第二章 仮面と真実 ―共依存的関係性への軌跡T 自己と他者 ―リアリティの所在1 経験の個別性「人は存在証明に躍起になる動物だ。(中略)『自分は価値ある特別な人間なんだ!』ということを証明しようとすることに人は没頭するあまり、じつにいろいろな悲喜劇が演じられてしまう(石川[1992:5])」という言葉が表わしているように、近代において「個体」という概念が生まれてから現在に至るまで、自分が、ここに存在する(being)というだけではなく、何かをなしうる(doing)価値ある存在である、という実感を得ることに人びとはみずからの存在の証しを求めてきた。前章においてみてきたように、それは存在論的安定を得ることが困難になった人間が、価値論的な安定を求めざるをえなくなった結果といえるものである。さらに、人格崇拝という仕組みによって、互いが互いを崇め合う司祭としての役割を担っているかぎりにおいて、人びとは社会につながれ、それぞれの人間関係を保っているという、承認体系としての社会構造が存在していた。そのような現代社会において、自己の価値論的安定としての存在証明には、必ず「承認するものとしての他者」の存在が不可欠となったのである。この章では、個人がみずからの価値論的安定としての存在証明を得るために、いかにして他者との関係を取り結んでいくのかについて考察し、その自己―他者関係と自己現象のつながりを明らかにすることによって、現代社会において人びとが他者とのあいだに共依存的関係性を結ぶに至った仕組みを考えていきたい。ある人が他者の経験を研究する場合、直接的には、他者についての自分自身の経験を直接的覚知しうるにすぎない。彼は、<同一の>世界についての他者の経験の直接的覚知を持つことはできない。彼は、他者の目を通じて見ることはできないし、他者の耳を通じて聞くこともできない。(Laing[1961=1975:27])R.D.レインは精神分析者への批判として、このような人間の経験の仕組みについての事実を前提とした分析を行ない、その対人関係論を展開している。それによると、たとえば、われわれは同じ風景を眺めていても、その感じ方はそれこそ千差万別であって、「共有している」と思っている景色でさえも、けっして他者と同じように経験されている訳ではない。つまり、普段われわれが「共有しているはず」の世界は実は、それぞれの個人の認識に基づいて構成された別々のものなのであって、われわれは、それぞれの仕方で経験し、認識し、組み立てた、それぞれに固有の世界のなかに生きているのである。だがこの世界 ― 私のまわりの世界、私がそのなかに生きている世界、私の世界 ― は、対自存在という形式の構造そのものにおいて、ただ、排他的に私の世界なのではなく、あなたの世界でもある。あなたのまわりに存在するのみならず、彼のまわりにも存在し、共有世界であり、一つの世界であり、世界そのものである。(Laing[1961=1975:38])レインはまたこのように述べ、人間が他者と関係を結んでいくなかで、まずは前提として、各個人がもつ世界の個別性についての認識をもったうえで、そこから始まる自己と他者の関係について、その可能性を探るべきだと主張する。そして、それぞれの経験によって異なる世界に生きるわれわれは、他者たちと個々の経験を分かち合うためにコミュニケーションを行なう。それはゴフマンが見た対面的相互行為場面であり、まさに、仮面の創出によって自己の分離を経験した個人、すなわち現代社会における状況的個人が、他者たちとの共働によって「共有世界としての状況」を定義していく過程である。そしてその過程において、状況の真実―リアリティ―もまた、他者たちとの共働によって作られる構成物なのである。レインはこの人間の経験世界の個別性についての考えを発展させて、自己―他者関係における互いの認識について次のように述べ、他者を理解するということの困難さと不確実性を明らかにした。他者の自己存在を理解することは困難である。私はそれを直接経験することはできない。他者がどのように自分自身を経験しているかを推論するには、私は彼の行動と証言に頼らざるをえない。(Laing[1961=1975:36])互いが互いの経験を直接経験することができないということはすなわち、自己の自己自身についての経験も、他者は直接経験できないということである。互いが互いについて直接経験ができない以上、あらゆる人間関係は他者による自己の、自己による他者の定義づけを基礎にしているということになる。ここにこそ、現代における多元的リアリティの問題があり、「自分が何者であるのか」というみずからのリアリティさえも、他者たちとの相互行為を通じて作られる構成物として経験されるのである。