものを食べたい、スポーツをしたい、とか、恋人が欲しい、とかいろいろ希望や願いがある。

では、社会の一員として、私たちはこの社会に対してどんな希望、願いをもっているだろうか?

 

その最も基本的なものは、活力と安心、といってよいだろう。つまり、ものが豊かにあり、同時に病気、老齢などのときも安心して生きていける社会であってほしい、という願いである。この願いはどのような国でも同じだろう。

 

この二つを究極目的として、今、日本国民の大多数がこの社会に対して望むものは次のようなものではないか?

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1)政治・・・公正な決定

2)世界の紛争・軍事・・・平和

3)経済・・・豊かさ

4)社会生活・・・対人的安心

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 これを一言で言えば、良い政治と、世界平和のもとで、人々がしっかり働き、正しく分け、仲良く暮らせる社会」である。このような社会を私たちは求めているであろう。中でも政治は2)3)の枠組みを決め、ひいては4)を決めると言う意味で、第一に重要である。そのもとで人々がしっかり働き、正しく分けるならば、人間は仲良く暮らしていけるはずである。

 

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以下、これら四つについて私たちが特に願っていること(と私が考えるもの)を順に見ていこう。

 

1)政治

 

汚職はなくなって欲しい

 ・汚職の例

リクルート事件(未公開株を政治家に渡し、見返りに自分の企業のために特別に行動してもらう)

  自民党の加藤議員、民主党議員の私設秘書の汚職、そして自民党の鈴木議員

  2005年6月には、公共事業の橋梁建設の入札に関する談合が話題となっている。通常、80%前後の入札値になるはずのものが、ずっと96、97%となっているとは。(これは国民が自分のために自分で使えるはずだった税金が、こうした業者に不当に取り上げられていることを意味する。)

・企業の政治献金は正しいか?

それは企業が儲けるための投資である。政治家が献金の額で政治を行い、その額が企業のそれが個人のそれの合計より大きければ、政治は企業のものとなる。しかし、企業は儲けるための存在である。個人は人間の総体である。政治は主権者の意思に沿って行うべきものである。ならば、政治は選挙に表された結果に応じて行うべきものであり、献金額に応じてのものではない。寄って、企業献金は禁止されるべきである。

・政党助成金は正しいか?

現行の分配方法は分配方法が不平等であるので不正である。政治活動を行う政党、候補全員に均等配布すべきである。

 

官僚の能力をあげて欲しい。

 ・医療、食料に関する不祥事を見ると、特に厚労省、農水省は、能力が不足しているのではないか?直接人命に関わるところだけに、もっと能力を上げるべきである。

 

貧困国の人々をもっと助けたい(国内にも困っている人はいる。だが、何万人も飢餓に直面しているという状況が海外にはある。これに対して何とかしたい。)

 ・飢餓状態への支援

・就学支援

・紛争・戦争・暴力解決への支援

パレスチナ問題解決への支援

アフガン支援

イラク問題解決への支援

   地雷撤去支援

→まず、支援の実態がわかりにくいことから改善すべきだ。政府の広報をもっとTVで流す?

 

政府は国民に情報を公開してほしい

 ・公共事業・・・道路公団に関して猪木氏らは公開情報をもとに汚職を摘発しようとしている。国民、官僚はそれを応援すべし。

 ・地方の各種団体への補助金など(開発、大学設置など)・・・そもそも県民に対して、為政者による説明が不十分ではないか。議会の力に待つべし?

 ・戦時の情報統制・・・民衆の目と耳をふさぐとき、その政治家は独裁者になる。戦時では「味方の兵士の命にかかわる」、戦略、戦術は秘密でなければ不利であるなどの理由で秘密にされるときがあった。だが、マスコミの取材は許すべきである。そうでないと後の検証ができない。

