第三章 近代的自己の限界と世話の倫理
―脱共依存的関係性の可能性
 
T 自己犠牲的献身と性役割
1 性別役割分業
 本論序章において明らかにした共依存者の特徴をここでふりかえるとき、そこにはナルシシストの特徴とも共通する、自分の存在価値を手に入れたいがためにみずからの存在に承認を与えてくれる道具として他者を利用しようとする「他者の手段化」という仕組みがあった。しかし、共依存概念がもともとアルコホリックの配偶者やその子供にみられる現象として発展したという背景を考えても、共依存のもうひとつの特徴である「他者への自己犠牲的献身」という側面からの分析は、非常に重要な意味をもつと思われる。そして、この「他者への自己犠牲的献身」という特徴こそがナルシシズムと共依存とを分かつ点でもあり、その分析にフェミニズム的視点が必要となるところである。
 
   女と男はたがいに相手のためになるように生まれついている
  が、相互の依存状態は同等ではない。男はその欲望によって女
  に依存している。女はその欲望とその必要によって男に依存し
  ている。わたしたちは女なしでも生きていけるかもしれないが、
  女がわたしたちなしで生きていくのはもっとむずかしい。(中
  略)女は、自分の利害も、子どもの利害も、男の判断に左右さ
  れる。(中略)そこで女性の教育はすべて男性に関連させて考
  えられなければならない。男性の気に入り、役に立ち、男性か
  ら愛され、尊敬され、男性が幼い時は育て、大きくなれば世話
  をやき、助言をあたえ、なぐさめ、生活を楽しく快いものにし
  てやる、こういうことがあらゆる時代における女性の義務であ
  り、女性に子どものときから教えなければならないことだ。
  (Rousseau[1762=1964:20-21])
 
 このような言葉を残したのは、フランス革命に多大な影響を与えたとされている啓蒙思想家のルソーである。ルソーによって描かれている「人間のあるべき姿」とは、男女という性別にはそれぞれにふさわしい役割というものがあり、男女はそれを担って生きるべきだという固定化した性役割 gender role*1 にのっとったものであった。この性別役割分業 sexual division of labor という観念は現代に至るまでわれわれの生活を根強く支配している考え方であり、第二波フェミニズム*2においてフェミニストたちが、「女性の地位を低くせしめているもの」として、執拗に攻撃を試みた問題であった。
 この性別役割分業についてさまざまな立場からの意見が語られるとき、必ずといっていいほど、「性別役割分業はそれぞれの特性にのっとって男女間に振り分けられた平等な役割分担に基づくものであり、多数の女性自身もみずから選びとってその役割を担っているではないか」という指摘がされる。しかし、この性役割の構造をひとたび、近代産業社会において共同体から解き放された諸個人が、みずからの労働力を自由に売ることによって「個人」として自立し、社会のなかで理性的自己を確立していくという近代的自己像*3と照らし合わせてみるとき、女性にふさわしいとされ女性に分担された役割は、「家庭」という「私的領域」、つまり産業社会のまさしく影の部分において遂行される労働であるがゆえに、「近代的な価値」の届かない、不可視の労働とされてしまっているという事実に気付く。この「市場」と「家庭」の分離構造について鋭く追求したのはマルクス主義フェミニスト*4である。
 
   貨幣経済以外の生存 subsistence のオルターナティブを奪
  っておいて、経済的に依存させるようにしむけた上で、「誰が
  養ってやっているんだ」という権力支配に組みこむことの、ど
  こが間接支配だろうか。これもまた一つのむき出しの支配には
  ちがいない。それが「間接」なのは、ただ「市場からは見えな
  い」という意味においてである。(上野[1990:24])
 
 近代産業社会*5とは、「生産」が営まれる市場と「再生産」が営まれる家庭とを分離し、それぞれに男性と女性という性別によって「ふさわしい」担い手を振り分けた*6。そのような社会において、自由意志をもった理性的な存在という「近代的自己像」として語られていたものは、市場において労働者として自立を果たした、あくまでも「男性の自己」についてであって、「女性」は男性を支えながら依存しているものとして、そのような近代的自己像からは外れた存在のままとされているのである。
 さらに、男女という性別によって分担された社会的役割、すなわち「賃労働」と「家事労働*7」という役割そのものについて考えるとき、近代産業社会という生産至上主義の社会において、その役割自体に、すでに順位が付加されているのは明白である。したがって、男女という性別にその社会的役割が結びつけられたときは、当然の結果として、男女という性別そのものに順位がつけられてしまう*8。そもそも近代産業社会は、ひとつの労働力として「男女の組み」を想定している。すなわち、市場での労働によって価値が減退した労働力(男によって担われる)を再生する場としての家庭(女によって担われる)の存在を、当然のように「そこにあるもの」として想定しており、その労働力の再生産の場である家庭の価値については何ら評価をしない*9。このように、平等であるはずの性役割分担*10は社会によって当然視されることによって、われわれが生まれ、育ち、子を育んでいく社会のまさにそのただなかにおいて、「性差別 sexism」を再生産していく装置として機能しているのである。
 
 
2 女性役割と共依存
 このような性役割を担って、近代家族*11の成員として男は「金のための労働」をし、女は「愛のための労働」をする*12。そして、そのような性役割分担が当然視される近代産業社会において、人はみずからの「価値論的安定*13」を、この分担された役割の遂行に求める。つまり、男は稼いで妻子を養うことに、女は夫子の世話をすること*14に、みずからの存在意義を求めるのである*15。そして、この女性の性役割としての「愛のための労働」について、フェミニストは次のように分析する。
 
   「愛」とは夫の目的を自分の目的として女性が自分のエネル
  ギーを動員するための、「母性」とは子どもの成長を自分の幸
  福と見なして献身と自己犠牲を女性に慫慂することを通じて女
  性が自分自身に対してはより控えめな要求しかしないようにす
  るための、イデオロギー装置であった。(中略)女性は「愛」
  を供給する専門家なのであり、この関係は一方的なものである。
  (上野[1990:40])
 
 ルソーによって「女性にふさわしい役割」と称され、現代においても女性の性役割とされているものは、このように「愛」という言葉によって女性に結びつけられている。女性たちはその「愛」を表現しようとすればするほど、みずからを犠牲にしてまでも夫や子どもに尽くすという「世話役割」に身を投じていく。しかしここで、共依存概念において問題視されている「自己犠牲的献身」という特徴を考え合わせると、「自己犠牲的な他者への献身」を行なう共依存者と、みずからを犠牲にしても夫や子どもに尽くすべしとされてきた女性にかせられた性役割とが、いかに密接な関係があるのかは明らかである。多くのフェミニストたちが、共依存概念を単なる個人的、心理的な問題として扱うことに対して警鐘をならし、女性問題として文化社会的なコンテクストのなかで語る必要性を説くのも、まさに、こうした理由からである。
 
   共依存についての文献はジェンダー中立的に書かれる傾向に
  あるが、実際には、性差別主義的、異性愛主義的、階級主義的、
  人種差別主義的な社会によって強制され、そして家族の中で学
  んだ伝統的な性役割に固執する女性たちについての記述である。
  この文化によって男と女には、それぞれに生き残るための方法
  が与えられている。つまり、女は自己犠牲的で、男と子どもに
  ついての情緒的な世話やき者 caretaker となるように社会化
  され、男は仕事場での完璧な熟達と、家庭での支配の責任を負
  うように訓練されているのである。(Lodl[1995:208])
 
 それでは、これまで「生物的な本質」の反映であるとされ、性役割として女性に課されてきた自己犠牲的な性質をともなう世話役割と、共依存との関係はどのようなものだろうか。以下に引用する内藤和美の指摘は、的確にこの問題の核心部分をついている。
 
   世話、養育、配慮、などを含むものとしての「ケア役割」は、
  いわば、他者の欲求を満たす役割である。人が自分を「ケア役
  割」に集約していくことの怖さとは、自分の思慮や行為の適否
  が、専らケアを受ける相手が 満足したか否か、すなわち他者
  の判断によって評価される、ということである。他者の評価が
  自己評価になる、つまり他者の目への依存である。夫のため、
  子どものため、親のためと生きるうちに、自分の意志の所在、
  感情の所在がわからなくなってしまう。極論すれば、そんな怖
  さがあると思う。自分の精神を他者に預けてしまうほど悲惨な
  ことはない。(内藤[1991:126])
 
 ここで指摘されている、「自分の精神を他者に預けてしまう」生き方こそ、まさに共依存的な生き方にほかならない。つまり、「相手の満足の有無によって下される評価」によって自己の価値をも評価せざるをえないこのような「ケア/世話役割」を担った女性たちは、その必然として共依存的生き方を余儀なくされているともいえる。そして、このような性別役割分業に基礎づけられた近代産業社会におけるジェンダー関係のあり方こそが、「自己犠牲的献身による他者からの評価の獲得」という共依存の特徴と、性役割を担った女性との分かち難い関係を証明するものなのである。
 
 
U 世話の倫理 ―女性の性役割にみる共依存的関係性
1 世話の倫理
 では、共依存的関係性が問題視され、共依存からの回復を指向するとき、それはすなわち、これまで女性が担ってきた「愛のための労働」である「世話」行為自体を否定する、という結果を導くものなのだろうか。それ以前に、貨幣価値という統一された基準によって、すべてのものがはかられ、順序をつけられるような「市場原理」の外側に存在していながら、人間の生存にとって必要不可欠な営みである「世話」という行為とは、どのようなものなのであろうか。以下の言葉は、世話役割を担っている女性自身がその「世話役割」をいかに深く内面化しており、「世話」という行為に関して何らかの特別な価値規準をもっていることを示している。
 
