■「つらつらと」過去の掲載
 理不尽なことに出くわすと、その不可解さゆえに、思い悩んでしまう。しかし、その「思い悩むこと」自体が、まさに「理不尽な」時間と労力の無駄遣いである。相手が招いた事態にとらわれ、理解しようと心を砕き、解決をしてやる必要は、こちら側には、ない。手放すこともまた、ひとつの解決方法なのだ。(2023.10.16)
 批評家気取りで「ダメだ」「出来てない」「つまらない」と批判するのは、簡単なこと。相手を否定することで、より上位にいる(と勘違いして)自分に酔うこともできる。重要なのは、「どうすれば良くなるか」「うまくやるには何をすべきか」という建設的な思考と実行力、そして仲間を巻き込む調整力だ。物事を動かそうとするとき、虚栄心に満ちた批評家は必要ない。(2022.8.25)
「愛しているから、相手に従う」って勘違いだから。夫婦別姓を希望するカップルの男性に向けて「あんた、愛されてないんじゃないの?」と、したり顔でその政治家は言った。「男が支配し、女が従う」という構図でしか男女の関係を理解できない人間が死に絶えるには、あと何年待てばいいんだろう。(2022.8.5)
この時代、この社会に、狂わずに、病まずに生きていくことの難しさ。自尊心と、何か/誰かとの繋がりを持ち、希望を静かに燃やし続けること。そういう強さが必要だと思う。(2020.12.23)
 家庭でも、地域でも、職場でも。そこが「好き」だと思える「自分の居場所」をつくること。心地がよくて、安心できて、楽しくて。そんな居場所をいくつ持てるか。いや、むしろ、そんな居場所があることに、どれだけ気づけるか。それが「幸せになる」ということなんだろう、と思う。(2019.7.24)
 「正論」は嫌い。正しいがゆえに強いから。正論の前には、すべてがひれ伏すしかない。年寄りの思いには応えてやれ。子どもは大事にするものだ。弱い者はいたわるべきだ。...間違いなく、すべて正しい。でも、正論に駆逐され、拾われないまま、なかったことにされる「後ろめたい思い」もまた、確かにそこには存在している。仮に、それを「正しさ」という暴力で追い払ったとしても、決して無くなりはしない。より深く隠れ、静かに存在し続ける。正論は、明確でわかりやすい。でも、その正論は数えきらないほどの「後ろめたさ」によってこそ、その存在が許されていることを、忘れてはいけない。(2018.8.22.)
 何かに対する漠然とした「危機感」を持っていたとしても、その危機を回避するための具体的な行動をとっていなければ、それは「危機感がある」とは言わない。そこにあるのは、「やがて見舞われるかもしれない危機的状況が、どうか実際には、訪れませんように」という単なる「祈り」である。「危機感を持っている」と言いながら、何もしないことの愚かさを知るべきだ。(2017.3.3.)
自分の権利や、所有欲や、嫉妬などではなく、「相手の幸せを願う気持ち」こそが、他者に向けられる真の愛である。例え、そこに自分がいなくても、「相手が幸せを感じるように生きて欲しい」と思えなければ、それは愛とは呼べない。自分の幸せのために、相手の自由を制限して当然だというのは、その相手を自分の幸せを達成する道具とみなしているのであり、それは、自己愛でしかない。(2016.5.12.)
 他者の言動を「信じる」ということは、他者の言動を自分の望むように制御するということに等しい。そして、信じるからこそ、裏切られる。しかし、そもそも他者の言動を操作することは不可能である。それならば、たとえそれが自分にとって、いかに重要な他者であったとしても、ただ自分の力が及ばない領域として、手を離すことだ。そうすれば、いかなる事実を知ったときにも、そこにあるのは、受容の可否(受け入れることができるかどうか、という自分サイドの問題)のみである。(2012.9.20.)
 「幸福」を最大限に引き出してくれるのは「飢餓感」である。満たされない思いが欲望を生み、少なからず「自分の努力で手に入れることができる」という可能性こそが「希望」となり、主体性や自発性を誘発する。満たされてしまった豊かな社会で、魂が震えるほどの幸せを感じることは難しい。(2011.6.3.)
 「自己の喪失」は、「他者の喪失」に起因する。誰かに「必要とされなくなること」の悲しみは、自己存在の危機に対する痛みである。(2010.8.11.)
相手になにも求めずに、ただ傍らにいることの難しさ。求めないことは、与えようとしないことに似ているのかもしれない。「あいだ」を共有すること…その事実の積み重ねこそが、「かけがえのない存在」というものを作り出すのだと思う。(2010.6.16.)