(大本営発表、とは、情報統制の最たるものの例としてしばしばあげられる。日本は当時、そこここの戦いでで負けているのに勝っているとうそを発表した。うそであったが、これによって兵士達は元気が出て次の戦いでは勝つかもしれない、だから、全体の戦いから見ると、そのうそは許される、という理由だったのだろうか。この考えは正しいか?たしかにうそも時には許される場合があろう。失恋で自殺しそうな人に、「実はあの人はあなたがすきなのだから自殺を止めなさい」と言って思いとどまらせる場合はそれである。では、大本営発表はどうか?それが結果として敗戦につながったから許されないのであり、勝っていたら許されるのか?もちろんこの問題の背景には、あの戦争がそもそも正しかったのか、という別の問題があるのだが。)

 

正しい選挙制度であって欲しい

 ・小選挙区制と比例代表制・・・比例代表制を主とすべきではないか。

  2009830日投票予定の衆議院選挙の公約で、民主党は比例制の議席をかなり減らす提案をしている(18080に、だったと思う)。ここには民意を代表するとはどういうことか、議員代表制とはどういうことか、という根本的な問題点がある。民意を代表する選挙制度は本来、死票を極小にすべきものと思う。それに最適なのは比例代表制であろう。これは死票が非常に少ない。小選挙区制は死票が非常に多くなりうる。小選挙区制提案の理由は少しでも優位な党が議席総取り的に圧勝できることによって次の任期の期間は政治が安定する、というものだった。だがこの安定とは反対党とその支持者の意見を無視しやすくするというものでもある。反対者が多いような不安定な問題があるときは国民の意見も大きく分かれているときだ。そのような時はまさに議論を尽くして合意を求めるべきだろう。時間がないときはやむをえない。だが、国論が分かれるようなときほど、決議を先延ばしして議論を続ける方が良いのではないか。

 

 

2)世界の紛争・軍事

 

国土を巡る紛争、一国内の部族紛争は早く終わって欲しい。

  イスラエル・パレスチナ紛争 (今吹き荒れているテロの根源)

  ソマリアなどの部族間紛争

→そのために日本は何ができるのか?(Ask what you can do for the people in the world.)

 

独裁的支配者の国ははやく民主化されてほしい

  北朝鮮

  中東の幾つかの国

→北朝鮮・・・03110の安教授(福井県立大)の話で、北朝鮮の特徴づけは納得できるものだった。思想大国路線、軍事大国路線、経済大国路線を目指している。だが、実現しているのは軍事のみ。思想は主体思想から唯一思想へとますます独裁色を強めた。確かにこれらの言葉が、マスコミで報道される北朝鮮の情報に照らし合わせると、その特徴づけとしてかなり合っているように感ずる。では、それに対して何をすべきか?安氏の言うように、現体制の存続を容認し、同時に経済援助を強め、その過程で市場経済を進めさせていく。それによって、国内経済の透明化、(そして、国民の変化?)をもたらす、のが最善か?確かに、金正日ら指導部は、現体制の(そして自らの?)存続を非常に心配しているようだ。イラクを見ていると人事ではないと思えるだろう。ブッシュ政権になってからイラン、イラク、北朝鮮を悪の枢軸とさえ呼んだのだから、「次は自分か」と恐れるのも当然だろう。

→とはいえ、そのアメリカも、自分の利益のために行動し、他国民を抑圧している。パレスチナ、イスラエルの問題がそれである。どの一つの国も、いつも正しいとは限らない。だから集団での思考が大切だ。アメリカに、また少数の国に世界の正義の実現を頼ることは誤りだ。多くの国々が知恵を寄せ集めて行動すべきだ。

 

軍事力による他国支配はしたくない

  アメリカとアフガン

  アメリカとイラク

  他にも、アメリカは中南米の複数の国々のクーデターにかかわっていたとの報道がある。典型はチリ、アジェンダ政権。

→アメリカの行動には、「反撃、先制攻撃」とともに、しばしば石油の獲得、エネルギー資源の獲得、の意図がちらつく。自国民、(いや、自国企業?)の利益のためなら他国民の少々は死んでも仕方がない?そう考えているとしたら恐ろしい。さらに、もし彼らの思考の中に、「神」のため、というものがあったとしたら、それはたとえばかつての米空軍の誰かが真剣にそれを書く攻撃することを検討していたといったところまで進んでしまうもしれない危険を持つ。神のためなら、自国民の半分が死んでも、悪魔を殺すことの方が大切なのだ。もしこうした思考があったとしたら、それはかつての日本の神風信仰に似ている。私は、アメリカにはこの部分があるのではとの疑念を持っている。

 

過去の侵略戦争に対して正しく判断したい

小泉政権のもとで靖国参拝問題が大きくなった。次の総理となるかもしれない安部氏はこの点では小泉氏と同様の立場だ。さらに近隣諸国との関係が悪化するのではないか。そもそもこの問題はどう考えたらよいのか?

