第70回 日本社会学会大会 一般研究報告 社会問題2 1997/11/9 於:千葉大学


近代的自己批判としての「共依存」



【報告の趣旨】

 共依存の社会文化的背景
 共依存において問題とされていること
共依存概念の可能性






T 本報告における「共依存 co-dependency」の定義

 「共依存」とは、もともと1970年代終わりのアメリカで、アルコール依存症の治療にあたっていた臨床医によって命名された「enabler イネイブラー」という概念が発展したもの。このイネイブラーは、通常アルコホリックと一緒に生活をしている配偶者やその子供であることが多く、アルコホリックの依存心に依存するという形で、その病気に手を貸してしまっている人間のことを指す。

 現在アメリカにおいて「共依存」概念は、物質嗜癖者とのかかわりという文脈を超えたところで、一般的に人間が他者との間で取り結ぶ「関係性の問題」として、あらゆる社会生活の場面において広く適用されるに至っている。このような共依存概念の発展を考慮したうえで、社会学的概念として本報告で扱うのは、「関係性そのものが嗜癖の対象となっている」ような関係性を称しての「共依存」である。その特徴を以下に示す。


 共依存者とは、自己自身に対する過小評価のために、他者に認められることによってしか満足を得られず、そのために他者の好意を得ようとして自己犠牲的な献身を強迫的に行なう傾向のある人のことであり、またその献身は結局のところ、他者の好意を(ひいては他者自身を)コントロールしようという動機に結び付いているために、結果としてその行動が自己中心的、策略的なものになり、しだいにその他者との関係性から離脱できなくなるのである。(加藤[1993:75])

 このように「他人に必要とされる必要」に迫られた共依存者の利他主義的特徴は、実は自分自身の存在証明をかけた、きわめて自己中心的動機から発しているという矛盾を、既にその内に抱えている。あるがままの存在の自己としては、他者に受け入れてもらえるだけの価値があるとは考えることができない共依存者たちは、他者からの評価を獲得することによってみずからの存在の意義を手に入れようとして、他者に焦点を合わせた献身的行為を繰り返すのである。

 

U 自己現象としての共依存

 「人間関係嗜癖」とも言われる共依存は、「他者との関係のとり方の問題」として考えることができる。そのとき、人間が持つ存在証明の問題、つまり「自分は何者であるのか?」という切実な問いに対する答えを導きだそうとするある態度のパターンとして、共依存という現象がみえてくる。

U-1 近代的自己と価値論的安定

 近代において、それまで人間の存在を外部から規定していた共同体(一定の場所に緊密な関係性が埋めこまれているという意味での)が崩壊し、ひとびとは「選択する主体」として自分の所属すべき集団を「複数」選びとり、みずからを帰属させていくようになった。このとき強調されたのは、「主体」としての個人の強烈な「理性」の存在である。この「理性」の働きによって、人間は何者からをも支配されない自律的な自己として存在しうるとされ、理性的自律的な近代的自己は、みずからをもってすべての出発点となった。

 このような近代的自己の誕生は、人間存在における存在論的肯定から価値論的肯定による安定感の獲得(「ただここに在る being」というだけではその存在に安定感を得ることができず、「…だから肯定する」というように、つねに「何かを為す doing」がゆえにその存在を肯定され、安定感を得る)という変化をその必然として伴っていた。それゆえ、近代においてはみずからの価値を証明することが自分の存在を証明することになる。

U-2 仮面の創出と他者の手段化

 近代以降、ひとびとが複数の集団にかかわるようになると、それぞれの社会的な場における多様なリアリティを経験する。つまり、自己他者関係におけるリアリティの多様性ゆえの自己創造の可能性を手に入れたのである。このとき、自己のリアリティもまた、他者たちとの相互行為を通して作られる構成物として経験されている。