そして、このように自己現象のリアリティを自己―他者関係のレベルにおいてとらえようとする傾向が強まるとき、それらの人びとにとっては自己の存在証明は他者によってしか与えられないものとして認識される。こうして、人びとはみずからの存在証明を手に入れるために、さまざまな方法を用いながら他者たちとの関係を結んでいくのである。2 リアリティとアイデンティティ「もしひとがある状況を真実であると定義したなら、その状況は結果においても真実である」という有名なトマスの公理は、もとの状況が曖昧であればあるほど正しく、それだけ<信じる>ひとたちの世界を描いて的確である。もともと人の心(そして命)ははかない故に、人間関係は<信じる>ことによってのみ成りたち、そのリアリティを確保している。(大村[1982:91])ここで指摘されているように、経験の固有性ゆえに不確実である状況の定義においては、「信じること」がそれぞれの人間にとっての「真実」であり、同様に不確実な自己―他者関係においても、互いが互いについて「信じること」こそが、相手についての「真実」となる。つまり、相手にとっての「本当の私」は、相手が「信じているところの私」であり、それは相手の判断によって決定されてしまうものなのである。自己―他者関係において、その「人となり」を定義づけするための重要な情報として、人の言動は扱われる。初めての人に出会ったとき、われわれはほとんど無意識のうちに、相手からの情報をまとめて、自分なりにその人のイメージを作りあげる。「他者を理解する」という行為は、他者について抱くこのようなイメージの絶えざる修正の連続ともいえる。また、他者から自分が判断されるときにも、同様のことが他者によってなされるのであり、それゆえ人は自分に関する情報が相手にどのように伝わっているのかについて、なんの確信ももてないのである。このように、自己についてのリアリティとは、いうならば自己と他者の「あいだ」に存在している。たとえ自分自身についてのみずからの認識であっても、世間の側から「そう見え」なければ「そうである」ことにはならないし、ともすれば、他人にとって「そう見える」ことがそのうちに「そうである」に変わってしまうかもしれない*1。自分が思っているだけの自分に関するアイデンティティ*2は、他者によって認められないかぎり、その人の思い込みでしかない。アイデンティティとは、他者との相互行為を通じて「自分にとっての私」と「他人にとっての私」とを均衡させるところに存在し、他人のまなざしのなかで、形作られたり、確立されたりしていくものである。このようなアイデンティティ形成の仕組みについてレインは以下のように述べている。<アイデンティティ>にはすべて、他者が必要である。誰か他者との関係において、また、関係を通して、自己というアイデンティティは現実化されるのである。(Laing[1961=1975:94])このように他者との相互行為を必要とするアイデンティティ形成の場面においては、みずからに関する事柄について、「信じ―信じさせる」という関係がその場の状況を決定するともいえる。そうした自己―他者関係において、相手の判断を自分の意図する方向へと向けようという目的で、自分自身についての情報を相手に伝達しようとする場合がある。人はみずからが発する自分自身に関する情報を操作することによって、他人のなかに、みずからが思い描いた通りの「自分」を存在させようとするのである。しかしこのように、他者との相互行為場面において、みずからについての情報を思うように相手に伝えたいと願い、相手に信じてもらいたい自己像を投影した仮面を他者に呈示したとしても、それは単に「真―偽」の二項図式に還元されえない、現代社会における自己のリアリティの多元性の現われだといえる。この仮面と自己のリアリティの関係について、R.E.パークの次の言葉はわれわれに多くの示唆を与えてくれている。ある意味で、そしてこの仮面がわれわれが自己自身についてつくり上げた概念―すなわちわれわれがその要求に応えようとしている役割―を表わしているかぎりで、この仮面はわれわれの真の自己、すなわちわれわれが現実化しようとしている自己、なのである。つまり自分の役割についてわれわれがもつ概念は、第二の天性であり、われわれのパースナリティの不可欠の一部分となるのである。われわれはこの世界に個人として登場し、性格を得、そしてさまざまの役柄をもつ人間になるのである。(Goffman[1959=1974:21-22])リアリティと個人のアイデンティティが「他者の承認」によってつながれている現代において、状況に応じたいくつもの仮面を所有し、それらの仮面の集合体として、ある程度の統一性を保ちながら一個の自己として存在しているのが、状況の定義と自己の定義が密接に関係しあっている、現代の状況的自己のありようである。