序章 「共依存」の社会学的意義
 
 
T 共依存概念の成立
 「共依存 co-dependency」という概念は、1970年代終わりのアメリカで、アルコホリックの治療にあたる臨床の現場で生まれたと一般にいわれている*1。しかしその概念自体は未だ確定したものではなく、それぞれの研究分野によって、その解釈にも相違がある。本論文で共依存を扱うにあたり、この章では共依存概念における混乱を整理し、共依存概念についての筆者みずからの立場を明らかにしておきたい。そのためにも、まずは共依存概念の成立の過程を、アルコール依存症との関連からたどってみていくことにする。
 1930年から1940年にかけて、当初、本人の意志の弱さがその原因とみられていたアルコール依存症は、専門家の治療のもとで病気としてくくられ、医療化されるようになってきた*2。またその一方で、1935年にアメリカ東部において、中流階級の白人男性のアルコホリックたちがみずからの回復をめざして、宗教的、秘密結社的な集まりとして始めたAA(Alcoholics Anonymous)*3や、1951年にその妻たちを中心に設立されたアラノン(Al-Anon)*4などの自助グループも存在していた。そして、効果がなかなか現われない専門家たちによるアルコール依存症の治療に対して、これらの自助グループは「12ステップ*5」という独自の方法によって、アルコール依存症の回復に格段の効果を挙げていたのである*6
 このようなアルコール依存症との取り組みのなかで、次第に、家族からの隔離と、同じ依存症に苦しむ仲間との交流が、アルコホリックの回復にとって効果的であることが明らかになってきた。それは、治療を経て回復の兆しの見えたアルコホリックが、また同じ家族関係のなかに帰っていくと、ふたたび「しらふ」のままでいることが困難になるという状況から導きだされたものであった。こうしてアルコホリックの回復に、その家族が関係しているという認識が高まるにつれて、アルコール依存症を個人の精神だけの問題としてではなく、関係性のコンテクストのなかで把握するという傾向が強くなっていった*7。さらに、通常はその配偶者であるが、アルコホリックの周囲には必ずといっていいほど、この病気に巻き込まれながら、アルコホリックの依存心に依存するといった形で、この病気に手を貸してしまっている人間が存在することが判明した。そのような人びとは、「後押しする人」という意味の「イネイブラー enabler」と命名され、アルコホリック本人の回復には、イネイブラーの側の変化が重要であるという見方が示されたのである。
 その存在が認識された当初のイネイブラーへの対応は、あくまでも「アルコホリックの病気を永続させる手助けをしないようにするにはどうすればよいのかについて学んでもらう」という、アルコホリックの回復を第一にめざしたものであった。しかし、実際にこのイネイブラーの変化に取り組んでみると、たんに「アルコホリックの支え手」という位置づけでは済まされないほど、その回復が困難であるという現実に直面することになったのである。そこで、このイネイブラー自体を深刻な病理を抱えたひとつの存在として扱う、「コ・アルコホリック co-alcoholic」や「パラ・アルコホリック para-alcoholic」という言葉が登場した。ここでは、アルコホリックの周りにいる人びと自身も、みずからが「しらふ」でいることが非常に困難であり、アルコホリックと良く似た症状を訴えることから、アルコホリックと一緒に生活をしている人間は、アルコホリックに対するのと同様の影響を、アルコールによって受けるのだという考え方が基礎にされていた。
 さらに、このような状態にある人びとが、アルコール依存症にかぎらず、さまざまな嗜癖者*8の周辺に共通して見られることが明らかになると、それまでのようにアルコール依存症という特定の嗜癖に関係づけられた「コ・アルコホリック」などという用語ではなく、「嗜癖者との関係にコミットして生きている結果として、自分の生が手におえないようになった人(Beattie[1987:34])」という、嗜癖者一般との関係性の病理をあらわす言葉として、「共依存 co-dependency*9」という概念が成立するに至ったのである。
 