 夫婦や友だち、恋人などの人間関係も、また、組織と労働者のような雇用関係であっても、一方が他方を「使い尽くす」ような関係では、そこに豊かな未来は望めない。ワーク・ライフ・バランスが持つ「ワークとライフの好循環」という理念は、「その人の持つ能力を一方的に使い尽くす」のはなく、「人間一人ひとりの可能性を育む」ことを土台としている。つまり、ワーク・ライフ・バランスを支持する組織は「人間」を大事にする組織であり、ワーク・ライフ・バランスを支持する社会にも同じ事が言える(2009.8.19.)
「かつて、私が会社員を辞める決心をしたとき、「自分の時間割は自分で決める」という言葉を頭の中で繰り返していた。最近、大沢真知子氏がワーク・ライフ・バランスを指して「自分が人生の主導権を握る」と表現しているのを目にした。十数年の研究生活を経て、私が今、ワーク・ライフ・バランスを研究テーマにしているのは、偶然ではなく必然なんだと思う。(2008.6.4.)
 「長時間労働が経済を発展させる」という神話から日本が自由になるには、あと何年かかるんだろう?労働者であることと生活者であることが両立できない社会に住む老若男女は、それぞれの24時間をどう使い、どんな満足を得ることができるんだろう? (2007.2.14.)
 「誰かのために」生きること。それは、自分の時間を捧げる「愛」のように思える。でも、まず「自分の足で立つこと」。それがなければ、相手に振り回されてしまうだけ。相手を求めながら、与えられない喪失感に対する苦しみは尽きないー。「恋するきみへ」 (2006.12.1.)
 個別の経験を前にして、一般化された理論は無力である。しかし、私たちが他者の経験を「理解する」には、ある程度の一般化を伴うことも又、事実である。(2006.10.24.)
 自分を最後に支えるもの...。それは、自尊心のかけらと、怒りである。(2006.8.5.)
 「レートは悪かったが、惚れたほうが多くを支払うのは当然だ。欲しいもののために、何かを支払う。それが『愛』というものだ...。愛は物々交換であり、『愛』は消費行為なのだ...」(「愛と資本主義」中村うさぎ 新潮社より) そう。みんな「何か」が欲しいんだよね。「見返りを求めない愛」ってあるのかなぁ? これもつまり、「見返りを求めないほどあなたのことを愛してる私ってすごいでしょ?ホンモノでしょ?だから私を大切にして!!」っていう欲求が背後にあるんだよね。人間って、つくづく誰かに「愛されたい」動物なんだなー、と思う。(2006.4.5.)
 ある人間関係が過去のものになったとしても、その関係性によって紡がれた「記憶」はみずからの身体に残る。そして、自分がかつて誰かによって「愛された記憶」は、現在の自分を構成する「暖かい要素」のひとかけらとして存在し続け、自分を強くしてくれる。(2005.12.2.)
 私にとっての「あなた」は、あなたにとっての「あなた自身」と同じではない。つまり、どんなに想い合い、理解し合っている二人でも、相手の全てを把握することは不可能で、また相手の本心を探ろうとすればするほど「自分が思い描いているような相手の本心」からは裏切られることとなる。例えば、相手の清廉潔白さを確信したくて携帯電話の履歴を見ること、私の知らないところで何をしているのかを知ろうとすること、そうやって相手の本心を探れば探るほど、逆に不安に陥ってしまうという結果が待っているだけである。相手が自分に呈示する「本心」、それが「わたし−あなた」にとっての真実である。(2005.8.21.)
 異なる存在である自己と他者は、コミュニケートすることによってしか分かり合えない。どんなに面倒くさくても、時間がかかっても、あきらめずにお互いの思いをやりとりする。そういう姿勢の継続こそが、「お互いの存在を尊重している」という事実を、ただ証明してくれる。(2005.6.8.)
 例えば、後ろから声をかけられ、挨拶をされるとき、「あぁ、うれしいな」と感じるのは何故か。それは、呼び止める挨拶が、互いの存在を認識し合ったうえで、相手への敬意を示すためにおこなう呈示儀礼としての挨拶ではなく、儀礼を超えた積極的な関与を示しているからだろう。「儀礼」が社会生活を円滑にするためのツールだとしたら、「儀礼」ではない行為に「よりホンモノ」の気持ちが表れているように感じるというのも、また面白い。(2005.1.31.)
「ヤンテの掟」に思うこと