この問題の本質は、日本の当時の「大東亜戦争」をどう考えるかだ。侵略戦争一般の是非ではない。一般的にはそれは悪いことは誰もが認めるだろう。問題は、当時の日本があのような大陸出兵、侵略、領土化をしたことが正しかったのかどうかだ。歴代日本政府は、また小泉氏もそれは悪かったと述べている。だが安部氏はこれを問われて、それは歴史が判断することだと、これまでの総理とは違った態度をとっている。おそらく、その根底には、この戦争が正しかったのではないかとの疑念があるのだろう。

 私の判断は、誤っていた、というものだ。安部氏はおそらく「こうすることでしか当時の日本は生き延びることができなかった。こうすることでしか日本は植民地化を免れなかった」と考えているのだろう。この点がおそらくこの問題をめぐる最大の争点であろう。しかし、私は、当時の日本は防衛力を強めることだけで、植民地化を免れ得た、と推測する。日清戦争にも勝ち、日露戦争にも勝った。そのような軍事力を持った国として、すでに日本の軍事力の強さは世界に証明されていた。そのような国をもはや他国が植民地化できると考えるはずがない。冷静に考えれば当時の日本政府もそのように判断できたはずだ。それがなぜ当時の天皇以下、政治指導者たちは判断できなかったのか。不思議なくらいだ。

それとも、この点は判断できていたが、それ以上に欲を出して「アジアの解放」をめざしたというのか?だがそれにしては余りにも韓国併合、満州国建国、さらに中国内部、東南アジアへの戦線拡大などと、「友邦国」に対するよりは「目下の植民地」に対するような行動をしていた。

他国を当時は防衛力を積みますことで十分だった。それ以上はする必要がなかった。それなのに他国に戦争を仕掛けた。これは誤りだったのだ。他国に迷惑をかけた、との歴代総理の談話は正しかった。する必要のない戦争を仕掛けたのだから。安部氏はこれを理解すべきだ。あれは防衛戦争ではなかった、自国の利益のためのみの侵略戦争だった。

ならば過去の過ちは正さねばならない。その方法は、相手国に償い、友好関係を結ぶことだ。今、安部氏はそれができない。それができるまでは彼は総理になる資格がないのではないか。(060913

 

日本はできるだけ平和的な手段で紛争の調停に力を尽くして欲しい。

 →これこそ日本も、世界も期待することだ!平和のための努力の先頭にたつこと、これこそ、科学技術の開発よりももっとうれしい、世界の誰もが望む人間の進歩だ。

   →先日(20068月中旬)、靖国参拝と防衛を巡るNHKの討論番組があった。被爆したある出席者は、「負けることがわかっていた1945年初めでも、まだ政府は戦争を続け、沖縄、日本の各都市、そしてとうとう広島、長崎と大量の犠牲者を出した」ことを憤っていた。なぜ彼らは本土決戦などと戦争を続けたのだろう?

(参考:日本政府においては、「国体の護持」(主として天皇制の維持や軍備の保持)などを掲げた戦争終結工作がはかばかしい結果を生み出さなかったために、戦争継続方針が採用され、なし崩し的に日本本土における戦闘を計画することとなった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E6%B1%BA%E6%88%A6

小泉氏は戦死した兵士を追悼したいという自分の心には忠実だが、それによって他者の心、戦争を正しいと主張して裁かれたA級戦犯たちをも追悼することが300万人の何倍もの人が日本兵士によって殺された国々でどのように受け止められるかという他者の心の痛みには思いを巡らすことができない人なのだろうか?