   主婦の行なう日常的な活動を「家事労働」と呼ぶことは、画
  期的な視座の転換をもたらすが、他方、それを「労働」と呼ん
  だとたん、その活動は「労働」以外のものでなくなる。汗と困
  苦のイメージに汚染され、<目的―手段>系列の功利主義原則
  に冒され、あまつさえ経済価値に換算されようとするこの「活
  動」を、無償性と献身の名において「神聖さ」へと救い出そう
  とする試みが、「家事労働」論にはいつでもつきまとう。とり
  わけ「家事労働」の経済的評価という論議に対しては、いつも
  女性自身の側から、「愛」の名による反発が出てくる。
  (上野[1990:39])
 
 「世話」という行為について考えるとき、何よりもまず、キャロル・ギリガンによって提唱され、その後のフェミニズムにとって多大な影響を与えた「世話の倫理」について考えておく必要があるだろう。女性が道徳的ジレンマにさいしてどのような意志決定を下すのか、という女性の道徳観についての調査を行なった発達心理学者のギリガンは、1982年に『もうひとつの声』という著作において、人間の思考様式について、男と女とではそれぞれ異なる倫理観にそって思考しているという事実、つまり男性の「正義の倫理 ethic of justice」に対して、女性は「世話の倫理 ethic of care」によって、その道徳観が構成されているという調査結果を示し、それまで見落とされていた女性の道徳観の型をとらえだした*16
 ギリガンによると「正義の倫理」においては、道徳の問題を「何が正義にかなうか」というように、権利や規則の問題としてとらえる。またその道徳的思考の背景には、自己をあくまでも他者から「分離した存在」、「自律した主体」としてとらえる人間観が基礎になっている。それに対して「世話の倫理」では、「他者のニーズにどのように応答するべきか」というように、道徳問題をむしろ人間関係における思いやりと責任の問題としてとらえるのであり、そこでは、自己を他者との「相互依存性」やネットワークのなかに位置づけるという人間観が基礎になっている、というのである。
 
   他人が必要としていることを感じたり、他人の世話をする責
  任をひき受けたりすることによって、女性は他人の声に注意を
  向け、自分の判断に他人の視点を含みこんでいるのです。女性
  の道徳的弱点とされている、一見、明らかに散漫な、混乱した
  ようにみえる判断は、このように、女性の道徳的な強みである
  人間関係や責任に過剰なほど気をつかうことと分かちがたく結
  びついているのです。(Gilligan[1982=1986:22])
 
 さらにギリガンは、それまで、人間一般の発達の段階とされていたコールバーグらの発達理論が、もともと男児ばかりを被験者とした調査から導きだされた、男性の発達理論を拡張したものにすぎないという理論的不完全さを指摘し、同時に、そのような理論形成方法の根底にある男性中心主義を非難した。そして、これまで女性が道徳的に低い評価しか受けてこなかったことの原因である「世話の倫理」についての無関心を批判し、「世話の倫理」を担った女性を、男性との関係のなかで表わすことによって、女性の性役割と「世話の倫理」の関係を明らかにしたのである。
 
   男性のライフサイクルのなかでの女性の位置は、長いあいだ、
  養育者であり、世話をする人であり、内助者であり、またこれ
  らすべての役割のネットワークのつくり手でもありました。し
  かも彼女自身もそうした役割にあまんじて生きてきたのです。
  しかし、このように長いあいだ女性は男性の世話をして生きて
  きたために、男性は、自分たちがつくりあげた心理的発達の理
  論においては、経済的とりきめにおいてと同様にそのような世
  話を当然のこととして、あるいはその値打ちを低くみつもって
  きたのです。(Gilligan[1982=1986:22])
 
 また、これにつづけて、ギリガンは次のように述べている。
 
   また、成熟が個人の自律性と同一視されるようになると、人
  間関係に気をつかうことは、人間としての強みなどではなく女
  性の弱点とみなされるようになってしまうのです。(中略)一
  般におとなに必要とされている資格―自律的に考えること、は
  っきりした決断を下すこと、責任ある行為をすること―は、男
  らしさに属するもので、女性自身の属性としては望ましくない
  とみなされている[のです]。
  (Gilligan[1982=1986:23] [] 引用者挿入)
 
 この部分で指摘されているのは、近代的自己の限界ともいえるような事柄である。これまで、自律的、理性的自己としてとらえらえれてきた「近代的自己像」は、結局のところ、男性のそれでしかない。そして、めざすべき「近代的自己像」としてわれわれが自己の拠り所にしてきたものは、その存在に必要不可欠なものとして、影の領域において、世話の倫理にしたがって行動する女性の存在をあくまでも前提としながらも、評価をしないという、不完全なものだったのである。
 ここまで、ギリガンの指摘する「世話の倫理」と女性役割の関係について、また、近代の男性中心主義のなかで、女性の「世話の倫理」に基づいた自己のあり方の価値が低められてきたという状況をみてきたが、ギリガンはこれらの問題について、次のような二つの方法による解決を主張している。ひとつは、女性が従っている「世話の倫理」も男性の「正義の倫理」と同様に、独自の発達段階を経てレベルが上がっていくという事実を認め、近代の男性中心主義によって落としめられた「世話の倫理」の価値を上げること。もうひとつは、「世話の倫理」と「正義の倫理」を統合することによって、それぞれの思考様式の中心をなしている「義務」と「権利」という二つの視点を兼ね備えた、より成熟した人間としての発達を実現するということである。
 
 
2 共依存の問題性とフェミニズム視点
 ここで、いま一度「共依存」の問題を、女性の性役割との関連のなかで考えてみると、共依存の問題を「世話の倫理」に基づいた女性の自己のあり方の問題にそのまますり替え、「自己犠牲的献身」の是非として一面的にとらえることは避けなければならない。なぜならば、「自己犠牲的献身」そのものの是非を問うことは、そもそも「共依存」という概念を作り出し、問題であるとみなすことそれ自体が、伝統的な女性役割を、ひいてはその役割を担っている女性の存在そのものを否定し、その価値を低める行為として了解されてしまうという危険性を孕んでいるからである。この危惧されるべき側面については、すでにフェミニストからの共依存批判というかたちで多くの指摘がなされている。
 
   共依存はわれわれに、「女らしさ」が病理であると教えるの
  であり、われわれは自己破壊的な、女らしい行動について、自
  分自身を責め、男たちに対しては彼らが行なう暴力や虐待的行
  動に対してのいかなる責任も回避させているのである。
  (Tallen[1995:173])
 
 このような批判は、共依存概念によって、女性自身がみずからの「女性らしさ」ゆえに病的であるという認識をもってしまうという危険性があり、それは、女性の抑圧を個人的な病理としてすりかえる結果になっていると指摘する。つまり、共依存概念は女性を抑圧している社会的原因を問うのではなく、まさに女性が抑圧された結果として担わされてきた女性役割そのものを批判することによって、ふたたび女性の存在を落としめているというのである。
 また、共依存からの回復の方向性として、「特定の関係性への執着の否定」「自己と他者の分離感覚の強化」などが強調されるとき、そこで想定されている「正常な」自己像とは、男性的であるとされている理性的、自律的な近代的自己像にほかならない。こうした共依存からの回復方法が意味するものは、これまで支配される側であった女性たちが、支配する男性の側にまわることによって、強迫的な世話やき行為としての共依存から脱するという、きわめて偏った「男性的価値の特権化」でしかない。共依存の回復としてこのような方向が想定されつづけるかぎり、フェミニズム領域から指摘されるように、共依存概念は「女性的価値の、ひいては女性自身の落としめ」として了解されてしまう危険性を孕んでいる。このような方向性において共依存から回復したようにみえる女性たちは、実はみずからが支配する側にまわることによって、そこにまた新たな支配関係を生み出すという結果に終るだけである。このような「世話の倫理」に基づいた生き方や「自己犠牲的献身」それ自体を問題視するものとしての共依存概念の広がりは、政治的に闘おうとしているフェミニストの努力をだいなしにし、逆に、現存する権力関係を補強する結果になっているという批判を受けている。
 しかし、かといって今度は、安易に女性が担っている「世話」領域の価値を上げるという方向のみに共依存問題の解決を求めることの危険性も、充分認識しておかなくてはならない。なぜならば、ギリガンの主張がその他の多くのフェミニストによって批判を受けることになったのも、ギリガン本人の思惑とは別のところで*17、「女性の伝統的性役割の価値を上げる」というその主張自体が、「性別役割分業」そのものについての是非を不可視のものとしてしまう危険性があったからである。つまり、それぞれの性別に振り分けられた「性役割」があくまでも「同等の価値」をもったものであるという主張は、「性役割」はそれぞれの生物的な性差ゆえの「ふさわしい」役割であるという「まやかしの平等感」を作り出し、逆に「性差別」を擁護する議論に利用されてしまう*18。以下の引用は、「女性性=自然性」についてのジェンダー保守的な賛美への批判である。
 