 
U 共依存概念の発展と社会学的定義
 それまでは、あくまでも「嗜癖者」が先に存在しているという状況においての「反応的」な行為として取り扱われていたものに対して、ひとたび「共依存」という独立した言葉が与えられると、実は共依存こそが病理の本質、つまり一次的な現象であり、アルコール依存症や薬物依存などの物質への嗜癖は、根源的な関係性の病理を修飾する二次的な現象に過ぎなかった、という認識上の大転換が起きることになった。
 このような共依存概念の発展的解釈について、もっとも肯定的な立場をとる一人である A.W.シェフは、その認識上の転換を踏まえて、嗜癖行動の仕組みを以下のように整理している。彼女は、嗜癖のうちのアルコールや薬物や食料のような物質の摂取を内容とするものを「物質嗜癖」、ギャンブルや仕事や買い物などの行為の過程を内容とするものを「過程嗜癖」と分類し、さらにこれらの嗜癖の基盤として、人間関係の嗜癖である「関係嗜癖」を想定している。そして、この「関係嗜癖」の基本型が「共依存」というのである。(Schaef[1987=1993:28-41])
 共依存概念の成立が、アルコール依存症の臨床現場での「イネイブラー」から、「コ・アルコホリック」を経て「共依存」へという背景をもっているがゆえに、今もなおそれぞれの研究者の立場から、共依存の定義としてさまざまなものが出されている*10のは事実である。しかし、1989年にアメリカにおいて最初の共依存についての会議(the First National Conference on Codependency)が開かれ、20人以上の高名なセラピストや理論家たちによって、共依存は症状のカテゴリーとして認められ、そこで共依存は「安全感とアイデンティティと自己価値感を得るための、強迫的な行動と承認探究に対する、苦痛をともなう依存のパターン」と定義された(Mckay[1995:221])。この定義からもわかるように、現在アメリカでは、共依存概念は、物質嗜癖者とのかかわりという文脈を超えたところで、あくまでも人間関係のあり方の基礎をなすものとしての「関係性の病理」として、あらゆる社会生活の場面において、広く適用されるに至っている。
 このような共依存概念の発展を考慮したうえで、筆者が社会学的概念として本論文で扱おうとしているのは、「関係性そのものが嗜癖の対象となっている」ような関係性を称しての「共依存」である。A.ギデンズも、共依存概念がアルコール依存症やその他の薬物依存症の治療現場から出てきた概念にもかかわらず、その発展の過程において、必ずしも物質嗜癖そのものとの関連は問題ではなくなってきているという、共依存概念の発展にともなう混乱を指摘し、そこから関係性の相互行為的特質を取り出して、共依存を次のように定義している。
 
   共依存症*11の《人》とは、生きる上での安心感を維持するた
  めに、自分が求めているものを明確にしてくれる相手を、一人
  ないし複数必要としている人間である。つまり、共依存症者は、
  相手の要求に一身を捧げていかなければ、みずからに自信を持
  つことができないのである。共依存的《関係性》は、同じよう
  な類の衝動的強迫性に活動が支配されている相手と、心理的に
  強く結び付いている間柄なのである。(Giddens[1992=1995:135])
 
 共依存概念をこのように関係性についての嗜癖としてとらえなおすとき、それはあらゆる社会的場面において、人間が対他関係を取り結んでいくさいの、社会的関係性のあり方という視点から考察することが可能になる。また、「アメリカの全人口の96%は共依存*12」と指摘されるような状況から、共依存をある集団の大多数の成員が共有している性格構造、すなわち社会的性格として扱うことによって、人びとがそのような関係性をもつに至った心理的、社会的背景を分析することは、現代社会を理解する大きな手助けになると思われる。
 このようなマクロな視点による共依存の分析は、すでにアメリカを中心に始まっている。 A.W.シェフは「共依存は、それ自体とても興味深い病気です。それは私たちの文化によって支えられているだけではなく、文化の中で積極的な機能を果たしているのです。つまり、嗜癖システムに順応している限り、共依存的にならざるを得ず、共依存はシステムにとって、一つの規範としての機能を果たしているのです(Schaef
[1987=1993:42])」と述べ、共依存を積極的に文化、社会的なコンテクストにおいてとらえようとしている。また A.ギデンズは、嗜癖的関係性に影響を及ぼしている構造的変容に着目しており、「関係性の変容」という歴史的な流れのなかでの一段階として、共依存的関係性をとらえているのである。
 
 
V 共依存の特徴
 では、共依存とはいかなるものかを具体的な特徴を挙げてみていくことにする。共依存に関する著書のなかには、数多くの特徴が挙げられているが、ここでは A.W.シェフによって挙げられた共依存者の特徴を中心に、いくつかのものを以下のようにまとめた。(Schaef[1987=1993:42-46])
 