(参考:15年戦争での日本人の死者310万人、中国人の死者2400万人?・・・『世界大百科事典』(平凡社)では、『十五年戦争(太平洋戦争〔1941-1945〕、満州事変〔1931-1937〕、日中戦争〔1937-1945〕の総称)の日本人犠牲者は,戦死または戦病死した軍人・軍属約230万名,外地で死亡した民間人約30万名,内地の戦災死亡者約50万名,合計約310万名に達した。・・・・これに対し,中国の犠牲者は軍人の死傷者約400万名,民間人の死傷者約2000万名にのぼり,フィリピンでは軍民約十数万名が死亡したと言われているが,その他の地域の犠牲者数は不明であり,日本軍と戦ったアメリカ,イギリス,オーストラリアなどの被害も物心両面にわたって甚大なものであった』。十五年戦争による中国人の犠牲者数は軍人と民間人を合計すると実に2,400万人に達したことになる。http://www.asahi-net.or.jp/~pb6m-ogr/ans074.htm

 

防衛は自分の力で。外国の軍事基地はいらない。

・日米軍事同盟はやめる。

→イラクにおける米国の行動を見ると、2003年に不正義の戦争を仕掛けたのは米国である。その米国との軍事同盟は即刻止めるべきである。その上で必要ならば自衛力を強化すればよい。(核まで持つべきかは国民の判断による。)(参照→)

・自衛隊

→中立、非同盟の自衛隊とする。世界の紛争に対しては国連軍の一部となって行動すべし。世界の警察官はアメリカであってはならない。最も誤りの少ない決定、思考は、集団によるものだ。「三人寄れば文殊の知恵」なのだ。

 →戦争が避けられないとき・・・指導者と兵士:開戦決定者がまず前線に行くべし。アメリカも日本も、どの国でも、指導者が戦争を決定することは国民の、兵士の命を賭けることである。非常に重い決定である。この重みを真に感じて決定してもらうためには、開戦の決定をした指導者(日本なら総理大臣と賛成した国会議員)は直ちに最前線で戦争の任務につく、そしてその後は副首相などが踏襲する、という仕組みにすべきである。こういう条項を作ったら、今の議員の中の何人かは立候補しないかもしれない。自分は安全で、しかし他人の命を危険にさらせる位置で決定をする、これは危険すぎる。これは一つのモラル・ハザードであろう。自分は安全な位置にいられるという見通しを持っている人は、他者を危険な位置に置く決定を下しやすいと思う。この危険性を取り除いておくべきだ。

 ・有事体制

 →国民に、その必要性が十分説明されていないまま、事態が進んでいるのではないか?

 

具体的な防衛の方法は?

 ・米軍に守ってもらうことと、自分でも自分を守る、ことが現在の日本の方針である。一方、これと頃なる方針を持つ政党もある。私は上で、常備軍の保持に賛成している。もちろんそのようなものが不要となることがもっとも望ましい状況である。しかし現在のところそこまで踏み込んでよいか自信がもてない。ところで政党の中には日米安保条約と自衛隊について、これまでの自民党中心の与党の方針とは異なるものをもっているところがある。そのうちから日本共産党と社会民主党を見てみよう。

 

日本共産党の政策http://www.jcp.or.jp/seisaku/004_0607/kenpou_jieitai_22taikai_.htmlより)

 「憲法九条にてらすならば、自衛隊が憲法違反の存在であることは、明らかである。世界でも有数の巨額の軍事費をのみこみ、最新鋭の現代兵器で武装した軍隊を、「戦力ではない自衛力」などといってごまかす解釈改憲は、もはや到底なりたたない。

 それでは、憲法九条と自衛隊の現実との矛盾をどう解決するか。わが党は、改憲派がとなえるような自衛隊の現実にあわせて九条をとりはらうという方向での「解決」ではなく、世界史的にも先駆的意義をもつ九条の完全実施にむけて、憲法違反の現実を改革していくことこそ、政治の責任であると考える。