   女性が今日、出産、育児、家事など「自然的」と言われる仕
  事に特化して、性格もそれに見合ったものとなっているのは、
  決して「自然」なことではない。近代化過程における公私の分
  離と「近代家族」の誕生に際して、女性が「主婦」、「母」と
  して私的領域に封じ込められた結果、創り出された状況である
  にすぎないのだから。「それでも女性の身体は自然に近いのだ
  から育児・家事に向いている」などと固執する人には、「黒人
  の身体は自然に近いのだから肉体労働に向いている」などとう
  そぶいた奴隷農場主との違いを説明してもらおう。
  (落合[1989:209])
 
 結局、共依存的関係性を問題にするうえで重要なのは、女性の性役割としての「世話やき caregiving」についての是非を問うことでも、それを担っている女性自身の価値の高低を問うことでもない。いかにして女性にそのような「世話役割」が割りあてられてきたのかという社会的要因を明らかにすることと、同時に、女性がその役割を遂行するなかで、自己現象をどのようなものとして他者との関係性のなかに成立させてきたのかという心理的要因を明らかにすること、この両面において共依存的関係性はとらえられなければならない。これは、社会的要因を重視するフェミニズム視点と心理的要因を重視する共依存視点の統合によって可能になるのである。
 政治的なコンテクストのなかで女性の問題を読み解こうとするフェミニズムと、セルフヘルプ的な個人に対する癒しを実現しようとする傾向をもつ共依存概念はともに、「女性が女性であるがゆえに感じる、個人の痛みを癒すこと」という共通の目的をもっている。そして、フェミニズム領域からの共依存概念への批判のなかにみられる危惧のように、共依存概念が「世話の倫理」にしたがって家族の世話をやく、という伝統的な女性役割へのラベリングによる、単なる女性の存在意義の剥奪に終わらないためにも、これまで女性が「世話の倫理」に基づいた自己のあり方をとらざるをえなかったというその背景を、社会的な水準と心理的な水準の両方において問いなおすこと。それこそ、現在の共依存問題の顕在化の理由とその解決の方向性をわれわれに示してくれるものとなりうるのである。これについて、以下のマッキノンの言葉は的確である。
 
   女性は心づかいに価値をおくが、それは私たちが男性に対し
  て示す心づかいのゆえに彼らが女性を評価してきたからで、
  (中略)女性は関係性を示す言葉を使うが、それは女性の存在
  が男性との関係で定義されているからである。力のない者は異
  なるしゃべり方をするだけではない。むしろ、しゃべらない。
  というより沈黙させられている。排除されている。(中略)私
  が言いたいのは、性差別による弊害は明らかであるということ、
  また、それを差異と呼ぶのは女性の可能性に対する侮辱である、
  ということである。(Mackinnon[1987=1993:64-65])
 
 ここでマッキノンは、それまで性差の問題として語られていた性役割分担を、権力の問題としてとらえなおしている。そこからは、ジェンダー構造をあらためて政治的な支配―屈従という関係性のなかでとらえる必要性と有用性が感じられる。
 
 
V 支配と屈従という関係性
1 男性と支配
 性役割分担の分析によってフェミニストたちが果たそうとしたのは、「生物的本質」という名のもとに不当な役割を担わされ、男性によって抑圧され、支配されてきた女性たちの真実の姿を、政治的なコンテクストのなかで明らかにすることであった。「家父長制」とも呼ばれるこの支配と抑圧の社会的構造を、上野千鶴子は次のようにまとめている。
 
   家父長制はふつう家内制生産様式と結びついて語られる。家
  内制生産様式のもとでは、女と子供を含む家族のメンバーは家
  長男性の監督権のもとに置かれ、その生産労働と再生産労働を
  ともに家長に領有される。またデルフィのように、産業社会で
  成立した市場と家族の分離と分業のもとにおける家族の中の女
  性支配だけを、とりわけ「家父長制」という歴史概念で呼ぶ場
  合もある。(上野[1990:77])
 
 このように、男性による女性支配を可能にしている社会的な権力関係の総体としての「家父長制」を分析することによって、現代産業社会における女性の男性への従属の仕組みを社会的な文脈において読み解こうとするフェミニズムの挑戦は盛んに行なわれている。しかし一方で、そのような支配と屈従という関係性のなかに身を置く個人個人が、自分自身を自覚していくさいに、みずからをどのような自己現象においてとらえ、その生を全うしていくのか、ということに関しては、心理的要因としてとらえられなくてはならない問題として残っている。
 フロイト学派を批判的に伝承するJ.ベンジャミンは、この支配と屈従の構造について、幼児期のきわめて早い時期にすでにジェンダーについての観念は固定されてしまうという精神分析学的見解に着目し*19、母親と父親の違いについての幼児の最初の知覚が、文化上の男と女という世界に広まっているイメージとつながっているという観点から説明しようとしている。共依存的関係性を自己現象のレベルにおいてとらえるうえで、この支配―屈従関係の精神分析学的アプローチはきわめて有効である。以下において、読み解いていく。
 ベンジャミンは男女の関係がなぜ、支配と屈従という関係性として現われるのかという仕組みについて、幼児時代に経験する依存願望と独立願望との葛藤が、男女のジェンダーについての認識に結びつき、それが大人の性的生活における権力と服従という二極構造につながっているのだと主張する。そこでまず、現在の精神分析学が使っている中心的な心理発達モデルであるエディプス・コンプレックスが、いかに女の子が自己を「対象」として知覚し、男の子が自己を「主体」として知覚するべく枠づけされているのかについて明らかにし、「平等を信奉しているように見えるとしても、実際には支配構造を維持させる方に強く機能している文化一般(Benjamin[1988=1996:15])」を批判するのである。
 
   エディプス的モデルの場合、父親はどのような形であるにせ
  よ ― 制限を課する超自我、男根的境界、父親的禁止のいずれ
  であるにしろ ― 、常に差異を象徴し、母親に優越する特権的
  地位を与えられている。父親の権力が発達と成長として見られ
  るのに対して、母親の権力は、放棄しなければならぬ幼児時代
  の原始的満足と同一視され続けている。
  (Benjamin[1988=1996:218])
 
 このようにエディプス的モデルでは、男の子にとって母親との同一視をやめること、つまり母親のもつ「女らしさ」を拒絶し、放棄することが、男としての自我形成の必要不可欠な段階だと考えられている。この段階において、当初の善の源であったはずの母親は、男の子の自己の外側に位置づけられることになり、愛の対象として外部化される。このとき母親は、「もはや男の子自身の自我理想の一部ではなくなっている。善なる母親はもはや自己の内にはない。彼女は失われたものであり、愛をとおして外側から取り戻さねばならぬもの(Benjamin[1988=1996:
222])」すなわち、自分の外側に存在する「対象物」となってしまうのである。
 
   男の子が女らしさを放棄することがもたらすのは、女を、自
  分とは種類が異なるが自分と同等の主体としては絶対に認識し
  ない態度であり、女を恐怖したり支配したり、はたまた距離を
 
  とったりするしかできなくなる。
  (Benjamin[1988=1996:225-226])
 
 さらに、このように男の子が母親をその外側から取り戻す、つまり、所有したいと望みながらも、父親によってその欲望を禁止されるという、エディプス的モデルのもうひとつの側面を考えるとき、母親を所有することを断念し、母親は「父親のもの」だと理解することによって、子供は自分と母親との関係における制限を受け入れることになる。しかし、母親との関係の制限を強いるこうした禁止や知覚は、男の子にとって、母親を「自分のコントロールの外側に存在する独立した主体」として認識させることにはならない。父親の所有物であるという理由によって、男の子がみずからの所有の願望を断念せざるをえなかった母親とは結局、子どもが理想として受けいれた他者(父親)のコントロール下にある存在でしかないのである。
 このように、母親を所有すべき対象として認識するようになるのと同時に、男の子はみずからを「欲望を抱く主体」として認識するようになる。エディプス的モデルに従った、あくまで「対象」として他者を愛するという「対象愛」を、人間の性についての基礎を形成する幼児期において、男の子が内在化してしまうことは、父親と母親が担っているジェンダー役割を、そのまま「主体」と「対象」という両極化されたものとして内在してしまうことにほかならない。このジェンダーの両極性こそが、男女の関係を支配―服従の構図に結びつける要因なのである。
 
   男の子はこうした外側関係を認識すると同時に、母親をおと
  しめ、そして自分は母親に優越するという感覚の共有によって
  父親との絆を結んでしまうのである。母親とはよく見たところ
  で、欲望をかきたてるが自分が所有できない対象であるにすぎ
  ない。(Benjamin[1988=1996:227])
 