 こうした自己のリアリティを自己他者関係のレベルにおいてとらえようとする傾向が強まるとき、それらのひとびとにとっては「自己の存在証明」は他者によってしか与えられないものとして認識される。そのため、「自分の価値を他者に認めてもらう」という目的のために、他者に焦点づけた仮面の創出を行ない、その呈示するものとしての仮面へ依存という現象が起きる。これは、ありのままの自分では他人に認めてもらえるだけの価値がないと感じており、「こうあるべき」という理想像を投影した仮面の顔を他者に承認してもらうことによって安心感を得る、というナルシシストの特徴に通じる。このような思考においては、他者は仮面を本物にするための、つまりは自分の存在を証明してもらうための手段でしかない。そして、共依存者とはそのような、「みずからの存在の意義を与えてくれる他者」として「特定の他者」との関係性に固着していった人びとのことである。

V 共依存とジェンダー

V-1 自己犠牲的献身と女性役割

 近代産業社会の性別役割分業システムのなかでは、人は自己の価値論的安定をこの分担された役割の遂行に求める。つまり、男は稼いで妻子を養うことに、女は夫、子どもの世話をすることにみずからの存在意義を求める傾向が強まる。そして「相手の満足の有無によって下される評価」によって自己の価値をも評価せざるをえない「ケア/世話役割」を担った女性たちは、その必然として共依存的生き方を余儀なくされているともいえる。このような性別役割分業に基礎づけられた近代産業社会におけるジェンダー関係のあり方こそが、「自己犠牲的献身による他者からの評価の獲得」という共依存の特徴と、性役割を担った女性との分かち難い関係を証明するものである。

V-2 フェミニストの共依存批判

 男女はそれぞれのジェンダーにしたがって社会化された自己のあり方をしている。近代はそのうち、自律と理性を重んじる男性的な価値こそを重要なものとしてきた。このような背景からフェミニストの中には、共依存概念は「世話の倫理」にしたがって「他者とのつながりを重視し、他者との関係性の維持を第一に考える」という女性的価値に対して、病的であるというレッテルを貼り、女性をおとしめるものである、と批判するものがいる1)。

 しかし、共依存の病理化に対する危険性だけを強調して、共依存概念そのものを批判するのはどうだろうか? むしろ、女性役割を担い、女性特有のものの考え方をするうちに生じてくる、人間関係の中での「苦しさ」に名前を付ける第一歩として「共依存」概念は非常に有効だと考えられるのではないか。なぜ女性が共依存的な自己のあり方をせざるをえなかったのか、という社会文化構造の検討、さらにはジェンダーによって偏りのある近代的自己のあり方を問い、新たな自己のあり方の摸索を可能にする概念だと考えることができる。

W 近代的自己批判としての共依存

 これまでみてきたように、共依存概念は「他者の手段化」と「自己犠牲的献身」という二つの側面から、近代的自己批判として読み替えが可能である。最後にこの二つの側面を整理する。

W-1 他者の手段化

 みずからの存在の根源をみずから自身に求めることによって始まった理性的自律的な近代的自己像は、それ自体が自己の不確実性の拒否のうえに成り立っていたともいえる。近代以降において人間は、みずからが唯一の「主体」となることによって、自分を取り巻く環境(人間も含む)を「対象」と見なし、その「対象」への働きかけによってみずからの存在性を示そうとしてきた。このように環境とみずからとの「つながり」を忘れ、何ものかによって「生かされている」存在として自分自身を認識するのではなく、「生きていく」存在であろうとし続けていかなくてはならないというところに近代的自己の限界を見ることができる2)。

W-2 自己犠牲的献身

 また、そもそも「世話」行為が、もっぱら「他者の欲求を満たすための行為」と見なされるようになってしまったのは、本来、人間が生きていくうえで必要不可欠であり、誰もが自分自身の生命をつないでいくために、生きていくうえで実践していた、世話、養育、配慮という「世話」行為を3)、生産領域と、再生産領域とに男女の役割遂行の場を分けるという性別役割分業のもと、個々人の直接的な生の営みから切り離したところにある。誰かの手によってなされることが当然視されることによって、人間のひとりひとりがその生の営みと不可分のところで為すべきものである「世話」が、「与えられたり、与えたり」するものになってしまい、ついには、自己存在の証明のための道具的手段として使われるに至るのである。

