2011・2・14 卒論発表会

 

 

大学会館で1時―7時前まで。40名ほどの参加。(就活、体調等で数名欠席。)その後懇親会、124年、各10名ほどずつ参加できた。一番鶏で。

○去年は印刷、出欠など3年生に手伝ってもらったが、今年は私が多忙で頼む間もなく、自分で全部やったので、やや大仕事。終わってホッとする。来年は計画的に学生たちに助けてもらおう。

○さて、発表会。あらためてメモを振り返り、いくつか感想を記そう。

・河本君の発表を聞いて。口頭発表の原稿。読みやすい。オバマ大統領などがなぜ演説で人をつかむのか。なぜよい演説、会話、話は人をつかめるのか。(この辺は福村君のリーダーシップ論と少し関係しそうだ。)そもそも話、会話、口で物語ることは、話す内容を自分で分かっていないと続かない。できない。だが文章はわかっていなくても書ける。文字は書ける。自分自身が分かった気になる。分かった気にさせる。話し言葉はごまかしがきかない。話し言葉で書くことは実は非常に良いことかもしれない。

・陶山君の発表を聞いて。消費税への賛否に関して、浮かんだ感想。実は国民は税でなく自分で使いたいものなのか。自分で使うと直接自分の満足につながる、それを増やせる。自分の欲しいものを自分で買うのだから。だから、「遠くの人(政治家)に使ってもらう」よりは自分で使う方が、自分の満足に直結する。だから、税は少なく、可処分所得は多く、の方が良いと感じる。こういう判断はよくあるだろう。だがそれでも私たちはある部分で税を払うことに納得もしている。それが回りまわって自分のためになることを知っているからだ。この二つの感じ方はその国の国民の税の使い方に関する経験で違うだろう。税への支持が日本では比較的低いとすればそれはこの経験の違いから、つまり、税収が自分のために使われているという実感の弱さからくる部分が大きいだろう。 

・何人かに関係する感想

法人税について。税を考えるとき、そもそも法人とは何か、そして企業の儲けとは何かという疑問が浮かぶ。企業は人の集合体として、リヴァイアサン(人間個体が無数に集まってできる巨大な人間体)の小さなもののように動いている、行動している。だからそれ実質人だ。だがその人たちは入れ替わる。国家もそうだ。日本国歌というものは存在するが、その構成員は絶えず少しずつ入れ替わっている。構成員は入れ替わるが、企業は、国家は続いているように見える。だから大きな人としての法「人」。だが、人が入れ替わると、それ名前同じでも実体は違っていくかもしれない。短期間では人は入れ替わらなくても、その人たちの考えが変われば同様だろう。この辺正田さん岡本君の卒論、ワークライフバランスを、ジェンダーの公平性を、国民が、そしてとくに企業が実現していくことと関わってくるだろう。

今、利益に課税されている。消費税は利益でなく取引そのものに課税される。消費税がない時は、利益が上がらない企業、損をした企業は税を払わなくて済んだ。今は払う。大きな違いが生まれている。その意味で企業にとって消費税は人頭税のようなものだ。生きているから払うというものだ。 税とは、利益を得るから払うものか。生きていれば貧しくても払わねばいけないものか。どちらか、あるいは両方か。

利益から払うことについて考えよう。金持ちの利益は大きいと言えそうだ。財産がたくさんあり、国防や警察で守ってもらう額が大きいからだ。貧乏人は守ってもらう利益が小さいことにある。これが正しいと、富者は多く、貧者は少なく税を払うことが正しいことになる。だがそれでも富者が多く払うときの払い方は二つ考えられる。一定比率の税率か、累進税率か、だ。累進税率の根拠となりうるものとして、限界効用逓減がありそうだ。高所得者の失う10万円は低所得者の失う同額のお金よりも「痛みが小さい」から、高所得者からはたくさん集めても良いのだ、という考え方だ。この議論の焦点はこの時の痛みの内実だ。つまりは限界効用説の当否だ。さてどうだろうか。

・飛田さんの発表を聞いて。たぶん私たちは同じ商品ならCSRの質が高い企業のそれを選ぶだろう、環境への配慮が大きいとか、食品の安全への配慮がしっかりしているとか。それは社会全体に、つまり自分もそこに含まれる社会に、さらに大きな利益を与えてくれるからだ。同じようなスーパーなら、そういう店から買う方を選ぶことが多くなるだろう。その違いは積もり積もればかなりの違いになる。 / 企業は人間の集団。だから法令だけでなく倫理も大切にすべきだとの考えについて。確かに企業にとって利益、利潤は重い。赤字だとその店は間もなくつぶれる。だが黒字でも、法律は守っているがそれ以上はしようとしない企業はしようとする企業と比べればその点での魅力は小さくなる。もしその店が法律にしたがっていても多くの人がその法律はどうかなと危惧を抱くような法律である場合、そこではむしろそれを控える店の方が魅力は大きいだろう。企業も実体は人間である。人間は法律さえ守ればよいわけではないというのが国民の、消費者の立場にいる一人一人の感じ方だろう。ハッピーでないのにハッピーなCMは作れません、という言葉を遺して自殺した著名なコピーライターがいた。彼の事件はこんなことと少しつながっているかもしれない。