 
2 女性と屈従
 では次に、女の子の場合はどのように説明されるのだろうか。その仕組みを明らかにすることによって、女性の関係性のとり方がなぜ、自己犠牲的にならざるをえないのかについて探っていきたい。フロイトは、幼児期におけるジェンダーの内在化過程において、父親のみが影響を及ぼすと考えていた。つまり、女の子は自分と母親に共通する「欠落」、つまり身体的な男根の欠落に気付くことによって、剥奪的な母親から、欲望の具現像としての父親へと向かっていく。こうしたエディプス期の葛藤に入ることによって、女の子は「女らしさ」を身に付けていくと説明したのである。しかし、ベンジャミンはこのフロイトがペニス羨望と呼び、幼い女の子が男に向かって最初に引き寄せられる現象について、「外の世界を代表しているように見える父親と一体化したいという、よちよち歩きの幼児(男女両方の幼児)が抱く願望を現実に反映している(Benjamin[1988=1996:139])」と評価しながらも、その一体化の願望の理由については、別の見解を示している。それは、「男の子の場合と同様に、女の子も、母親から分離するさいに不安を抱えるため、幼児時代の依存から広い外部世界へと向かう自分の動きを、支えてくれる愛着人物を探し求める(Benjamin[1988=1996:150-151])」という、外部世界の代表者として、分離の体現者である父親との同一視を求める、「同一視的愛」とでもいうようなものである。
 このように、それまでの母子一体の状態から幼児が分離していくさいにあらわになる「自分の無力性」を否認し、「分離した自己感覚」というものを築こうとして、確かに女の子も父親との同一視をする。しかし、ここではっきり区別しておくべきは、この幼児の発達の段階における「母親との分離および父親への同一視」という構図は、これまで、エディプス的モデルがとらえてきたようなもの、つまり、母親を「赤ん坊の最初の愛着対象であり、後には欲望対象としてしか見ていない」ようなものとは、まったく異なったアプローチによってとらえられているということである。ベンジャミンはエディプス的モデルに対する批判的見地から、人間を、複雑な内面構造を備えており、他者とは切り離されて存在するものとして考える「精神内理論」によってではなく、自己と他者の相互作用のなかから生じる能力に着目する「間主観的理論*20」によって、幼児の母子一体からの分離という現象を説明しようとする。それによって、「人間が他者からいかに自由になるのかではなく、人間が他者との関係にどのように参画し、自分を他人に認識させるか(Benjamin[1988=1996:29])」というアプローチが可能になり、幼児と母子との新しい関係の可能性がみえてくる。したがって、ここでベンジャミンが主張している幼児の母親からの分離現象は、エディプス的モデルのように母親の拒否という意味をもつものではなく、あくまでも、幼児が「対主体」という関係性のなかで、みずからをも「主体」として認識していく、という過程としてとらえられているのである。
 このようにして幼児はその発達の段階において、父親との同一視を通して、自分自身の欲望の存在を承認してもらうことを求める。しかし、父親との同一視を手がかりにした母親からの分離の達成は、父親と母親の性別の違いゆえに、結果として「女の子は男の子よりも直接的に、母親からの分離の難しさと自分の無力さに直面することになる(Benjamin[1988=1996:151])」という危うさをはらんでいる*21。そして、父親との同一視に失敗し、同時に自分を欲望の主体として認識することに挫折した女の子たちは、将来、自分には所有できなかった、権力と欲望をもっている男性を理想化するようになるのである。ベンジャミンは、このような幼児時代の女の子の挫折が、その後の性的生活において、女を屈従や受身の関係性へと方向づける原因とみなしている。
 
   幼児時代に同一視的愛が挫折する時、その愛は、到達できな
  いものへの憧れと自己卑下を生じさせる。(中略)同一視的愛
  が相互承認状況の中で成就することができないとすれば ― 女
  の子の場合はほとんど成就しない ― この愛はのちに歪んだ理
  想愛として出現する。理想愛とは、自分の働きかけの代用品へ
  の願望である。この願望は、他者の意志と願望を自分自身のも
  のとして受け容れる、という受動的な形態になるし、ゆえにい
  ともたやすく他者への意志の屈従に転化する。かくして、理想
  愛は、同一化の「倒錯」であり、同一視的愛が変形されて屈従
  になったものに他ならないのである。
  (Benjamin[1988=1996:168] 下線:引用者)
 
 このような理想愛に生きようとする女性の屈従の心理を、ボーヴォワールは以下のように巧みに表現している。
 
   依存の領域内におしこめられ、幼い頃から男のものとして育
  てられ、男性のうちにとうてい太刀打ちできぬ支配者を認める
  ことに馴れ、しかも人間として生きたい欲求がおしころされて
  いない女性が願うことは、こうした優越した存在の一つに向か
  って自己の存在を超越することであり、支配的主体と結合し融
  合することである。完全なもの、絶対的なものとおしえられて
  きた男性のうちに身も心も没入する以外に彼女のとるべき道は
  ない。(中略)彼女は自ら隷属を熱望することによって、自己
  の隷属を自己の自由の表現のように思いこもうとする。
  (Beauvoir[1949=1966:29])
 
 すなわち、理想愛によって女性が手に入れようとしているものは、自らの存在を規定してくれる絶対的な相手なのである。彼女はみずからの主体性を放棄してそのような相手に屈従することによって、つまり、みずからを相手のために存在させるという方法によって、その相手が体現している世界を自分のものにすることを可能にしようとする。屈従という関係性は、欲望の主体としてみずからを認識することではなく、主体的な相手のもつ欲望と権力へ、みずからを同一化させようとする試みである。しかしこの、一見、自己消滅のように思える他者への屈従という主体性の放棄は、実際には、この世にみずからを「存在させよう」という、激しい意志の表われにほかならない。
 これまでみてきたように、ジェンダーを両極的なものとみなし、男と女を文化対自然、進歩対退行のような二元論のシステムのなかに閉じこめてしまっているエディプス期のモデルは、幼児の精神的発達が「母体との一体性からの分離独立」という、「依存状態の拒否=母親のおとしめ」によってのみ、「自己の独立=主体の確立」が実現されるという、偏った認識に基づいたものであった。そして、ジェンダーがつねに主体と対象という相補関係としてとらえられるかぎり、主体としての男が対象としての女を支配するという関係性は再生産されつづける。つまり依存状態の否定が主体を主体として存立せしめる条件である以上、「主体は、自分が統制できない誰かに依存しているという事実を受け容れられないため、葛藤を解決する策は、他者を征服して奴隷化すること ― 他者に対して自分を承認するよう強制しながら、お返しに他者を承認してやらないこと ― しかない。依存と独立を和解させられないことがもたらす最大の結果は、他者を必要とすることを他者への支配に変形すること(Benjamin[1988=1996:77])」なのである。
 こうして支配と屈従という関係性を、ジェンダーの相補的関係性と関連づけてみてくると、主に女性の性役割とされてきた「自己犠牲的献身」の意味するものが、力の持つものと持たないものとの関係性のとり方、つまり、主人と奴隷の関係性にきわめ近いものであることがわかってくる。こうしてジェンダーを、性差の問題ではなく、権力の問題としてとらえることが可能になるのである。
 
 
3 権力闘争としてのジェンダー関係からの解放
 「主体」としてその存在を認められ難いという現実に直面した人間は、ひるがえって、力のある「主体」である人物に「従う」こと、つまり、「その人物のために存在する」ということに自分の存在意義を求める。またその一方で、他に依存することなく自律的に存在しうるという認識をもつ人間は、外部の世界(対象)に対してみずからの支配権を行使することによって、その「主体」性を確認する。このような関係性の図式は、マゾヒズムとサディズム、もしくは主人と奴隷という関係性において語られてきたものである。
 かつてへーゲルが語った「承認をめぐる闘争」における主人と奴隷の関係を考えてみると、主人と奴隷という関係において、主人は奴隷から受ける奉仕自体よりも、奴隷へ及ぼしている自分自身のもつ支配権により多くの喜びを見出す。そのとき、主人はその主体性を維持するために、みずからが奴隷によってなされている奉仕に依存しているという事実を認めようとはしない。逆に、奴隷は自分の犠牲的行為が現実に主人の権力を創り、彼の一貫した自己を支えているという自負の念をもっている。この「主人のために存在している」という奴隷みずからの存在意義についての認識を考えるとき、自分の自己を喪失するという過程において、たとえ制限されたかたちであっても、奴隷は「より強大な自己」を手に入れているという感覚をもっている、という側面をみることができる。このような主人と奴隷の関係性のなかに描かれているものは、みずからの存在についての意義を承認されたいと願いながらも、その願いを主人によって否定されつづけなくてはならない奴隷の悲劇と、奴隷の奉仕に依存しながらも、その事実に目を向けずに、みずからの奴隷への支配権の行使という幻想のなかでのみ生きている主人の悲哀である。
 このへーゲルの語る、悲哀に満ちた主人と奴隷の関係性の基礎にはまず、「何ものにも依存することのない主体」という近代的自己像がある。そのような何ものへの依存も否定した主体としての人間存在を想定するとき、必然的にその人間関係は、みずからの「主体性」を他者に認めさせるか、それに失敗した場合には、その相手に屈従するかしかないという主体としての存在の可不可をかけた「権力闘争」の場にならざるをえない。しかし結局、何ものにも依存しない、自律、独立した「主体」などは存在しえないし、権力闘争に敗れた後に、主人に「屈従」することで満足させられている「奴隷」としての「自己の存在意義」などというものは、結局のところ「主人」からの得られるはずもない承認によって支えられている架空のもの、所詮は自己満足にすぎないのである。
 したがって、主人と奴隷のような関係性をその役割として担わされている男と女というジェンダーカテゴリーが、われわれの性に結びつけられているかぎり、男女が互いに支配と屈従という関係性を脱して、相互承認というユートピアに安らぐことなど不可能である。相補的な役割を担った男と女は、へーゲルがみた主人と奴隷のように、相手を所有することによって支配するか、相手に一身を捧げて尽くし、相手にとってのなくてはならない存在になることによって相手を支配するかという、まさに支配をめぐる権力闘争を繰り広げることになる*22
 このような権力闘争の場から、男女の関係性を解放するには、男女が互いを異なる存在でありながらも、互いを互いの存在の手段として支配し合うことではなく、互いが「異なる主体」として存在していることを認められるようにならなくてはならない。それには、「支配」ではなく「つながり」によって互いの存在を認識するというように、男女が間主観的*23な人間関係を取り結んでいくことが必要である。つまり、その必然として男女の関係を「主体」と「対象」による支配―屈従関係に帰結してしまう近代的自己像について、われわれは、もはやその限界ともいうべき不備を認めなくてはならない。そして、この近代的自己の限界を超えるためには、ジェンダーを対極的かつ相補的な役割を担うものとして規定しているジェンダー二元論的思想から解き放す、という文化的変容の実現に向けての働きかけが必要がある。また、人のジェンダー形成に大きな影響を与えている幼児期における育児担当者の性別の偏りを解消するためにも、近代以降、産業社会の側からそれぞれのジェンダーに付与され、男女がその生を傾けてきた性役割について、その生産至上主義的性格を認識し、男女ひとりひとりがみずからの生を、定められた性役割に集約させることなく、みずからの感覚にもとづいた生き方を選択することができるようになること、それが必要なのである。
 