そして、このような自己についての多元的リアリティを生きる人間は、少なくとも行為する主体として、他者に向かってその仮面を呈示し、承認を受けることによって、その仮面をみずからの顔として、みずからをも創り出していけるのだという、人間の「自己創造」ともいうべき可能性を有しているともいえる。しかしここで問題になってくるのが、呈示するものとしての「仮面の創造」と、それらの「仮面」と「演技者」との距離のとり方である。この点を中心に考察を進めながら、「自己創造」の可能性を有しているはずの人間が、「共依存」という固着した関係性のなかにみずからを投入していくようになる仕組みを、以下で詳しくみていくことにする。U 呈示するものとしての仮面への依存 ―ナルシシスト1 道具としての仮面これまでみてきたような現代社会における自己現象を踏まえたうえで、自己の創造性という「自由」に向けて解き放たれてしまった人間が、その自由と引き換えに、みずからの内部に「不安」を抱え込んでしまった、という見方もできる。人口統計と人口の成長に伴う社会の技術的、制度的変化に基づいて、人間の社会的性格のパターンをまとめた D.リースマンは、初期的人口減退の段階にあるとされる現代人を「他人志向型」の人間と呼び、その特徴を次のように表現している。その記述を「仮面の創造」という視点からみてみると興味深い。他人志向型に共通するのは、個人の方向づけを決定するのが同時代人であるということだ。(中略)他人志向型の人間がめざす目標は、同時代人のみちびくままにかわる。かれの生涯をつうじてかわらないのは、こうした努力のプロセスそのものと、他者からの信号にたえず細心の注意を払うというプロセスである。(Riesman[1961=1964:17])ここで、絶えず他人の眼差しのなかで自分のあり方を決定しているように描かれている現代人は、実は、その存在論的な安定を失い、自分についてのリアリティを他人に委ねてしまっているがゆえに、何者でもない自己存在への不安から、その面にかける仮面によって確固たる自己存在を手に入れようとしているのだと解釈することができる。そしてこのとき、みずからの面にかける仮面は「他者による評価」の獲得に焦点を合わせて創造されている。このような、自己の存在を手に入れようという意志のもとに創造される「仮面」はまさに、他者への呈示をその目的として創られた、「道具としての仮面」なのである。イメージはそれ自体が自分の感情の否定である。誇大なイメージに同一化することで、ひとは自分の内的現実のつらさを無視することができる。だがイメージはまた、世界にたいする関係においてひとつの外的な機能をもはたす。イメージは他者に受容されるための方法であり、他者を誘惑する方法であり、また他者にたいする権力を獲得する方法なのである。(Lowen[1985=1990:107] 下線:引用者)これは、精神科医として活動をする A.ローウェンが『ナルシシズムという病い』のなかで、ナルシシストとナルシシスト自身が自分に関してもっているイメージについての記述である。ここでの「イメージ」はまさに、「道具としての仮面」として読み替えることが可能である。また、ローウェンはナルシシストを定義して次のように述べている。じっさいナルシシストたちは、自分はこういう人間であるべきだと思うイメージと、自分が現実にはどういう人間であるかというイメージとを区別することができない。その二つの姿が一つになってしまっているのだ。(中略)そのとき何が生じるのかといえば、ナルシシストは理想化されたイメージに同一化するということである。そして現実の自己イメージは失われてしまう。(Lowen[1985=1990:15])ここで、ナルシシストとして指摘されているのは、自分の存在に対する他者からの承認を得たいがために、他者からの称賛を得られるであろう自己イメージ(理想像を投影した仮面)に、依存といえるほどの過剰なのめり込みをしている人びとである。ナルシシストたちの行為は、つねに、その仮面を本物にするという目的のためになされているかのようである。このとき、他者たちが抱く彼らに対するイメージは、彼らの行為によって引き出された“意図された”イメージであって、彼らは他者たちから仮面の顔の承認を受ければ受けるほど、自分の存在が認められたという安心感を得ることができている。彼らは自分そのものとして、他の人びとのなかを自分の仮面が歩き回ることを夢見ている。ナルシシストたちの特徴とされる、このような理想像を投影した仮面への人格的依存の背後には、「今と違う、今よりも良い人間になろう」という、向上心とも呼べる意志が存在する。