・自分を価値の低い者と感じ、自分が他者にとってなくてはならない者であろうと努力する。
・他者からの好意を得るためなら何でもする。
・つねに他者を第一に考え、みずからは犠牲になることを選択する。
・奉仕心が強く、他者のために自分の身体的、感情的、精神的欲求を抑える傾向が強い。
・他者の世話をやくことによって、その他者が自分へ依存するように導く。
・強い向上心を持った完全主義者で、自分は物事を完璧にやれないから 良い人間ではない、方法さえ見出せば完璧にやりとげられるはずだと信じている。
・自分と他人との境界が曖昧*13で、他人の感情の起伏の原因が自分にあると思ってしまう。
・他者に対して不誠実、支配的で、自己中心的である。
・策略的な手段を用いる傾向があり、自分の気持ちを直視せず、平気で嘘をつく。
 
 これらの共依存者の特徴には、滅私的に他者尊重を行なう自己犠牲的な献身と、他者を支配しようとする自己中心的な他者操作という、一見、矛盾しているように思える要素が混在している。しかし、これらの共依存的行動の特徴の裏側に共通するものとして、精神分析医であり共依存に詳しい斎藤学は「他者をコントロールしたいという欲求」の存在を指摘するのである。また、加藤篤志はその「他者へのコントロール欲求」という視点を中心に、共依存者の特徴を次のようにまとめている。
 
   共依存者とは、自己自身に対する過小評価のために、他者に
  認められることによってしか満足を得られず、そのために他者
  の好意を得ようとして自己犠牲的な献身を強迫的に行なう傾向
  のある人のことであり、またその献身は結局のところ、他者の
  好意を(ひいては他者自身を)コントロールしようという動機
  に結び付いているために、結果としてその行動が自己中心的、
  策略的なものになり、しだいにその他者との関係性から離脱で
  きなくなるのである。(加藤[1993:75])
 
 このように「他人に必要とされる必要」に迫られた共依存者の利他主義的特徴は、実は自分自身の存在証明をかけた、きわめて自己中心的動機から発しているという矛盾を、すでにその内部に抱えている。あるがままの存在の自己としては、他者に受け入れてもらえるだけの価値があるとは考えることができない共依存者たちは、他者からの評価を得ることによってみずからの存在の意義を手に入れようと、他者の用意した「定義された自己像」に向けて、自己破壊的同調をしていく。そこには、度重なる夫からの暴力を受けながら、「この人を立ち直らせることができるのは、自分しかいない」という自負の念を支えに、耐えつづける被虐待妻 battered wife や、仕事への熱中と業績の達成、そして社会的評価の獲得というサイクルのなかに自己をつなぎとめ、会社によって自分が必要とされ、評価をされているという実感によって、自己の存在意義を手に入れている仕事中毒者 workholic*14の姿が浮かんでくる。A.ギデンズが「固着した関係性 a fixated relationship (Giddens[1992=1995:135])」と形容するこのような共依存的関係性においては、人は他人を、みずからの身の安全を確保するための手段とみなし、自分に評価を与えてくれる道具として利用しているにすぎない。そのような人間関係において繰り広げられる相互行為ではつねに、他者を自分の思う方向へ動かそうという「コントロールをめぐる権力闘争」が展開されており、それは、生きていく手段として、お互いを消耗し合っているに等しい状態なのである。
 しかし、実際にわれわれが生活をしているこの現代社会のなかで、他者からの評価を得ることによってみずからの存在の意義を手に入れようと必死になっているのは、何も特殊な人びとに限られたことではない。いまやわれわれは、外部からの徹底的な評価によって管理され、「品質」ごとに階層分化されるようになっている。そのような社会において重要なのは、外部にある評価規準によって、自分が「どのように評価されているか」ということなのであり、少しでも高い評価を得ようとして、われわれはみずからの「品質」を上げることを生きる目標にしさえする。そのようなわれわれの生きる、現代社会での一場面を斎藤学は次のように描写している。
 