 
W 脱共依存的関係性 ―新しい「世話」概念の考察
1 関係性と自己現象
 本論文においてこれまで、共依存を二つの方向から考察してきた。それは、自己の存在について「価値論的安定」を求めるがゆえに、他者を自分の存在についての承認を与える道具としてみるという「他者の手段化」の側面と、その承認を得るために特定の他者に対して自己犠牲的な献身を行ない、自分自身を他者にとってのなくてはならない存在に仕立てあげることによって、その承認を手に入れるという「自己犠牲的献身」の側面であった。この前半の他者の手段化については、「自律的、理性的な存在であるべし」という近代的自己像との関連において、また後半の自己犠牲的献身については、近代以降の産業社会において「自律的、理性的な自己像」が男性のものとされる一方で、その相補的な役割を担うものとして女性の性役割とされてきた「世話役割 care role」との関連においてそれぞれ考察を行なった。その結果、現代社会において人びとが共依存的関係性に陥っている原因としての「近代的自己像が内包している不備」、すなわち、理性的、自律的自己像のもつ偏りとジェンダーカテゴリーに組み込まれている支配関係が明らかになった。
 それではここで、「近代的自己像が内包している不備」の結果としての「他者の手段化」と「自己犠牲的献身」という、共依存概念において問題とされる二つの現象をいま一度考えてみると、そこにはある共通点を見出すことができる。それは、人間が自分自身について、つまり自己を認識するときの「関係性の限定性」とでもいうようなものである。すなわち「他者の手段化」においては、他者によって承認を受けた自分は真の自己となりうる、というように自己現象を他者との関係のなかのみで成立させている。また一方の「自己犠牲的献身」においても、「世話」という行為そのものが、世話を受ける側である「他者に焦点づけられた行為」にほかならず、そのような役割を担う人間の行為の適否はつねに、世話を受けている相手の満足、という「他者の判断によって評価される」という性質をもつ。それだけに「世話」役割にみずからの生を投入するということは、その自己現象をも他者との関係のみに集約させてしまう危険性を孕んでいる。
 その「自己を自己たらしめている関係性」の限定性に気づき、あらたに多次元的な関係性のなかに存在している自己、つまり「多次元的な自己存在*24」を受け入れるとき、共依存からの回復の方向性は、近代的自己像がもつ不備を破棄し、新たな自己現象を手に入れるためのひとつの方向性として現実味を帯びたものとなる。このように自己を、多次元的な関係性における現象として再定義しようという動きは、嗜癖 addiction*25 からの回復に唯一効果があるといわれているAAをはじめとする自助グループにおいて実践されている、12ステップ*26のなかにも現われている。以下において、その実践が意味するものを探っていく。
 12ステップには「自分自身よりも偉大な力」「自分で理解している神、ハイヤー・パワー」「霊的に目覚め」というような表現が繰り返し使われている。しかし、ここで表現されているものは、キリスト教などの特定の宗教の神ではなく、一般的に「人間的な力がおよばぬものでありながら、みずからの存在に決定的な影響を与えているような存在」つまり、「超越」とでもいうべき存在である。このような「超越」的な存在を想定することによって、嗜癖者はそれまで嗜癖対象と自分という閉ざされた関係のなかのみで把握し、規定していた自分自身を、開かれた世界へと解放するためのきっかけとすることができる。みずからの存在を自分自身の掌のなかから解放すること、そうすることによって人は、「自分自身をみずからの力によって律するべきである」という近代の自律神話によって強いられてきた、独立した自律的、理性的な自己でありつづけなければならないという強迫観念から解放されるのである。
 また、12ステップのなかの「神に対し、自分自身に対し、もうひとりの人間に対し、自分の誤りの正確な本質を認めた」という部分からは、自己現象を多次元的にとらえることによって、嗜癖からの回復をめざそうとする意図が読み取れる。その自己現象の多次元性という点において、人間の存在構造を体系としてとらえようとした鈴木亨の「響存哲学」における、人間の自覚の構造を考察してみたい。西田幾多郎を批判的に継承する鈴木亨は、「自己が自己を知る」ということ、すなわち「自覚」という現象を徹底的に分析することによって、人間の自己の構造をとらえようとした。
 
   いわゆる自覚とは単に「自己が自己を見る」主観的自覚を意
  味するが、それは真の自覚と言えないのであり、自己が真に自
  己を意識するためには自己がなんらかの意味において自己の外
  に出るのでなければならない。さきの主観的な自覚においてさ
  え、なんらかの意味で自己が自己の外に出るのでなければ自己
  を見ることはできないのである。(鈴木[1982:26])
 
 このように、人間が自分自身という存在について把握するためには、一旦、自己の外に出ることが必要であり、それは言い換えれば、「自己が他者において自己を見る」というような様式において可能となるのである。
 さらに、鈴木亨はこの「他者において」という部分を分析し、「三つの他者」において自己を見る、つまり三つの他者とかかわることによって真に自己を自覚しうる、という結論を導いている。その「三つの他者」とは、「超越」、「他の人間」、「人間を取り巻く自然」の三者であり、これら「三つの他者において自己を見る」ということは、みずからの自己現象をこれらの三者に照らして把握するということを意味している。つまり、人間はみずからの存在を、「超越とのあいだにおいて」「他者とのあいだにおいて」「自分を取り巻く自然とのあいだにおいて」という三次元において現われる自己現象の総体*27としてとらえる必要があるということである。
 
   この超越と自然と人との三者に対することによって人間的主
  体が成立するのであるが、人間主体が真に主体的であるのはみ
  ずからの自覚によるのであり、自己はこの三つの他者に関わる
  ことによって本当に自己を自覚するのである。すなわち「自己
  が他者において自己を見る」自覚の、上への超越に関わる関係
  が実存的自覚*28であり、汝的他者に関わる関係が社会的自覚で
  あり、外なる自然的他者に関わる関係が生産的、交通的自覚と
  しての労働的自覚*29である。(鈴木[1982:26])
 
 人間の自己をこのような多次元的な自己現象として理解するとき、関係性嗜癖である共依存者はみずからの自己を、特定の汝的他者との関係のみにおいてとらえているのであって、それはここでいうところの、実存的自覚や労働的自覚のないまま社会的自覚においてのみ自己をとらえようとしていることにほかならない。すなわち、特定の人間との関係のみにおいて自己を規定しようとして、そこでの関係に固執するという共依存的関係性からの脱却のためには、まず、自己の多次元的存在性を認識することがその第一歩となる。
 また、みずからの存在の根源をみずからに求めることによって始まった理性的自律的な近代的自己像は、それ自体が自己の多次元性の拒否のうえに成り立っていたともいえる。つまり、近代以降において人間は、みずからが唯一の「主体」となることによって、自分を取り巻く環境(人間も含む)を「対象」とみなし、その「対象」への働きかけによってみずからの存在性を示そうとする。このように環境とみずからとの「つながり」を忘れ、何ものかとのつながりのただなかにおいて「生きている存在」として自分自身を認識するのではなく、自力で「生きていく」存在であろうとしつづけていかなくてはならないというところに、近代的自己の限界をみることができる。「共依存」という関係嗜癖の問題も、そのような「つながり」を忘れた近代的自己が、みずからの存在を証明するために、他人との「つながり」を確保しようと必死になっている姿なのである。
 
 
2 自己への配慮
 ここまで、共依存的関係性に陥る要因としての自己現象の限定性について考察を進めてきたが、最後に、他人の必要にみずからを集約させていくという、もっぱらその「自己犠牲的」な側面についての危険性のみを取り上げてきた「世話」行為について、いま一歩深い考察を試みることにする。なぜならば、「世話」行為が「自己犠牲的」にならざるをえないものであるからといって、われわれは「世話」行為自体を拒否できるものではない。「世話」行為そのものについての考察を欠いたままでは、今後の超高齢社会において、また障害をもつ人びととのかかわりにおいてなど、実際に何らかの「世話」が必要な人びとにたいするわれわれの関係のあり方がみえてこない。したがってここでは、そもそも「世話」行為がどうして「共依存」的関係性に結びついてしまったのかを考えながら、今後われわれが脱共依存的な自己のあり方としてめざすべき方向性としての脱共依存的な「世話」行為を明らかにする。
 本来、人間が生きていくうえで必要不可欠であり、誰もが自分自身の生命をつないでいくために、生きていくうえで実践していた、世話、養育、配慮という「世話」行為が、もっぱら「他者の欲求を満たすための行為」とみなされるようになってしまったのはなぜだろうか。その原因は、生産領域と、再生産領域とに男女の役割遂行の場を分けるという性別役割分業観のもと、「世話」行為が再生産領域で行なわれるものとされ、人間ひとりひとりの直接的な生の営みから切り離されてしまったところにあるのではないだろうか。すなわち、誰かの手によってなされることが当然視されることによって、人間のひとりひとりがその生の営みと不可分のところで為すべきものであった「世話」行為が、「与えられたり、与えたり」するものになってしまい、ついには、自己存在の証明のための道具的手段として使われるに至ったのである。
 『自由の実践としての自己へのケアの倫理』というタイトルでまとめられた、フーコーへのインタビューでは、「世話」と「他者」と「自己犠牲」との関係において、これまで「他者の欲求を満たす行為」としてとらえられてきた「世話」行為を、「自己への配慮」という視点からとらえなおすという視点をわれわれに与えてくれる。
 