 この矛盾を解消することは、一足飛びにはできない。憲法九条の完全実施への接近を、国民の合意を尊重しながら、段階的にすすめることが必要である。

――第一段階は、日米安保条約廃棄前の段階である。ここでは、戦争法の発動や海外派兵の拡大など、九条のこれ以上の蹂躙を許さないことが、熱い焦点である。また世界でも軍縮の流れが当たり前になっている時代に、軍拡に終止符をうって軍縮に転じることも急務となっている。

――第二段階は、日米安保条約が廃棄され、日本が日米軍事同盟からぬけだした段階である。安保廃棄についての国民的合意が達成されることと、自衛隊解消の国民的合意とはおのずから別個の問題であり、自衛隊解消の国民的合意の成熟は、民主的政権のもとでの国民の体験をつうじて、形成されていくというのが、わが党の展望である。この段階では、自衛隊の民主的改革――米軍との従属的な関係の解消、公務員としての政治的中立性の徹底、大幅軍縮などが課題になる。

――第三段階は、国民の合意で、憲法九条の完全実施――自衛隊解消にとりくむ段階である。独立・中立の日本は、非同盟・中立の流れに参加し、世界やアジアの国々と、対等・平等・互恵の友好関係をきずき、日本の中立の地位の国際的な保障の確立に努力する。また憲法の平和原則にたった道理ある平和外交で、世界とアジアに貢献する。この努力ともあいまって、アジアの平和的安定の情勢が成熟すること、それを背景にして憲法九条の完全実施についての国民的合意が成熟することを見定めながら、自衛隊解消にむかっての本格的な措置にとりくむ。

 独立・中立を宣言した日本が、諸外国とほんとうの友好関係をむすび、道理ある外交によって世界平和に貢献するならば、わが国が常備軍によらず安全を確保することが、二十一世紀には可能になるというのが、わが党の展望であり、目標である。

 自衛隊問題の段階的解決というこの方針は、憲法九条の完全実施への接近の過程では、自衛隊が憲法違反の存在であるという認識には変わりがないが、これが一定の期間存在することはさけられないという立場にたつことである。これは一定の期間、憲法と自衛隊との矛盾がつづくということだが、この矛盾は、われわれに責任があるのではなく、先行する政権から引き継ぐ、さけがたい矛盾である。憲法と自衛隊との矛盾を引き継ぎながら、それを憲法九条の完全実施の方向で解消することをめざすのが、民主連合政府に参加するわが党の立場である。

 そうした過渡的な時期に、急迫不正の主権侵害、大規模災害など、必要にせまられた場合には、存在している自衛隊を国民の安全のために活用する。国民の生活と生存、基本的人権、国の主権と独立など、憲法が立脚している原理を守るために、可能なあらゆる手段を用いることは、政治の当然の責務である。」

? 「常備軍によらず安全を確保する」とは何を意味するのか?・・・推測1:自衛権はもっているがこれを行使しない。つまり抵抗はしない。もしこれに対して相手国が攻撃をおこなえばジュネーブ協定違反となり、国際法違反の汚名を受ける。どのような国もこれを避けようとするだろうから、これによって侵略から守れる。推測2:自衛権をもっているからこれを行使する。ただし常備軍は憲法が禁止しているので、警察力と国民の自発的抵抗(攻撃)による。

疑問@ 前者についての疑問・・・これは国レベルでなくても実行可能か?例えばある大学の学長が、「私のいる大学の敷地内の人間は非武装であることを保証する。よってこの敷地内の人間を攻撃するとそれは国際法違反となる。」と宣言すると、それは国際法上、実効性を持つのか?

疑問A 後者についての問題点・・・これによると全国民が兵士となり、相手国から攻撃を受けても国際法上、違法ではなくなる。よって、全国民が攻撃を受けるという重大な危険性を持つ。(これよりはむしろ自衛隊を持っていて、彼らのみが武力行使をした方が、残りの非武装の国民の生命を守れる、ということか?)

