日々の気づきから
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2001・12・1
大学の仕事に不満がある。もっと教育と研究をしたい。もっと本を読み、考え、まとめ、書き、教えたい。だが、今も貴重な土曜の午後、大学の「改革」に関することを読み、メモしている。半分以上、不要な仕事を、政府から有無を言わさず与えられている気がする。本来の仕事の時間がどんどん少なくなっている。教える科目も、いまでは、共通教育(社会科学概論、総合科目、基礎セミナー、主題別から一つ)、学部専門(経済政策総論か比較経済政策論、加えてときに外書)、修士(経済政策論A,B)、博士(政策関連科目)、そして学部の演習1、2.たまに院の修士生も指導する.もう少し絞らないと、研究のペースが非常に遅くなっている! もっと時間が欲しい.そうすれば、もっとよい研究と講義ができる。それこそ私の主たる仕事なのに.
2002・01・10 昨日は教職員の新年互例会 T先生、M先生との間でいろいろ歓談できた。以下はM先生との話の中で出た話題。
学長選挙 山口大学がどのような進路を選ぶにせよ、それを実現する力の最大のものは在学生と卒業生、そして彼らの親たちである。私たちが選んだ道を実現するために、彼らに働きかけ、彼らを通して国会議員に働きかけること、何万人という数の力で、そうすれば国会にも大きな影響を与えることができる。50年で卒業生が仮に30万人とすれば、それだけでも議員を何人か国会に送れる。彼らの親も含めれば数十万人の力になる。
仮にその力に頼り、文科省と衝突することがあるとしよう。そのとき、かなりの闘争になる。これと同じことを各国立大学が行えば、独法化も文科省のリーダーシップどおりには行かない。99大学、卒業生が各十万人としても、1000万人の力である。どの政治家もこれを無視することはできない。
ただし、そのためには組織化のための時間が必要である。その間、山口大学としてもその方向で力をつける間、文科省との衝突が始まるかもしれない。そのときに文科省に本学を冷遇させないよう、マスコミの目をここに向けさせる必要がある。そのために学長に著名な人を選ぶほうが力になる。現教員数百名が心当たりを探すのもよい。広中学長が呼んだというエズラ・ヴォーゲル氏などはどうか?
だが、その前に、山口大学が選ぶ進路、が問題である。この魅力がなければ上のような衝突覚悟の努力は不要となる。今の政府・文科省が進めつつある大学作りへの対案が必要である。
授業改善 学生に授業中、何グループかに分け、議論させる。最初は戸惑うが、続けることで最後には何人かかなり発言できるもの、よい発言をするものが出てくるかもしれない。(松井氏の経験・・3人ほどあった。)
入試 アメリカの経験・・全学部共通で二倍入れる。1、2年後に学部に配置する。だから各学部も自分のところに良い学生が入って欲しいので教養教育で競争する。入試はSAT,エッセイ、推薦書(指導した先生、課外活動の指導者などからの)のみ。選抜は専門の事務官たち。(専門家、といったほうが良い。)二倍入れると当初教室、教員が不足する?教員は、今他大学へ非常勤で行っている人たちをやめさせ、余分の授業について、こちらで給与を払う。教室は余分につくっておく?
2002/01/22 大学とは何を学ぶところか
N先生からFD研修会の報告を頼まれ、経済政策総論の時の経験をまとめた。それとともに何人かの論考を読んだ。その中で、現在、大学生の多くが就職に結びついた勉強をしたい、つまり、就職に役立つこと、また就職して役立つことを勉強したいと思っている、という統計を見た。
昔もやはり大学は就職に役立ったと思われる。ただし不況のときは「大学は出たけれど」という状況が生じたことは今も同じである。しかし、押しなべて昔は大学生が少なかったことから、大学には即戦力となる就職力を身につけさせることを期待されてはいなかったと思う。それよりも自然、人文、社会の各分野を広く教えること、そして時に深く学ぶことが求められていたと思われる。それと読み書きそろばんができれば、あとは官庁であれ、民間企業であれ、就職してから仕事の内容を覚えさせることで社会の体制はできていたであろう。
だが、今は会社に余裕がない。会社が不況の中で、グローバル化の中で浮き足立っている。こういうときに大学は何を教えるべきか。私は相変わらず一生の指針となるもの、世界観、自然観を教えるのが大学のすることだと思う。広い教養と、そして一つ深い専門とを学ぶ。専門は一つを究めれば、そこから他の分野に広がっていく何かが得られる。また、そこで学んだ研究方法は将来突き当たるであろう問題に対しても応用がきく。
こういう考えは、会社経営者たち、日本の今の政治家たちとは違っているといわれるかもれない。このごろ、ここ数年ぐらいか、そう感じることが多くなった。しかし、今日の即戦力は明日の不要戦力になる可能性が大きい。技術が進歩する社会ではそれはあたりまえだ。だが、会社がそういった人材の再要請を放り出すのは誤りではないか。今度は大学にそれを求めるのは誤りではないか。初等から高等教育までの学校で学ぶ内容とは、基本、普遍、そういった言葉こそがふさわしいのではないか。自然や社会の変化には誰でも対応すべきであるが、今誤ってはならないのは、上の点であろう。大学ではなく、会社や社会が次代の、また現在の世代を育てていく体制を作っておくことが必要ではないか。そんな社会が望ましいのではないか。
2002・7・19
個人業績の公表:
大学の教員が何を研究し、何を教えているのか、それを国民にわかりやすく示すのはよいことだ。
それはわかる。だが、それと評価が結びつくとき、問題が生れやすい。私が評価者となったと想定しよう。ある分野の論文を読み、ある程度の注文をつけることはできても、そこまでである。それによってその人への研究費配分を変えるほどの権限を任されることは・・到底できない。それだけの力は私にはない。おそらくほとんど、99.9%の人にはそれはできまい。
現在行っている教育、研究、運営の業績報告書は、その意味で、国民に大学の教員が何をしているかをわかりやすく知ってもらうためのもの、と限定したい。それ以上は控えたい。
もう一つの問題は、業績評価に関して多くの書類作成が必要になることだ。どんどん評価項目を増やし、評価対象を細分化して行くことはできるが、それは必ず他の仕事(教育、研究の)の時間を奪う。これらを比べたとき、最適の時間配分が求められる。今感じつつあるのは、いわゆる改革疲れ、自己評価疲れである。本来の仕事ができていない、こんな筈ではなかった、このような感想を持つ人が多くなってはいないか?