・正田さんの発表を聞いて。男女、労使、どちらが人間の相互尊重を実現しやすいだろうかという疑問が浮かんだ。きっと男女だろう。それは生身の二人の人間として直接話し合える。(もしも相互に話ができない人間は言葉を持たない動物に戻ったと同じで、暴力で相手を従わせようとするか、他の人々から離れようとするか、どちらかだろう。人間はその状態を抜け出して来たはずだ。だが時に、どれくらいだろう、千人に一人ぐらい?暴力をふるってしまう人がいる。毎日、新聞に暴行事件が載る。それを抑えられない、抑えるように育てられなかった人が実際にいる。(自分を抑えられない弱さは自分にも多少はある。先日も交差点で、黄色から赤に変わったのに前の車について無理に渡ってしまった。こんな自分の近視眼的行動を抑えるのは教育の力だろう。お互いに抑制しあっていかねばそれは暴発してしまう。

ワークライフバランスの実現について。個人労働だと自分で働き方を決められる。だが複数になると、集団になると、さあ、これが難しくなる。人間集団は本当に大きくなってきている。いわゆる大企業では何万人もが一つの意思決定のもとに働く。それは一つの目標、「利潤の最大化」という行動基準で行動する。社員はそうして実現した収入から自分の賃金をできるだけ多くもらって、それを使ってその後自分のしたいことをする自由を最大化しようとしてそこでの協力を行っている。彼らの活動は手段と目的に分離される。目的地までは、道端の草花を蹴散らしながら、できるだけ早く着こうとする。その後に待っている楽しい自分の生活を、おいしい食べ物を、面白いエンターテインメントを、楽しいスポーツをしたり見たりすることを想像しながら。(何か、いわゆる酒池肉林の王侯貴族の生活が浮かんできた。)だがそこには生活の分離がある。気持ちの分離がある。早く終わらせたい時間と、できるだけ長引かせたい時間と。こうした分離は、本来分離すべきでないものに対して起こっているのか。それとも正しいことなのか。

・岡本君 これは岡本君の労働とジェンダーを聞いて浮かんだことにつながる。人間はできれば働かないで、楽しみたいものなのか?確かに労働時間は短くしたい。そしてそうしてきた。ではゼロになったらどう感じるか?・・・いや、そもそもそうはならないだろう。そんな夢のようなオートメーションは、まさに夢であり、不可能だろう。だが「4時間労働」ならどうか。そんな日がいつか来るかもしれない。その可能性はありそうだ。朝8時から12時まで働く、あとはフリー。自由時間。そうなったら私たちの幸せはどれほど増えるだろうか?本当に増えるだろうか?

・福村君の発表を聞いて。組織には確かにリーダーが必要だろう。それは自然に発生するものだろう。複数で行動するとき、ある人にリーダーになってもらった方みんなより幸せになれる。その時リーダーが生まれる。

・尾銭君の発表を聞いて。死刑が残虐であると国民が判断すれば死刑は廃止される。憲法の手続きはそうなっている。この時、残虐とは何か。死刑はすべて残虐か。それとも残虐でない死刑はあるのか。私たちはこの点をどう考えているのか?そもそも考えているのか? / 1%でも社会に責任があるとき死刑いけない、について。または、冤罪の危険があるとき(それは必ずあるだろう)死刑はいけない、について。これは大枠では正しいように感じる。

○懇親会はまた楽しいひとときとなった。今年も発表会が良かったせいだろう。

4年生の数名と1年生の数名、また、後で後ろの列の2年と1年の数名と話せた。卒論発表会の時に浮かんだ感想、質問などを飛田さんや正田さんに話し始めたが、賑やかな中ではなかなか伝わりにくい。皆賑やかに歓談している様子。基礎ゼミの伊東さんが元気そうに働いていた。帰りに一言あいさつ。

ただ、松山君と徳重君、かなり酔いが回ったようだ。友人たちが介抱。明朝は二人とも元気に連絡がきて一安心。楽しいがお酒は自分も、回りも気をつけねば、気をつけてあげねば。まだ飲み始めの若い人たちと飲むときはとくに。

☆帰りのタクシーでは、当たり屋にぶつけられた経験を運転手さんが話してくれた。かなり熱が入っていた。その時の警察官の助言が、(右へ)曲がろうとするときは、曲がり始めにもう一度ブレーキを踏むこと。そうすると(相手がぶつけたくても)ぶつけられないですよ、とのことだったそうだ。