 

社会民主党(http://www5.sdp.or.jp/central/topics/04sanin/seisaku/s3.html

 

「2.日米安保への依存を弱め、 多国間の安全保障システムを構築します

[1]日米安保条約の軍事同盟の側面を弱めながらその役割を終わらせ、経済や文化面での協力を中心にした平和友好条約への転換を目指します。

[2]日米二国間の軍事同盟関係への過度の依存から脱却し、アジア・太平洋の多国間安全保障対話を推進させます。「ASEAN地域フォーラム」(21ヵ国・1機関)など地域的な安全保障対話の回路を拡充し、地域の信頼醸成、予防外交を促進します。

[3]朝鮮半島の核問題を解決し北東アジアの緊張緩和を図るために、北朝鮮の核問題に関する6ヵ国協議の枠組みも活かしながら、多国間の安全保障対話を進めます。

[4]ARF(ASEAN地域フォーラム)やOSCE(欧州安保協力機構)にならって、北東アジア地域に「北東アジア総合安全保障機構」の設立を目指します。

[5]最も過重な負担を押しつけられている沖縄を最優先に、全国の在日米軍基地の整理・縮小・撤去を進めます。特に、沖縄の海兵隊の早期の撤退を強く求め、地域住民の負担軽減を目指します。

[6]在日米軍の使用施設・区域・裁判管轄権・経費の分担などを規定している日米地位協定を抜本的に改訂し、早期にドイツの「NATO軍地位協定(ボン補足協定)」並みの国内法優位の原則を確立します。在日米軍の駐留経費の負担について定めた特別協定を廃止し、本来負担する必要がない「思いやり予算」を大胆に削減します。

[7]基地の縮小・閉鎖を進めるために「基地基本法」を制定し、雇用対策や跡地利用、汚染対策などを計画的に行います。

[8]国民の基本的人権を侵害する有事体制の整備に反対し、日本の戦争国家化に反対します。自治体や民間、国民への戦争協力の強制に反対します。

3、自衛隊を縮小・改編し平和憲法の理念の実現をめざします

[1]憲法の理念に基づく政策を実現するために、「平和基本法」を制定し、肥大化した自衛隊の規模や装備を必要最小限の水準にまで縮小し、非軍事的手段による安全保障政策の実現を目指します。

[2]専守防衛の理念を厳守し、攻撃的な装備の保有を控えます。イージス艦、空中給油機、軽空母などの保有には反対します。

[3]機甲師団の廃止など陸上自衛隊を中心に大胆な組織改編・スリム化を行います。当面、新規の正面装備の契約を控え、後年度負担を削減し、防衛費に占める歳出化経費の割合を抑えます。

[4]防衛調達をめぐる不祥事の再発防止のためにも、自衛官の天下りなどの「軍産癒着」の構造を解体し、防衛予算の透明化を図ると同時に、防衛産業の民生転換を進めます。

[5]軍事組織の独走を許さないために、文民が自衛隊の統制権・指揮権を持つ「シビリアン・コントロール」の理念を実質化し、情報公開を進めます。非核3原則、武器輸出禁止3原則を厳格に守ります。

[6]多数の自殺事件に表れている自衛隊内部での人権侵害を防ぐために、「自衛官オンブズマン」制度を創設し、自衛官の基本的人権を保障する立法を目指します。

・・・

このように、日米安保条約は廃棄を目指す、自衛隊は縮小する、ことが目指されている。

ここには、自衛権をもっており、これを行使する、具体的には縮小された自衛隊によってこれを行使する、ことが述べられているので、日本共産党の方針に対して生じた疑問点はここでは生じない。

 

3)経済

 

景気が早く回復して欲しい。

20056月現在、まだ不安定な雇用と収入が続く。仮に所得が1割減っても、寿命が1割短くなっても、長期的な安定した見通しを持って生きられるほうを国民は望むのではないか?