   少女たちが彼女たちの身体を客体化し、異性にとっての“良
  い製品”である自己を作り出すことに汲々としている間、彼女
  たちの父親や母親は職場にとっての良い働き手、家族にとって
  の良い母を演じ続けて倦まない。職場に過剰適応している多く
  の父親たちは、それによる苦痛を感じることもないという点で、
  彼らの娘たちよりも危険なところにいる。彼ら仕事依存者たち
  は、そうした夫にひたすら奉仕する共依存的な妻たちの期待に
  応えて、ひたすら働き、豊かな人間関係と、成熟した自己洞察
  を失って行く。今の社会の“健全な”家族のなかで営まれてい
  るのは、この種の“非健全”である。子供たちは、職場での成
  績にしか生きがいを見出せない仕事依存的な父親と、彼に奉仕
  しながら支配する母親を見ながら家族という“居心地の良い牢
  獄”の中で成長し、他者から評価されることでしか自己を実感
  できない人に育つ。学校制度はこの種の空虚な人格の養成を主
  な機能とし、その規範に同調する生徒は、次の世代の役割ロボ
  ットとして合格品と判定される。(Schaef[1987=1993:xvi])
 
 このように、共依存者の特徴だとされている「自分の存在意義を手に入れるための他者からの承認獲得欲求」は、現代社会のあらゆる場面で見られる現象ともいえるのである。そんな社会において「当たり前」に成長し、「自然に」社会人となって生活するうちに、ふと「生きにくさ」を感じた人びとが、いま、みずからに名前を与えようとしている。近年の共依存概念の広がりは、アルコホリックが自分をアルコホリックだと認めたとき(自分の抱える問題に「アルコール依存症」というレッテルを貼ったとき)から回復の途につくように、現代社会を生きる人びとがみずからの回復のために、「共依存」という用語を必要としているということなのではないだろうか。



*1 「共依存」という言葉を発見したと名乗る人は多いが、特定するのは困難である。心理学者であり、共依存分野の先導者でもある、Sondra Smalleyによると、ミネソタにある幾つかの異なる治療施設で、同時にその言葉が使われるようになったということなので、その情報からすると当時、薬物依存治療と12ステッププログラムの中心地だったミネソタにおいて発見されたと推測される。(Beattie[1987:33])
 
*2 精神医学分野において、嗜癖を病気と呼ぶことについての妥当性は、未だ解決しておらず、議論が続けられている。しかし、アルコール依存症はその犠牲者が抑制が効かなくなるという生理学上の理由から、病気として扱うというのが優勢的な見解である。(Krestan[1995:96])
 
*3 1930年代当時のアメリカでは、アルコール依存症を対象とした、公的施設がほとんどなく、アルコホリックという烙印を押された人の大部分は、精神病院か刑務所に行くことになっていた。(斎藤[1989:176])それを免れるために、Bill Wilson と Dr Robert Smith の二人は、治療者の助けを借りずに、みずからの手でアルコール依存症からの回復をめざして自助グループを組織した。
 
*4 AA設立者 Bill Wilson と Dr Robert Smith の妻である、Lois Wilson と Anne Smith が「アルコホリックと同じように、アルコホリックと一緒に生活している人間も、アルコールによって影響を受けている」という考えを基礎にして、配偶者がおかされているアルコール依存症による、その妻たちへの影響の仕方を取り扱うために設立した。多くのアルコホリックの回復に効果があったAAの12ステップに変更を加えて、自分たちの回復の指標にした。(Beattie[1987:33-34])
 
*5 AAの12ステップ(AA文書委員会訳、AA日本ゼネラルサービス・オフィス)
 
 1. われわれはアルコールに対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた。
 2. 自分自身よりも偉大な力が、われわれを正気に戻してくれると、信じられるようになった。
 3. われわれの意志と生命を、自分で理解している神、ハイヤー・パワーの配慮にゆだねる決心をした。
 4. 探し求め、恐れることなく、生きて来たことの棚卸表を作った。
 5. 神に対し、自分自身に対し、もうひとりの人間に対し、自分の誤りの正確な本質を認めた。
 6. これらの性格上の欠点をすべて取り除くことを、神にゆだねる心の準備が完全にできた。
 7. 自分の短所を変えて下さい、と謙虚に神に求めた。
 8. われわれが傷つけたすべての人の表を作り、そのすべての人たちに埋め合わせをする気持ちになった。
 9. その人たち、また他の人びとを傷つけない限り、できるだけ直接埋め合わせをした。
10. 自分の生き方の棚卸しを実行し続け、誤った時は直ちに認めた。
11. 自分で理解している神との意識的触れ合いを深めるために、神の意志を知り、それだけを行なっていく力を、祈りと黙想によって求めた。
12. これらのステップを経た結果、霊的に目覚め、この話をアルコール中毒者に伝え、また自分のあらゆることに、この原理を実践するように努力した。
 