しかしその仮面の創造においては必ず、自分の存在についての承認の獲得という、他者の眼差しが前提とされており、そのかぎりにおいて、理想像を投影した仮面は他者の承認を獲得するための「道具としての仮面」でしかないのである。2 仮面への依存と自己喪失また、ナルシシストたちはみずからの身体を精神の道具、あるいは自分の意志の従属物とみなしており、「こうあるべき」という強靱な精神力によって、みずからの身体的な感覚や感情さえも、その仮面の下に抑えこむ。彼らは、「より高次の」性質である精神の働きによって、「より低次の」性質である、みずからの感情や身体を克服できると信じている。このとき、みずからの「あるがままの」感情や身体は、「より低次の」性質として認識され、それは「より高次の」性質を付与された仮面によって覆い隠される必要がある、という結論を導くのである。このような「道具としての仮面への依存」とも呼べるような自己現象からは、ゴフマンが指摘したところの「役柄を演じているパフォーマー」、もしくは「仮面をかけた演技者」という、「内的自己と外的自己の分離を意識しつつも、それらの統一体としてある個人」の姿をうかがうことはできない。そこからは、もはや仮面の背後に押し隠された演技者のかすかな気配でさえ、感じとることは難しい。それは「社会的役割」と「自己」とのコミットメントの仕方についての例において、ゴフマンが以下で指摘している「自己喪失」にきわめて近い状態なのである。帰属するものが何もなければ、われわれは安定した自己をもてない。だが社会的単位への全面的な関与と愛着は一種の自己喪失といえる。一個の人間であるというわれわれの意識が大きな社会的単位に属していることに由来するものならば、自己であるというわれわれの意識は、その引力に抵抗するさまざまなささやかな仕方にあらわれる。われわれの地位が世界の堅固な構造物に裏付けられているとすれば、われわれの個人的アイデンティティの意識は往々にしてその世界の亀裂を拠り所としているのである。(Goffman[1961=1984:317])ゴフマンが現代社会における相互行為場面でたびたび目にしていたのは、「仮面(外的自己)」の下から思わず覗いてしまう「演技者(内的自己)」の人間臭さであった。実は、その「演技者としての内的自己」の存在を「自己の感情的リアリティ」として、行為者みずから認識しているかぎりにおいて、「仮面」をつけていながらも、けっして「仮面」そのものには還元されてしまわない存在としての人間の姿*3を、ゴフマンは描き出していたのである。しかしナルシシスト的な自己現象においては、人はみずからの存在証明を手に入れようとして、積極的に自己の価値論的安定を求めるあまり、ある特定の仮面への全面的な依存をしてしまう。このときナルシシストたちは、「自己創造」それ自体を目的としてしまっているのであり、道具としての仮面の呈示に没頭するあまりに、自己喪失を経験しているといえるのである。ナルシシストの「自己愛*4」を語ろうとするなら、ひとつの区分をしておく必要がある。ナルシシズムとはほんとうの自己ではなく、自分のイメージを愛する*5。彼らは貧弱な自己感覚しかもっていない。彼らは自己へ向かってはいない。そうではなくて、彼らの活動は、しばしば自己を犠牲にしながら、自分のイメージを高めることへと向けられているのである。(Lowen[1985=1990:40])こうしてみてくると、自己の不全感や無力感を補償するものとしての仮面をかぶり、その仮面としての生を生きることでかろうじて存在しているナルシシストたちの姿と、その特徴として「自尊心の低さ」という自分に対する無価値感をもつ共依存者の姿とは、重なるところがかなり大きい。どちらも「ありのままの自分」では他者から承認を得ることがでないと感じており、他者からの承認を得ることを目的とした仮面をかぶり、その仮面にたいする承認を自分自身に対する承認だと信じることによって、みずからの存在に必要な価値論的安定を得ているのである。V 他者の手段化 ―ナルシシストと共依存者1 手段としての他者人間はすべて、自分自身の実在感の大部分を、他人が彼に語りかけること、および他人が彼について考えているその内容から得ている。しかし、多くの現代人は、みずからの実在感覚を確かめるためあまりにも他人依存的になってしまったために、他人に頼ることなしには、自分自身の存在の意味が失われてしまうのではないかと案じているほどである。(May[1953=1995:26])という現代人が取りつかれている孤独と不安を描いたロロ・メイの記述が明らかにしているのは、まさに自分の存在意義を他者からの評価という不確かなものに求めてやまない共依存者の姿である。