・回復の方法は何か? ・・「構造改革」派と「景気回復」派のいずれが正しいのか?(たとえば小野善康市と竹中平蔵氏。拙著『失業と雇用をめぐる法と経済』2003年、成文堂の第3章で少し検討している。)

政府が第一に行うべき仕事は、1998年以降続いている異常な自殺増加を食い止めることである。これは明らかに不況のせいである。そしてそれは政府の無策による。財政が厳しいからと失業給付の額、期間を縮小するのは誤りである。今、セーフティネットは強化すべきである。

 

労働条件は過酷でないものであって欲しい

 ・過労死を防ぐべし。

 →労働時間は一日8時間、週休二日。残業は一日2時間まで。一月10時間まで。年に4週間まとめて休める。これを立法化しよう。

 ・最低賃金

 同一労働同一賃金を早く実現すべし。

 

財政赤字は早く解決してほしい

・日本の財政赤字は国内の資金でまかなわれている。

・景気循環の本質・・・@国民は民間財と公共財を作って消費している。Aバブルで過剰人員・異常債務が生まれる。B企業は解雇をする。→需要減少。C企業は債務返済をする。→貨幣が投資、雇用に回らなくなる。→需要減少。D不況が進む。E企業は解雇を止め、債務を返済し終える。→投資と雇用が増える。

・今回の景気循環と経済政策・・・

1 国民からの借り入れで支出:BとCに対して、政府は民間の貨幣を借り、公共財を増やした。よって財政赤字(国債)が生まれた。それは後に返済されねばならない。政府とは国民のことであるから、国民は自らの財布から自らに返済する。つまり、国民の中で借金時に貨幣を貸す余裕のあった人に、今度は国民全員が返済するのである。このとき何か問題はあるか?これまで指摘されているのは次の三点である。1)累積額が大きくなり、返済期間が短いと、元金と利子返済の負担が大きくなり、他の使途にお金が使えなくなる、つまり「財政が硬直化」する。2)累積額が大きいときは、景気回復に伴って国債利子率が上がったとき、返済額が急増する。3)返済期間に当たる世代は、借金世代に比べて税金が増え、世代間の不公平が生まれる。3)については、返済世代も現在、親の利益から利益を得ているので、この不公平は相殺される部分がある。

2 中央銀行からの借り入れで支出:上のようなやり方と違って、このとき、民間から借りずに中央銀行から借りたらどうなるか?いわゆる日銀引受。不況期には民間の貨幣は動かないので、日銀が貨幣を供給してもインフレにならない。景気が回復し始め、民間の貨幣が動き出したら、国債を売って余分な貨幣を回収すればよい。ここには上のような財政赤字の問題は生まれない。)

 

支出(相対的重点)は適切なものであって欲しい

 →教育と福祉への支出は増やすべし。公共事業費はもっと削れる(汚職の部分。また、不要な建造物の部分)。軍事費はどうか?

 →農業と水産業:今は食料自給率を高めるべし。

 

税制は適切なものであって欲しい

 →所得税の累進税率が低くされた。高くすべし。しても8割の日本人は労働意欲を失わないのではないか?逆に社会に貢献しているという気持ちが高まり、満足感が大きくなるのではないか?

 →ただし、これが間に合わないときは消費税増税も一旦受け入れ、セーフティネットの強化が緊急に求められている現状に対応すべきである。(食料品、生活必需品は非課税あるいは低率税。)

 

安定した社会保障制度であって欲しい。

 ・医療・年金・介護

 →制度の安定化・強化を。

 

4)社会生活

 

病理的事件が起こらない社会になって欲しい。

 ・病理的事件とは、人間の命の重さを感じさせない事件。犯人が大人であれ、子供であれ、人間にとって人間の命の大切さが学べない社会になっていると言うこと。それは、この日本社会に住む人間が、大切に育てられていない、扱われていない、(少なくともそう感じている)と言うことを意味するのだろう。

 ・少年、大人、ともに、ここ20年ほどはそのような事件が続いていると感ずる。

 ・私が住む山口県でも、数年前の少年による女性殺人事件(すぐそばで幼児が見ている前で)3年程前の宇部市の母親による幼児虐待死事件、2年程前の山口市の母親による小学生の兄弟二人殺人事件、2005年6月の光市の高校での教室への爆弾投げ込み事件がある。他にも長崎の小学生による幼児殺人事件、小学生による同級生殺人事件などが起こっている。山口市内の高校、大学への試験に対する爆弾脅迫事件もこれと似たものであろう。つい数日前の東京都の15歳少年による両親殺害事件、昨日の福岡市の15歳弟による17歳兄の殺害事件が続いている。