   ギリシア・ローマ世界において、(中略)自己への配慮とい
  う主題が本当にあらゆる倫理思想に行き渡っているとわかるは
  ずです。他方、われわれの社会では、歴史のある時点から始ま
  って ― それがいつ起きたかをいうのは難しいことですが ―
  自己への配慮は、いささか疑わしい何かとなったのです。自己
  に配慮することは、ある時点で、他人に示すべき配慮や必要な
  自己犠牲と対立する、一種の自己愛、一種のエゴイズム、個人
  的利害関心であると、すすんで告発されたのです。
  (Foucault[1987=1990:23])
 
 このようなフーコーの指摘は、フェミニストによる「配慮を示す側」からの告発のなかにもみられるものである。女性役割としての「世話」や「配慮」は、それを与える相手として、男性や子ども、高齢者*30などが想定されているが、同様の「世話」行為を女性がその女性自身に対して行なうことは、許されない。そのような女性は、自己中心的であるとか、女の本質からして不自然であるとして、逸脱者というレッテルを貼られてしまう*31。このように「自己への配慮」と「他者への配慮」が両立しえないもののようにとらえられる不自然さを、フーコーは問題にしているのである。そして、この問いに対する答えは以下のように発せられている。
 
   自己への配慮に先立って他者への配慮をすることは、許され
  ません。自己への配慮は自己への関係性が存在論的に先行する
  かぎりにおいて、道徳的に先行するものなのです。
  (Foucault[1987=1990:29])
 
 すなわち、ここで指摘されているような「自己への配慮に先立った他者への配慮」という、自己の多次元性についての認識を欠いたうえでのきわめて限定的な意味における「他者への世話」こそが、これまでその危険性を指摘してきたような「自己犠牲的な他者の世話やき」という共依存的な関係性のとり方にほかならない。ここでフーコーが指摘している「自己への配慮」とは、明らかにエゴイズムや利己的自己愛とは異なるものである。それは「自己への責任」とも置き換えが可能な概念であり、そこに多次元的に広がっている自己存在を全体として認識し、その存在に責任をもつことができて初めて、人は自己の存在のために他者を手段として消耗してしまわない「他者への配慮」の実践が可能になる。「自分自身のことを考えることによって、他の人びとのことを考える」という他者とのつながりの感覚をもつことができてこそ、他者への配慮は、真のものとなりうるのである*32
 また、フーコーが指摘しているような「自己への配慮」の必要性は、 E.フロムの「自分自身を愛することと他人を愛することとは、不可分の関係にあるのだ(Fromm[1956=1991:94])」という主張からもうかがうことができる。フロムは「利己主義と自己愛とは、同じどころか、まったく正反対である(Fromm[1956=1991:97])」と述べ、自己愛、つまり、自己への配慮を欠いた利己主義のもつ危険性を以下のように指摘している。そして、そこにあるのはほかならぬ共依存者の姿そのものである。
 
   非利己主義は「症候」とみなされていないだけでなく、そう
  した傾向をもつ人びとはしばしばこれを良い性格特徴として誇
  りに思っている。「非利己的な」人は「自分のためには何も欲
  しがらず」、「他人のためだけに生き」、自分自身を重視して
  いないことを誇りにしている。ところが、非利己的であるにも
  かかわらず幸福になれず、また、ごく親しい人びとの関係にも
  満足できないので、当惑している。(Fromm[1956=1991:98])
 
 では、「自己への配慮をすることによる他者への配慮」という、脱共依存的な他者との関係のあり方とは、どのようなものとして現われるのだろうか。『ケアの本質』を著わしたM.メイヤロフは、世話をする「私」と世話を受ける「彼」の関係を次のように描写する。
 
   私は彼に恩きせがましいこと(彼を見下したり、私の下に置
  いたり)もしないし、彼を偶像視すること(彼を見上げたり、
  私の上に置いたり)もしない。要するに、私たちは同一のレベ
  ルで生きて働いているのである。もっと正確に言えば、私はそ
  のレベルについても意識しない状態にいるのであり、いわば、
  レベルが異なっているかどうかで物事を見ることを超越してい
  るのである。彼と私は共にその存在を是とされており、どちら
  か一方の犠牲のもとに他方が存在するものとして受け容れられ
  ているというのではない
  (Mayeroff[1971=1987:95] 下線:引用者)
  
 このように脱共依存的な「他者の世話」とは、それぞれに生を受けた異質なる者が、それぞれの生を生きていくうえで、互いに人間として「共生」していくということにほかならない。他者はその他者が本来もっている権利ゆえに、そこに存在しているのであって、それをあるがままに認めること*33。相手のもつかけがえのない独自性、また同時に自分自身のもつ独自性をしっかりと認識し尊重すること。こうした「異なっていながら、同時に一体をなしているような関係」こそが、脱共依存的な自己他者関係なのである。このような関係性のことをメイヤロフは「差異のなかの同一性 Identity-in-Difference」と呼ぶ。それは「お互いの独自性と統一性が、それぞれ尊重されるような合一」であり、それゆえ「私たちの独自性が失われてしまえば、ケアすることも不可能になってしまう。他者へのケアをすることにより、また他者を他者たらしめるべくたすけることにより、私たちは存在している(Mayeroff[1971=1987:196-197])」のである。ここでもまた、「自己への配慮を基礎とした他者への配慮」の重要性が指摘されている。
 
 
3 脱共依存的関係性のために
 脱共依存への方向性としてこれまで考察してきた、「自己を多次元的な存在として認識すること」と「自己への配慮の必要性」という二つの問題を、今度はわれわれの生活のなかでの実践的水準に置き換えてみることによって、現在、そのような視点をわれわれが失っていることの理由、すなわち、人びとが共依存的関係性に陥っている原因としての近代社会の歪みと限界とを再度明らかにして、本論を閉じることにする。
 共依存者はみずからの自己について、その多次元性を認識することができず、「あるがまま」の自己を把握することができない。それゆえ、みずからの存在の意義を外界に求め、何かしら「価値ある」がゆえに自分は存在しているのだという実感を得ようと必死になる。人びとがこの多次元性についての感覚を失ったのは、近代的自己がみずからの存在の拠り所として、他でもない、自分自身にその起源を求めたときからである。近代的自己は自律的、理性的であるがゆえに、みずからの生をその手中に納めることを許された。また、みずからの生を自分自身の思うがままにすることが可能だからこそ、人間は近代になって初めて、何ものからをも束縛されない自分自身の「自由」を手に入れた。しかし、何ものかとの「つながり」において自分自身を認識することを忘れ、言い換えれば、自分と外界との「つながり」を失っていった近代的自己には、今度は、その失ったものを「外側から」取り戻さなければならないという必要が生じてきたのである。
 そこで、「つながり」から解き放たれ、「つながり」のただなかに「開かれて」在る自己存在という自己の多次元性についての認識を失った多くの個人は、みずからの存在の意味を手に入れようとして、他者にその「つながり」を探し求める。そして、自分の存在に価値を与えてくれるもの、自分の存在を必要としてくれるもの、自分の存在の意義を規定してくれるものとして、つまり、みずからの存在についての承認を引きだすことのできる手段として他者を扱い、他者との関係を結んでいくのである。このときの自己と他者との関係性は、互いの独自性を尊重したうえでの、異なる主体同志の相互行為にはならず、一方の主体が道具的に他者を消耗していることにほかならない。そこでの行為の表面的な現われ方がどうであれ、他者をみずからの目的のために道具として利用しているかぎりにおいて、それはきわめて自己中心的な利己的人間関係といわざるをえない。
 また、多くの共依存者たちが決定的に衝撃を受けるのが、それまで自分は他者に対して「みずからの人生もかえりみず、これほどまでに尽くしてきたのに」なぜ、それではいけないのか、という疑問である。共依存者たちは「自分を犠牲にして他者に尽くす」というみずからの行為の背後にある、自己中心的な他者操作的なもくろみに気付いてはいない。女性にとってこの問題は、性役割の問題と結びついており、それだけ一層難しい問題として目の前に現われる。この問題の解決のためには、もともと他者のために献身的に生きるべしとされてきた、つまり「世話の倫理」に従って生きることを強いられてきた女性たちを、その性役割から解放することが必要であることは、これまでにも述べてきた通りである。
 それと同時に、そのような世話の倫理を女性固有のものとして、もっぱらその女性の手による「世話」を享受する立場に甘んじていた男性たちは、ここで立ち止まって考える必要がある。近代産業社会の発展を支える労働者として扱われているのがたとえ「男個人」であったとしても、実際には、相補的な役割を担わされた男女一組で「一労働力」として想定されている。そして、公的領域としての市場からは見えない家庭という私的領域に、市場にとって必要不可欠なはずの「労働力の再生産」という役割が暗黙のうちに割り当てられており、その役割は男が稼いできた賃金によって「養ってもらっている」女が、「愛のための労働」として担っているのである。このとき、市場労働者として働く女の労働力を再生産してくれるのは一体誰の役目だというのだろうか。
 男性はこのような産業社会における性別役割分業にひそむ支配と被支配の関係を認識し、そのような支配的立場ゆえの恩恵を受けることによって、みずからの労働者としての社会参加が可能になっているのだという事実に気付く必要がある。そして、労働者としてもっぱら市場に身を投じている自分自身については、労働者という存在はあくまでも産業社会のなかの「市場」という公的領域における一道具にすぎないのだ、という自分の社会的位置を認識すべきである。自分自身の世話もできない人間に他の人の世話はできない、ゆえに男性が男としての社会的役割のうえにあぐらをかいて、自分自身の「世話」をも他人任せにしているようでは、女はいつまでたっても「母親」であり、男はいつまでたっても「子ども」のままでしかない。共依存的関係性を考えるとき、もっぱら女性の自己犠牲的献身という側面のみが問題視されがちであるが、忘れてならないのは、そのような女の差し出す「自己犠牲的献身」を要求し、その「世話」に依存している男の側の問題である。
 これまで、女の本質にかなった仕事とされ、女が一生を投じてきた「世話」行為は、しかし、人間がみずからの生命を維持していくうえで必要な行為である*34。男性もみずからの「人間としての生」を考えるうえで、「世話」行為について、自分自身にかかわることとして取り組み、考え始めていい時期にきている。自分自身の世話をすることから他者にたいする配慮の可能性が生まれるのだとしたら、男性はみずからの生活から「世話」という営みを切り離すべきではない。また、「世話」という人間らしい営みをみずからの生として引き受けることによって、これまで近代産業社会の発展のための生産至上主義にからめとられていた男女ともの、新たな「人間」としての生の可能性、つまりは脱共依存的な生の可能性がみえてくるのである。
 