彼はそのような現代人の、自己定位のための他者関係への過剰な欲求のほかに、現代社会が、人間が社会に受け入れられるということを、あまりに強調しすぎている社会だと指摘する。そのような社会における人間にとっては、その社会的順応が不安を癒す主たる方法になり、かつ人間的威信が保たれているという証拠になるのだという。つまり現代人は、身分でも経済力でもなく、「いつも他人に求められており、決して孤立してはいないということで、『社会的成功状態』にあるということをたえず証明しなければならない(May[1953=1995:21])」と感じているのである。そして、現代の人びとは社会的順応を果たすために、他者による評価を得ようとして他者が好ましいとする理想像を投影した仮面をかけ、その振る舞いを他者の眼差しの前に呈示し、他者に承認させることによって仮面のリアリティを作り出そうする。さらに、自分もそうしてできあがった仮面のリアリティを信じることによって、承認を得るための道具としての仮面への人格的な依存を完成させ、自己存在の安定を得るのである。このようなナルシシスティックな仮面への依存という行為は、好ましい自分を作り出すために他人の眼差しを利用する、つまりは他者を手段化していることに他ならない。彼等(ナルシシストたち:引用者)は個人間の関係が冷たく操作的であることを見出す。ナルシシズム的な自己没頭 ― 対象を自己の延長として関係させ、他人を自己に役立つために存在する対象として限定する ― は、他人の価値を減少させることに基づき、また、他人の価値を減少させることを助長する。(Hearn[1985=1991:177])このナルシシスト的な仮面への依存による自己創造というメカニズムと、自己現象においての他者の手段化は、また、共依存者の特徴でもある。そこには、他者の承認を受けたいがために、仮面とともにあるはずの「演技者としての内的自己」をも仮面の裏に押し込め、ある意味での「自己喪失」を自分自身に経験させている。また、そこでは他者を仮面のリアリティを作り出すための手段とみなしているような、つまり、仮面を本物にするという目的のために、自分も他者もその「手段」として使い果たしてしまうかのような、空虚な人間像が浮かんでくるだけである。2 コントロール幻想ナルシシストと共依存者に共通する「他者の手段化」による他者の消耗は、きわめて自己中心的な振る舞いである。彼らは、「自分の努力次第で他人からの承認を引き出すことは可能である」つまり、「他者の感情や行為をもコントロールすることができる」という確信のもとに、自己と他者と状況のコントロールに全精力を傾ける。この背後には、自分にできないことはないという、人間のもつ全能感に対する信仰のようなものがあるように思われる。彼らは「もし自分が…ならば、愛されるはずだ」とか「もし自分が…でなかったならば、うまくいくはずだ」などと考え、自分自身のあり方や他者を含む状況でさえも、自分次第でコントロールが可能だと思っているのである。この自己中心的なコントロール幻想は、序章においてすでに共依存者の特徴として挙げた、臨床家のいうところの「自我境界の曖昧さ」という自己現象によって説明される。共依存的関係性を結ぶ人びとは、自己の始まりと終わり、他者の始まりと終わりがどこまでか、つまり自己と他者の境について、全くわからない状態になっており、自己と他者が異なった別々の独立した存在であるということを認識できていない。それゆえ、他人の感情と自分の感情とをはっきり区別することができず、他のすべての人、すべての物は、自己によって認知された通りに行なわれ、関係づけられ、決定されなければならないと感じているのである。(Schaef[1987=1993:54-55])仮面のリアリティを生きるナルシシストや共依存者は、他者をも含めた状況のコントロールに成功しているかぎりにおいて、その創られた状況のなかに安らぐことができている。言い換えるならば、仮面のリアリティはやはり、舞台のうえのみでの「真実」なのであって、それゆえ仮面のリアリティを生きつづけようとするならば、彼らはその舞台をも自らの手で創り出す必要があり、またコントロールしつづけていかなくてはならないのである。特別な人間は、まず自分を特別な存在だと感じるようにしむけた人間たちに縛りつけられたあと、自分を特別な存在だとみなしてくれるひとびとに縛りつけられる。(Lowen[1985=1990:178])このようにコントロール幻想をもちながら、他者との関係を取り結んでいくナルシシストや共依存者にとって、結局、自分の価値を評価してくれる他者の存在が、一人ないしは複数、生きていくうえでなくてはならないものとなる。