専門性と多様性:
国民が求める大学とは何だろう?
上でも「大学とは何を学ぶところか」として、述べたが・・。
今、私たちは、教養部解消、全学で担う体制に移行して以来、専門学部の教員には教養科目担当が増えた。加えて、「大学改革」のための学内行政の仕事が急増した。私たちが本来すべき、またしたいと思ってこの職についた、その当初の予定が狂っている。
私たちの当初の予定そのものが誤っていたのか?今の大学と文科省、政府の行動が誤っているのか?国民が判断する以外にない。
一つの政府、文科省の自己矛盾は、大学間に一層の多様性を求めている。これは正しいか?
大学は「どの県に住んでも高い水準の高等教育を受けられること」をめざすべきなのか、「日本中の大学を、教養養成、○○能力養成、××能力養成、等々の、専門化された大学」に作り変えるべきなのか?
かつては「どの県に住んでも大丈夫」型だったと思われるが、政府は今、後者に移そうとしているようだ。だが、それは国民の理解と支持の下に行われているものなのか?都会に住む人にとっては、おそらくどちらの型の大学もすぐそばに存在することになるだろうから、地方に住む人よりはその悪影響は少ないが、地方に住む人々とその子弟にとっては問題は大きい。(仮に高等教育を無償化すれば、親下を離れる費用の問題は小さくなるが。)
高等教育とはいったいなんなのか。
国民はどのような教育を、どのようなコストで得たいと思っているのだろうか?
均一な基礎的能力(教養育成)と、専門性の育成、これが高等教育に対する国民の(入学者、そして親の)期待ではないか?つまり、高校の勉強を終えて、それまでの大量の知識を今度は生かす、応用する能力を育てるところ、と考えるべきではないか。
その方法としては、現在、専門性に早くから触れることが、大学の学問への期待感と意欲を高めるであろうとして、かつての教養、専門の積み上げ型をいわゆる楔形、または混在型に組替えている。
専門性は、科目によって、入門的なものから、中級、高級なものへと配列されている。(だが、科目間で、必修科目と選択科目といった、その学部における学問分野間の軽重は存在する。どれが軽でどれが重かは、大切な問題である。)
修士課程では研究者の初期段階、本格的研究の入門段階の勉強(方法論、サーベイ)を行い、博士過程では本格的研究の実践段階(テーマ研究)を行う。
こうした配列によって、近県の大学でも、中級段階程度まではどの大学でも同じ水準の力を身につけることができる。
だが、高級段階、さらに研究者段階となると、大学の研究者次第で内容は変わる。よって、この段階の学問をしたい学生は、つまりあるテーマに沿った研究を深めたい学生は、大学を変るか、修士段階でその研究者がいる大学に入学する必要がある。
(学部段階でこの高級段階を設定すると、大学間の移動が必要になる。ドイツではそれが可能らしい。学部段階でこの高級段階、つまり教師の個性的研究の成果を教えない、といった、全くの共通化された教授内容だけに変えることはどうか?できるとしても、学生はそれを望むまい。やはり彼らは、高校までに得た大量の知識をどう使いこなせるかに期待をもっているはずだ。そして、知識の使いこなしは研究の側面をもつ。そして研究には個性がある。特に社会科学はそうである。するとこの高級段階を除くことはできないだろう。)
学業期の就職活動について:
日本の大学生の学力低下を指摘する財界人も多い。各種審議会ではよくそういう話しが出る。ところが当の自分たちは、学生の勉学の邪魔をして、今では4年生、時には3年生に対する募集活動を行っている。本当は夏休みか冬休みにすべきではないのか?いつのころからか、数年前か、いわゆる就職協定は廃止され、学生への募集活動はもう何でもありになっている。不況下で買い手市場になった今、大学も強いことはいえないという立場だ。一体実業界は学生の勉学、大学の勉学をどう考えているのか?同じことが高等学校生に対してだったら日本中から反対の声があがるだろう。勉強、学問の内容は、高校と大学で軽重があるとでも言うのだろうか。会社は大学生が力をつける機会を奪わないで欲しい。
2008・12・17
教育とは学ぶ人に教師が火をつけること。以前西沢潤一氏が言った言葉と記憶している。長く続く火を。自分で自分に火をつけること、それを燃やし続けることは難しいことが多いのではないか。そのとき、教師が、また、学友が、その助けとなる場合がある。学校の、そして大学の存在価値はそこにあるのだろう。