 「二人三脚」という言葉は、これまで夫婦の望ましい関係を形容する言葉として好んで使用されてきた。しかし、「二人三脚」というのは、実は前に進みにくくされた歩き方である。二人の足をひもで結ばずに、一方が休みたければ休み、ときには片方が背負い、二人で共に走ったり、追い越して相手が来るのを待ったりと、二人がそれぞれの足で、そしてそれぞれの歩幅で歩いて行けるのが、今後、われわれがめざすべき、脱共依存的な男女ともの生のあり方なのである。



*1 「男は市場での労働(賃労働)、女は家庭での労働(家事労働)」というのが代表的な性別役割分業観である。また、性役割 gender role とは性別にそって社会から期待される役割であり、それを遂行するうえで要求される適合的な性質が、それぞれ「男らしさ」「女らしさ」と規定される。
 
*2 一般的にフェミニズムの流れは大きく二つに分けられる。19世紀末から20世紀初頭にかけて全世界的に展開された、婦人参政権運動などに代表される「女権拡張運動」を第一波フェミニズム、またそれから約半世紀後の1960年代末から70年の初めに「ウーマン・リブ」として、主に女役割への異議申し立てを中心に噴出したものを第二波フェミニズムという。第一波フェミニズムの運動の目標であった婦人の参政権獲得が、20世紀前半にはほとんどの国々で現実のものとなり、第一波フェミニズム運動も鎮静化したが、法的権利の獲得だけでは、実際の性差別はなくならなかった。「このように、法的権利などの形式的平等ではなく、実質的平等の確立をめざして台頭したのが、『フェミニズム運動第二の波』である。(江原[1995:143])」
 
*3 本論一章にて、このような近代的自己像について論じている。
 
*4 マルクス主義フェミニストは、マルクスが男女の性別役割分業を男女の身体的差異に基づく「自然」な分業とみなしていた点を指摘し、その「自然」であるとされ、不問のままにされていた性と生殖の領域を、あらためてマルクス主義に組み入れることによって、マルクス主義の限界(市場の限界)を乗り越えようとした。(上野[1990:22-23])
 
*5 ここでは、資本主義体制か社会主義体制かということは問題にしていない。なぜならば、資本主義は自由競争の精神に基づいた産業社会であり、社会主義は国家によって管理された産業社会ととらえることができるからである。
 
*6 上野千鶴子は「再生産」労働について詳しく分析をし、産業社会と性役割の関係について次のように述べている。「女性はいつでも再生産者であると同時に生産者でもあった。同じように、男性もまたいつの時代も生産者であると同時に再生産者でもあった。ただ産業社会だけが、生産と再生産の性別配当を通じて、女性の再生産労働をマキシムに、そして男性の再生産労働をミニマムにした特殊な社会なのである。(上野[1990:86])」
 
*7 「家事労働」が何を指すかについての厳密な定義は非常に困難である。マルクス主義フェミニズムの立場をとる上野千鶴子は、家事労働を自分自身の再生産(他人に委ねることができるものとできないものにさらに分かれる)と他人の再生産(子どもの養育を含めた、生殖)とに大きく分類した。そして、自分自身では行なうことができない、つまりは他人に委ねられなければならないという理由から、他人の再生産である「子どもの世話」を家事労働の中核とみなした。(上野[1990:22-25])しかし、実際の性別役割分業において、ここでの「他人に委ねることができる自分自身の再生産」という、つまりは、家族生活の衣食住を具体的に支えるものとしての家事労働も積極的に女性の性役割とされている。
 
*8 A:男 B:女 C:賃労働 D:家事労働 とする。
  A=C B=D C>D のとき、A>B となる。
 
*9 I.イリイチは、このような市場労働が市場外の労働に依存しているという事実を明らかにし、しかも、この市場外で営まれている労働が、不当にも賃金を支払われていない労働、つまり「不払い労働」であることを指摘し、「シャドウ・ワーク」とネーミングした。
 
*10 T.パーソンズはアメリカの核家族における夫婦の役割について、男女の役割分業は「生物学的な性別に従って配分されている(Parsons[1956=1981:44-45])」つまり基本的には、子どもを生み、哺育をするという女性の生物学的「本質」に従っており、それゆえ女性は表出的、男性は道具的な役割を担うのだと主張している。このように性役割を、男女がその本質に従って、相互補完的な役割を担っているとする見方からは、性別役割分業が孕む権力関係の事実は見えてこない。
 
*11 落合恵美子は近代家族の分析を行ない、以下の8つの特徴によって近代家族を定義している。(1)家内領域と公共領域の分離 (2)家族成員相互の強い情緒的関係 (3)子ども中心主義 (4)男は公共領域・女は家内領域という性別分業 (5)家族の集団性の強化 (6)社交の衰退 (7)非親族の排除 (8)核家族(落合[1989:18])
 
*12 T.パーソンズはこの点について、「夫は地域社会において『良い地位』を獲得できる、『良きかせぎ手』であることが期待されている。他方、妻は夫婦のために調和ある心地よい家庭をつくりだす中心となり、人間関係の技量を発達させるよう期待されている。つまり『愛嬌のある』、『魅力のある』ように期待されているのである。」と述べている。(Parsons[1956=1981:225])
 
*13 近代社会において、「何者かである」という存在論的な理由のみによって、みずからの存在についての安定感を得ることができなくなった近代的自己が、「何かをしうる者である」という価値論的な理由に求める、みずからの存在の安定感のこと。(本論文一章 T「個体」概念の誕生 ―存在論的安定から価値論的安定へ)
 
*14 「ケア」という言葉には care about「気にかける」と care for「面倒を見る」という2つの意味合いが含まれている。日本語では前者は「配慮する」、後者は「世話をする」というニュアンスに近い。しかし後者の言葉によって前者の意味合いも含めるような場合も多く、この二つの概念は非常に分かち難いものであるので、本論文では両義的に使用している。
 
*15 また高齢社会においては、この夫や子どもの世話をするという役割に加えて、親の面倒を見るという介護役割の負担が加速度的に増加していく。ここに挙げる「寝たきりになったときに誰に介護を頼むのか」についての調査結果も、女性と「世話」役割の密接な関係を表わしている。

単位(%)

配偶者

息子


子全員


家政婦

その他

総数

52.1

3.7

13.8

3.5

6.9

1.9

18.1


75.0

3.4

4.5

1.8

2.5

0.8

12.1


 

33.6
 

4.0
 

21.4
 

4.8
 

10.5
 

2.9
 

22.8
 








 
※その他とはホームヘルパー、老人ホームの施設などに、その他、わからないの回答を含めた数値の合計である。また、家政婦の項目は家政婦を雇うという意味である。
(総務庁長官官房老人対策室編『長寿社会と男女の役割・意識』1990)
 
*16 本論文の後半において明らかにしているが、このようなギリガンの指摘による男女の道徳観の相違は、男女の生物的本質的な思考様式の相違に由来するものではない。
 
*17 本文において前述している通り、ギリガン本人は確かに、女性が従っている「世話の倫理」の価値を上げることを主張したが、それに加えて、「責任と権利のあいだの緊張関係が、人間の発達の弁証法を支える柱を理解することは、(結局は結びつくことになる)二つの異なる様式の経験の統合をみるということです。(Gilligan[1982=1986:305])」と述べ、「世話の倫理」において中心となる「責任」と「正義の倫理」において中心となる「権利」という二つの視点の統合によって、人間はより成熟した発達をとげることができると主張している。
 