そしてさらに、共依存者とはそのような、「みずからの存在の意義を与えてくれる他者」として、「特定の他者」との関係性に固着していった人びとのことである。その意味で、共依存者がその面にかけようとする仮面は、ナルシシストのそれよりも、より特定の他者に向けて(そのような他者の要求を反映して)創られたものであり、それゆえ、共依存者はその特定の他者と一度取り結んだ関係性に巻き込まれていくうちに、その他者との関係により強く固着し、離れられなくなってしまう。以上、ナルシシストと共依存者との共通点を探りながら、「仮面の創造」と「仮面と内的自己との関係のとり方」について考察を進めてきた。そのなかで、現代社会に生きる人間がいかに共依存的な関係性のうえに生きているのかということが明らかになった。また、「理性神話」から「人格崇拝」へという移り変わりによって生じた、現代を生きる人間にとっての「存在の保証」への欲求という点に関しては、みずからの人格に対する承認を与えるものとして他者をとらえる、「他者の手段化」の過程をとらえることができた。近代的な自己が誕生してから現代に至るまで、自己現象はさまざまな変容をとげてきたが、前章と本章を通じて明らかになったように、実は、人がその存在の意義において他者を必要とし始めてから、つまり、近代的自己がみずからをもってすべての出発点となり、「開かれた」世界をその内に抱いた存在になったそのときからすでに、人間はその必然として、「共依存」的な関係性をもたざるをえなくなる存在だった、といえる。そして、その必然としての「共依存」という自己現象をもつに至った現代の私たちが、その「互いが互いを手段として消耗し尽くしてしまっている」ような共依存的な自己―他者関係のメカニズムを、ここで今一度、考え直してみることこそが、今後の人間の自己現象の変容の方向性、すなわち、共依存を超えて人間が世界に対して新たな関係性を結んでいこうとするさいの可能性について知るうえで、有効な手がかりとなるのである。次章では「共依存の回復」に関して、どのような新しい関係性の可能性があるかという点について論じていくが、その手がかりとして、ナルシシズムと共通していた「他者の手段化」とは別の、もうひとつの共依存の特徴である「自己犠牲的献身」に焦点をあてていくことにする。そのなかで、「共依存的関係性の特徴が伝統的な女性役割とされているものと重なるところが多い」というフェミニズムの領域からの指摘を受けて、女性がめざしている脱共依存の方向性と、その先に想定される人間の生についての可能性を、筆者なりに探っていく。共依存を超えたところに成立するであろう新しい自己現象が、今後の社会の変化にどのような影響を与えていくのかという視点をもちながら、考察を進めていきたい。
*1 自分では「礼儀正しく」振る舞っているつもりでも、周りの人から「堅苦しい奴だ」と思われてしまえば、周りの人にとっては彼は「堅苦しい人」でしかない、というような例が挙げられる。*2 ここでの「アイデンティティ」とは、「自己は何者であるのか」という「自己に関するリアリティ」のことである。したがって、アイデンティティと仮面との関係を示すならば、「仮面が他者の承認を受けることによって、その個人のアイデンティティという自己のリアリティとして受容される」のである。*3 このような「役割」と「プレイヤー」の関係を、ゴフマンは「役割乖離 role-distance」と定義している。*4 「自己愛」について春日キスヨは、「自己愛」という言葉に含まれているアンビバレントな性質を整理して次のように述べている。「自己愛には二つの方向がある。ひとつは、自己が自己のなかによきものを見いだし、自己を肯定し、自分に不足するものがあったとしてもそれはそれでよしとして、安らいだ感情でもって自己を受けいれていく、自己肯定とも言うべき方向での自己愛であり、もうひとつは、自己が自己のうちによきものを見いだせず、安らうことができず、何よりも自己が自己自身によって受けいれられ愛されたいと願っている人がもつ、ナルシシズムとしての自己愛である。(春日[1994:23])」*5 ここでの「ほんとうの自己」と「自分のイメージ」とは、ローウェンの「ひとは自分の社会的な地位や権力にもとづく自分の世間的なイメージをもっているが、それがひとをナルシシストにするわけではない。自分の人格的アイデンティティを、自分の身体感情ではなく、そうした世間的イメージのうえに基礎づけるとき、ひとはナルシシスティックになるのである(Lowen[1985=1990:51])」という記述から、それぞれ、「自分の身体感情に基礎づけられた人格的アイデンティティ」と「世間的なイメージのうえに基礎づけられた人格的アイデンティティ」と解釈することが妥当である。