*6 アルコール依存症の回復において、AAが「唯一誇るべき成果をあげている」理由を理論的に思索している研究として、ベイトソンの「<自己>のサイバネティックス ― アルコール依存症の理論」Bateson[1972=1982:
443-484])は、非常に意義深いものである。
 
*7 薬物依存の分野において、Virginia Satir は「家族療法」という概念を発展させ、Vernon Johnson や Sharon Wegscheider-Cruse などは、アルコール依存症を家族の病として認識し始めた。(Schaef[1986:8-11])
 
*8 本論文で使用する「嗜癖 addiction」という用語は、強迫観念にとらわれて行なうある種の強迫行為のことで、特に主体の快体験のともなうものを指している。
 
*9 「共依存」の英語表記について、最近では "co-dependency" も一つの単語として広く認知されるようになり、"codependency" として表記されることも多い。
 
*10 代表的な定義をいくつか挙げてみる。
 
・共依存概念の発展と共依存治療についての第一人者である、Sharon Wegscheider-Cruse によると、共依存は「他者あるいは他者の抱える問題への嗜癖、あるいはその問題と関係性への嗜癖」であり、共依存者とは「愛や結婚によって嗜癖者との関係に取り込まれた人で、少なくともアルコホリックの親や祖父母を持ち、あるいは感情障害的な家族の下で成長している」人を指している。(Schaef[1987=1993:41])
 
・家族療法の分野から共依存を定義している Robert Subby は、共依存がたんにアルコホリズムと結びつけられるべきではないという立場をとっており、「個人的な、または個人間の問題についての直接的な議論や、開かれた感情の表現を妨げるような抑圧的なルールによって仕込まれた、問題解決と生き方の機能不全的なパターン」として、共依存を家族体系に起源をもつものとしてとらえている。(Schaef[1986:19-21])
 
・カウンセリングの立場から共依存や12ステップ関連の本を出版している Melody Beattie は、「共依存者は、他の人の行為を自分自身に影響させる人であり、また、その人の行為をコントロールすることに取りつかれている人」であるとしながらも、共依存が病理であるという見方に対しては慎重であり、あくまでも共依存が「反応的な過程」であることを強調している。そして「共依存は病気ではないかもしれないが、あなたを病的にさせることができる。そして共依存はあなたの周りの人を病んだままにさせておくのを助ける」のだと述べている。(Beattie[1987:31-39])
 
*11 原文は“ A codependent person ”であり、訳者の判断により「共依存症」と訳し出されているが、本論文中の「共依存」と同義である。
 
*12 Sharon Wegscheider-Cruse は、共依存の定義としてみずからが挙げた3項目( @愛や結婚によって嗜癖者との関係に取り込まれた人 Aアルコホリックの親や祖父母をもつ人 B感情障害的な家族のもとで成長している人)のいずれかに該当する人、すなわち共依存者は、アメリカの全人口の約96%を占めるという指摘をし、共依存がアメリカの大多数の人びとにおよんでいるという認識を示している。(Scheaf[1987=1993:20])この数字については正確な科学的根拠はないものの、共依存の広がりという状況を示すひとつの興味深い指摘として、多くの研究家たちによって引用されている。
 
*13 ここでの記述には、臨床家のいういわゆる「自我境界」という概念が関係してくる。共依存の人びとは、自己の始まりと終わり、他者の始まりと終わりがどこまでかまったくわからなくなっており、自己が独立した存在ということを認識できていない。それゆえ、他人の感情と自分の感情とをはっきり区別することができず、他のすべての人、すべての物は、自己によって認知された通りに行われ、関係づけられ、決定されなければならないと感じているのである。(Schaef[1987=1933:54-55])
 
*14 ワーカホリックそれ自体は過程嗜癖と呼ばれているものだが、すべての嗜癖の基盤として関係嗜癖が位置しているので、ワーカホリックの考察を通しても共依存的な人間像が見えてくる。