 何故この時代に「共依存」という言葉にわれわれの多くが共感をおぼえるのか? ひとびとは「共依存」という言葉に出会うことによって、みずからの「生きにくさ」の理由を得たような気になる。そして(ここが重要なのだが)、他者とのつながりを拒否するのではなく、ジェンダーを超えてわれわれの生に「組み込む」ことができたとき、「共依存」という言葉はその役目を終えるのではないだろうか。






【注釈】

1)「この社会において、女であるということのひとつの帰結が、価値のない女としての自己イメージの経験である。共依存という病気のラベルは、女性に自分に欠陥があるとみなし、家庭内での問題を自分のせいだと感じさせることで、これを強制する。例えば共依存の概念は、女性の関係へのコミットメントを病理化することで、女性の結合や養護の能力を無価値化している。」(Lodl[1995:208-209])

2) 嗜癖の回復に唯一効果があるとされている自助グループにおいて実践されている12ステップのなかには、「自分自身よりも偉大な力」「自分で理解している神、ハイヤー・パワー」「霊的に目覚め」という表現が使われている。このことからもわかるように、「人間的な力がおよばぬものでありながら、みずからの存在に決定的な影響を与えているような存在」言い換えれば「超越」とでもいうようなものとのつながりを想定することによって、嗜癖者はそれまで嗜癖対象と自分という閉ざされた関係のなかでのみ把握し規定していた自分自身を、開かれた世界へと解放するためのきっかけとしている。人は、多次元的な関係性のなかに立ち現われる自己存在を「全体として」認識し、「規定されざる自己」の存在を受け入れることができて初めて、自己の存在のために他者を手段として消耗してしまわない自己−他者関係を手に入れることができると言えよう。

3) ここでの「人間がみずからの生命を維持していくうえで必要な行為」とは、上野千鶴子が言うところの「自分自身の再生産」と同義、つまり、衣食住に関連した生命維持行為のことであって、他人に委ねることができるとできないにかかわらず、自分自身で遂行可能な行為を指す。

【主要文献】

浅野智彦 1992「自尊心―自己のパラドクス―」『ソシオロゴス』no.16 東京大学 大学院社会学研究科
Beattie, M., 1987, Codependent No More, Harper SF
Foucault, M., 1987, The Ethic of Care for the Self as a Practice of Freedom, Philosophy & Social Criticism, = 1990 山本学/滝本往人/藍沢玄太/佐幸信介訳「自由のプラチックとしての自己への配慮の倫理」J.バーナウアー/D.ラズミュッセン編『最後のフーコー』三交社
Gilligan, Carol, 1982, In a Different Voice: Psychological Theory and Women's Development, Harvard University Press, = 1986 岩男寿美子監訳、生田久美子/並木美智子訳『もうひとつの声』川島書店
Goffman, E., 1967, Interaction Ritual: Essays on Face-to-Face Behavior, Doubleday Anchor, = 1987 広瀬英彦/安江孝司訳『儀礼としての相互行為』法政大学出版局
加藤篤志 1993「社会学概念としての「共依存」」『関東社会学会論集』第6号
Lodl, Karen M., 1995, A Feminist Critique of Codependency, M. Babcock & C. Mckay (eds.), Challenging Codependency: Feminist Critiques, University of Tront Press.
内藤和美 1991「セクシズムに関する一考察」『学苑』617号 昭和女子大学近代文化研究所
野口裕二 1996『アルコホリズムの社会学―アディクションと近代』日本評論社
落合恵美子 1989『近代家族とフェミニズム』勁草書房
斎藤学 1989『家族依存症』誠信書房
Schaef, Anne. W., 1987, When Society Become An Addict, Harper SF, = 1993 斎藤学監訳『嗜癖する社会』誠信書房
Schaef, Anne. W., 1986, Co-dependence, Harper SF
上野千鶴子 1990『家父長制と資本制』岩波書店