*18 実際に、これまでのフェミニズムの流れのなかで、女性性=自然性を積極的に評価し、「母性」すなわち、女性の担う出産、育児、家事などの役割の価値を高めることによって、社会における女性の価値の上昇を実現しようとするエコロジカル・フェミニズムと呼ばれる動きがあった。また、このような男女の役割分業を自然で不可避のものとしたうえで、「女性的な価値を評価する」という思想を、一般にジェンダー保守主義と呼ぶ。
 
*19 ベンジャミンは、ストラー Stoller, Sex and Gender やファスト Fast, Gender Identity: A Differentiation Model などの著作を挙げて「最近の研究と理論は、ジェンダー自我は生後ニ年の間に発達し、三歳になるまでにほぼ確立している(これはフロイトの想定より、はるかに早い時期である)という点で、見解の一致を見ている。(Benjamin[1988=1996:139])」と述べている。
 
*20 ベンジャミンは、「個人的人格とは他の主体的人物たちとの関係のなかで、またこの関係を通じて生まれるものだ(Benjamin[1988=1996:31])」という間主観的見解について、この間主観性の概念は、個人の能力と社会的行動圏を示すものとして「相互理解の間主観性」という表現を用いたハーバマスの社会理論(1970年)に起源をもつとしている。
 
*21 ベンジャミンはその理由として、「父親自身が彼の母親との同一視を解体し、その後も女との差異を主張する必要に駆られ続けているため、彼には、娘を承認することが、息子相手の場合よりもはるかに困難になる。父親は娘を、美しく愛らしい物、誕生したばかりの性的対象とみなしがちになる。(Benjamin[1988=1996:151])」という親の側の同一視の問題を挙げている。
 
*22 このような主人と奴隷の権力闘争は、すなわち、共依存的関係性においてくりひろげられる「他者へのコントロール欲求」に焦点づけられた権力闘争にほかならない。
 
*23 「人間が他者からいかに自由になるかではなく、人間が他者との関係にどのように参画し、自分を他人に認識させるか(Benjamin[1988=1996:29])」という点を重視した考え方。つまり、人間存在をあくまで他者から切り離されたものとして、他者への依存を拒否することによって成立するものとして認識するのではなく、むしろ、自己と他者との相互作用のなかから生じる人間の能力に注目している。
 
*24 ここでは、既出の「多元的な自己存在」という言葉によって表わしているものと区別するために、「多次元的な自己存在」という言葉を使用している。本論文において「自己の多元性」とは、多様な他者との関係において現われる自己存在の多様性を示している。また、「自己の多次元性」とはその自己-他者関係における自己認識という次元をさらに超え、人が自己を認識する際の「関係性の多様性」ともいうべき、空間的な広がりをもたせた言葉である。
 
*25 「共依存」は「関係性嗜癖」と定義される。ここでの「嗜癖」という用語は広義において使用しており、アルコール依存症などの物質嗜癖などを含む、強迫観念にとらわれて行なわれる、行為者の快体験を伴う強迫行為を指す。
 
*26 序章脚注にて既出
 
*27 このような自己現象の多次元性について上田閑照は、河合隼雄との対談のなかで次のように述べている。自己の「あらわれとしては『あいだ』なんだけども、決め手になるのは何かと何かのあいだというよりも、そういうものが全部『於いてある』開かれた場所だと思います。ですからそのためには、いったん自己が開かれなければだめですね。そして開かれたものがまた統合される。統合されるときには、今度はもうその場所にいっしょにあるもの全体がまとまって統合される形になるわけです。(上田/河合[1995:18-19])」
 
*28 「実存的自覚」とは、人間精神の有限性ともいうべきものであり、それは「無限なるものによって限定され、生かされてはじめて真に存在しうるもの(鈴木[1982:47])」と説明される。そしてここでの「無限なるもの」こそが、鈴木亨によって「超越」という言葉によって表現されているものである。また、鈴木亨はこの「実存的自覚」の重要性について、ハイデガーの唱えた「人間 Dasein と存在 Sein 」の関係をまとめて次のように述べている。「人間はもともと存在によって贈られて在る es gibt にもかかわらず、その自己の根源である存在を忘却することによって、人間が自分たちだけで立つものであるかのように錯覚しているにすぎない。それが近代的人間の普遍的な本質として把えられている理性的動物 animal rationale にほかならないのであり、そこでは人間の真の本質はまったく隠されている。実存哲学はそれを根底から明らかにしてゆく作業の学だと言えるであろう。(鈴木[1982:37])」
 
*29 鈴木亨はこの「労働的自覚」について、人間を取り巻く自然(物・生物)とのあいだにおける自覚であり、「そこにおいて人間は外界としての物や生物に対して、それを加工し bearbeiten、育成し、保護することによって自己の生存を確保する。それが労働であり、技術的実践に他ならない(鈴木[1982:24])」と説明しているが、花崎皋平は鈴木亨の労働概念は、あくまでも「物をつうじての技術的、経済的」なものについての言及であるとして、「労働=物の生産」という視点からは見えてこない「再生産」領域についての考慮の必要性と、鈴木亨のジェンダー的視点の欠如を指摘している。(花崎[1996:110-111])
 
*30 Nancy R. Hooyman と Judith Gonyea は家族内で行なわれている「ケア」について、さまざまな調査結果を分析しており、「ケア」を受ける対象として、高齢者や障害者の場合についても言及をしている。そこでは、カップルが家事と育児の責任を分担するとき、女性は繰り返しのルーティーンワークをし、一方、男性は不規則な決まりきっていない仕事を選ぶというジェンダーに基礎づけられた分業の傾向が、家族のなかに障害者がいる場合にはより一層強くなることを示している。障害をもった子供の親のジェンダー役割は明らかであり、母親が直接世話の担当者であり、一方父親はその支援者である。家族は父親の支援を3つ定義しており、それは「経済的支援」「母親の世話労働を認め、感謝すること」「喜んで世話の問題についての議論に応じること」である。この3つをする父親は、とてもよい支援者であると見なされるが、実際には、子供の世話から生じる母親たちの関心に、父親の注意を向けるのは、非常に困難であるという調査結果が出ている。母親役割を担った彼女たちは、父親の仕事の方が自分たちの「ケア」労働よりも価値があると考えており、おまけに、彼らに対しても感情的「配慮」を与えなければならないという必要性を感じているのである。(Hooyman[1995:127-128])
 
*31 共依存概念をジェンダーの抑圧の結果というコンテクストのなかで再配置するべきだとする Karen M. Lodl は、次のように主張している。「われわれは確かに世話の倫理にしたがって行動するという能力によって養ってもらっている。われわれ女は他人の物質的感情的必要に対して敏感に気付くように社会化されているのだ。しかし、家父長制のなかで、男性や子どもへの直接的なサービスのなかで使うときだけ、この能力は政治的に受け入れられている。この優れた水準の世話を、自分自身や他の女性に対して行なう女は、自己中心的とか不自然とか病気と見なされる危険性があり、またこの水準の世話を男や子どもに対して行なうことを拒む女も、自己中心的で不自然で病気だといわれるのである。(Lodl[1995:211])」
 
*32 この点に関して、「ボランティア活動」を考えるとき、人びとは何のために、何を期待して、ボランティア活動という無償の労働を自発的にするのかという疑問が生じる。ボランティア・ブームともいわれ始めている昨今、「日頃の生活では感じることのできない、やりがいを求めて」とか、「自分の労働を実際に目の前で必要としてくれ、喜んでくれる人がいるから」という理由を若者が口にするのを聞くたびに、筆者はそれを両手を挙げては喜べない複雑な思いを抱く。自己犠牲的献身がもっている「他者の道具化」という側面は、高齢社会となった現代において、われわれひとりひとりがみずからに問うていかなくてはならない問題なのではないだろうか。今後の筆者の研究課題として、この「世話」や「介護」の問題と、それを担う人間の生についての関係を、社会政策の問題とも絡めて探究していくつもりである。
 
*33 このように「信頼」を基礎にして「自己や他者の存在をあるがままに認める」というのではない場合、つまり「長所があるから愛されるとか、愛される価値があるから愛される」という認識をもっている場合の危険性について、フロムは次のように指摘している。このような場合「ひょっとしたら自分は、愛してもらいたい相手の気に入らなかったのではないか、といったあれこれの疑問が残り、愛が消えてしまうのではないかという恐怖がたえずつきまとう。しかも、愛されるに値するから愛されるといった類の愛は、『ありのままの私が愛されているわけではないのだ』『私はただ相手の気に入ったという理由だけで愛されているのだ』『要するに私は愛されているのではなく、利用されているのだ』といった苦い思いを生む。(Fromm[1956=1991:70])」そして、このように人間の存在についての信頼感や肯定感がないということは、自己現象の多次元性についての認識が欠如しているということであり、そのような場合には、容易に他者を「道具」として消耗してしまうような共依存的な関係性を結んでしまうことになる。
 
*34 ここでの「人間がみずからの生命を維持していくうえで必要な行為」というのは、上野千鶴子がいうところの「自分自身の再生産」と同義、つまり、衣食住に関連した生命維持行為のことであって、他人に委ねることができるとできないにかかわらず、自分自身で遂行可能な行為である。