ヤンテの掟
1. 自分が特別だと思い上がるなかれ 
2. 自分が人より善良だと思うなかれ 
3. 自分が人より賢いと思うなかれ 
4. 自分が優秀だと自惚れるなかれ 
5. 自分が人より知識豊富だと思うなかれ 
6. 自分以上の人間はいないと思うなかれ 
7. 自分が何でもできると思うなかれ 
8. 他人を笑うなかれ 
9. 他人のやさしさに期待するなかれ 
10.他人に何かを教えられると過信するなかれ 

 デンマークの作家アクセル・サンデモーセが1933年に発表した小説に出てくる架空の町「ヤンテ」。その住人が遵守すべきとされていた十戒が「ヤンテの掟」。
これって、教育・研究を職業とする者にとって必要なスタンスだと思う。
 誰が詠んだのか「先生と言われるほどの馬鹿じゃなし」って川柳、子どもの頃は分からなかったけど、今では妙に納得してしまいます。(2004.12.1.)

 例えば、近しい人が苦しむ様子を「見ていられない」というのは、苦しんでいる人への共感に起因した「見る側の都合」に過ぎない。苦しんでいる様子を見ているのがツライから、ただ見ていられずに手を出してしまう。しかし、苦しむ「本人」にとってその手出しが好ましいものかどうかは、その本人にしか(本人でさえも不可能なときもあるが)評価できるものではない。安易な手出しをせず、見ていることしかできない苦しみに耐え、傍らに存在することの重要性も忘れてはならない。 (2004.7.16.)
 人はそれぞれの苦悩や幸せを経験する。その人にとってはみずからの問題は100%の重みを持って受け止められている。したがって、ある人が抱える不幸が、他の誰かが感じている不幸より軽いなどと判断することはできない。相手の経験や感覚を軽視するような態度こそ、他者の尊厳を認めない独善的態度に他ならない。 (2004.5.19.)
 時間は流れる。そのなかで個体としての「自己」は変化し続ける。それは時間と身体との化学反応のようであり、常に異なる個体として、その時々に人は存在する。時間は身体に蓄積し、人は老い、成長し、円熟する。廻る季節が愛おしいのは、そこに普遍や永遠を感じるからだろうか。 (2004.3.9.)
 「近しい人の死」それは「私」の歴史の消滅を意味する。「私」の構成要素が失われたかのような喪失感。それは、関係性の死であり、かつて確かに存在した時間の死である。 (2003.9.25.)
 マイノリティーの権利が強調されるとき、かならずマジョリティからは「逆差別」という批判が起きる。しかし、それまで自分が他と区別され、何らかの制限を受けてこなかったという事実、つまりいかに世の中が自分たちの論理で動いていたのかというみずからの支配性にこそ、その時、気づく必要がある。「多様なるものの共存」が孕む「居心地の悪さ」を認識し、それを排除せずに受け入れること。それが「共生」ということなのではないか。 (2002.7.3.)
 他者を「理解する」というのは、他者を自分の持っている解釈体系に入れることを意味する。それ自体がある種の暴力でもある。「他者は理解できない」という了解から始めて、配慮し共存するという方向しかあり得ないのではないだろうか。

(花崎皋平 『<共生>への触発』 を読んで思うこと:2002.6.18.)

 人間は理解し合えるほど似ているが、話し合わねばならないほど異なる。だから、分離しながら・結びつく空間を必要とする。

(奥村 隆「社会を剥ぎ取られた地点」『社会学評論』 Vol.52, No.4, 2002 より : 奥村さんの仕事、好きです。ファンですね (^^ゞ。自分が社会学に惹かれた初心をいつも想い出させてくれるんです。 2002.4.25.)

 So people who don't know what the hell they're doing or who on earth they are can, for only $2.95 get not just a cup of coffee, but an absolutely defining sense of self.

(スターバックスで自分なりのコーヒーを注文することに熱心な人々をさして Tom Hanks が映画「ユ・ガット・メール」で言った言葉。「自分らしさ」を求める現代人をよく表していて、好きな台詞。 2002.3.18.)

 自分の名前と自分の顔で社会的活動をおこなっている人間には、その背後に「carer(ケアする人)」が存在することを忘れてはいけない。その人があたかも「ひとりで(自立的に)」存在しているかのように見えるときこそ、それを可能にしているケア労働の大きさを想うべきである。 (2001.7.19.)
 「ケア」はこのように、普通「自分の以外の何ものか」に向けられたものであるのに、その過程を通じて、むしろ自分自身が力を与えられたり、ある充実感、統合感が与えられたりするものである。

(広井良典「ケアって何だろう@」『看護学雑誌』1977/1より : ここに、ケアをアイデンティティ論と絡めて論じることの意義がある。 2001.6.22.)

 「主人に相談してみます」とか「主人に叱られますから」っていう言説、って考えてみると面白い。女性はそう言うことによって、自分が判断の主責任者になるのを容易に回避できる逃げ道が用意されてるんだから。

(春日キスヨ『介護とジェンダー』を読んで思うこと:2001.6.14.)