 →「ともに歩む社会」と感じられる社会作りを急ぐべし。もっと急ぐべし。ピラミッドの底辺に住んでいる人の足元にはすでに水が押し寄せてきている。船底にいた人が大量に死んだタイタニックの再現を起こしてはならない。

 

――――――――――――――――

(以上にその内容を述べたが、20054月現在、最も日本社会が必要としている改革は、社会保障体制の強化であり、とりわけ失業手当の期間延長と増額、医療費無料化であろう。これによって社会の安心を強めることが今最も求められているのではないか。)

 


 

 

 ○最近の内外の状況から(20093月〜)

 

 200932

 

 イスラエル・パレスチナ・・・村上春樹氏の講演の全文を翻訳で読む。壁と卵の話は、人間が作ったシステムと人間との問題だ。命ぜられて人を殺す。命ぜられることはシステムの働きだ。殺した人はそれを一生悔やむかもしれない。それは生身の人間のことだ。こうした対立を彼はずっと考え続け、表現しようとしている。小説という形で。

 

 ロシアの新興の企業家と政府の関係・・・NHKの特集、3月1日、「プーチンのリスト」。ロシアでは市場経済移行後、振興の企業家が登場した。だがプーチン氏は、大統領として、何人かの企業家を脱税で捕まえるなど市、いくつかの大企業を国有化した。ガスプロムもその一つ。その後これら国有化企業の働きで外貨を50兆円蓄えた。(今年のダボス会議で自身ありげにそのことを述べた。) 新興の企業家の一人にA氏がいる。彼は大学生時代にアメリカの映画「ウオールストリート」を見て、証券の仕事をしたいと思った。これからは個人の時代。彼の仕事は成功した。ちょうどその時期ロシアは7%成長を続けた。海外の投資家はロシアにもたくさん投資した、彼の企業にも。彼は政府には頼らないようにした。だが、20089月以降、ロシアへの資金流入は止まった、いや、そればかりか逃げ始めた。彼の企業(メトロ・・?) も資金繰りに窮した。こうした企業が今ロシアではたくさんある。プーチン氏は今、首相として、どの企業を救済するかリストを作っている。先の50兆円がその資金だ。すでに第1次の救済リストはできた。次は第二次だという。A氏はなんとかこれに載せてもらいたい。南アフリカへ飛び、コンゴの大統領と会談し、彼がコンゴの何かの資源の開発に関しロシア側の?窓口となることを大統領に約束してもらった。だがこれでも不十分で、第1次リストには載らなかった。プーチン氏は救済する企業の経営に政府から人を派遣する予定だ。資金をどう使うにしろ、融資か、株の購入か、どちらにしても政府の発言権は非常に強まる。国家資本主義という言葉が番組で何度か出てきた。ロシアのここ10年ほどの経済状況をうまく表現しているかもしれない。

 

 米国とシティ銀行・・・政府と私企業の文字通りの合体はロシアだけの話ではない。今、先進資本主義国ではほとんどどこでも政府が民間企業を助けようとしている。おもには大企業を。中小企業に対してもまた融資機関がある。アメリカ政府は2,3ヶ月前か、シティ銀行を助けるため資本を注入し、優先株を所得した。だが、つい先日、普通株に変えたという。何が起こったのか?

  

 

 201215

 本当に久しぶりに文章を追加できた。(前掲の今日付けの□の中の部分。)

 大震災、大津波はまたすぐ来るかもしれない。備えがあれば被害は少なくできる。備えをすれば。ここからは私たちの実際の行動の問題だ。本当によく注意して、できる備えをみすみすしなかったらどうなるかは、東京電力の福島原発がよく教えてくれた。

 経済では、変動する経済活動は貧しい人に致命的な打撃を与える。その危険が誰にもあるので、または弱者への友愛の心から、社会保障制度を作ってきた。それをもっと良いものに作ることができるのではないか。私たちにとって、この問題を考え続けることはとても大切だろう。

 

 

 

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